三十二話 理術の塔・十二
ロングソードを鞘に収めたヴァルアスは、血が流れる左腕を押さえながら振り向く。
その表情は勝利の喜びなどではなく、疑心が色濃く浮かんでいた。
エンケ・ファロスは間違いなく隔絶した強さの理術使いだ。加えて天才的な魔導具職人でもある。
塔の三階まででヴァルアスを足止めしていた間に他にも色々とあるのであろう魔導具を仕掛け、長い詠唱の理術を唱えておいて上がってきた瞬間に奇襲をかけていれば、また違った展開となっていただろう。
ヴァルアスとしてはそれでも敗北するつもりなど毛頭なかったが、そうであれば受ける傷の数は左腕の一カ所では済まなかっただろう。
しかしエンケが手を抜いていたかというと、そうとも思えなかった。
高速で流れるような詠唱は目を見張るものがあったし、一度だけとはいえヴァルアスの斬撃を受けたあのローブも負けるつもりで身に着けるようなものではない。
なにより、泰然とした様子の端々から感じ取れた、どこか必死というか切実な戦闘意欲は、間違いなく本物だった。
「お前は……」
振り返った先で虫の息となっているエンケを見て、ヴァルアスは静かに動揺する。
胴体で真っ二つにされた人族は、短い苦悶の後に死ぬ。それは語るまでもない常識だ。
しかし今エンケの上半身は穏やかな表情でヴァルアスを――己を両断した張本人を見つめていた。
さらにいえば、断面から流れ出る血の量も明らかに少ない。まるで、すでにそんなものは枯れていたとでもいうかのようだった。
「ぜひゅっ、かはっ……。みこんだ……とおり……の……えい……ゆう……だっ……ぐぅぅ」
軽く咳き込みながら絞り出されたエンケの言葉は、改めてヴァルアスを称賛する内容だった。
「何を“仕掛けて”いた?」
斬った瞬間の手ごたえを思い出しながらのヴァルアスの問いに、エンケはいよいよ濁ってきた目を開いて驚いた様子を示す。
「なに……くだらない……ものさ…………」
そしてそれだけをいうと、少しの驚きを含んだ穏やかな表情のままで、エンケはとうとう動かなくなった。
ヴァルアスは己の血に濡れた右手の平をじっと見つめる。
エンケを両断した際の感触。肉と骨以外のものを、何らかの魔力で構成されたものを断ち切った感覚がしたのだった。
感覚がした、というのはあるいは違うかもしれない。
何かある、と気づいた瞬間、ヴァルアスは殆ど無意識下での戦士の本能で、確殺の意思を持ってそれをも破壊した。
おそらくは世に英雄と呼ばれる領域の存在にしか破壊は不可能な恐るべき何か。それをこそ、この理術使いは斬らせようとしていたのかもしれない。
なんとなく、という程度ではあったが、ヴァルアスにはそう思えた。
とはいえ、そんなことを考えて感傷に浸っていても、もう全ては済んだことだ。
「ロコで間違いないな」
「っ!? うんっ!」
改めて投げかけられたヴァルアスからの確認に、離れた場所にいた赤毛の少女は肩をびくりとさせてから慌てて頷く。
「とにかく急いでこの塔を離れる。ワシの近くへ」
「えっ? う、うん……」
おずおずとためらいを含みながらも、ロコは小走りでヴァルアスの近くまで寄ってくる。
初対面の異様に体格が良くて顔が厳つい老人。しかも理術使いを目の前で両断した直後とあっては、怖がるのは無理もない。
その一方で、心細い状況ではこれほど頼りがいのある見た目と雰囲気の老人も、そうそういない。
結果として、おっかなびっくりを絵に描いたようなその態度になったようだった。
だがヴァルアスとしては、そんな子供らしい様子に微笑ましさを感じている暇はなかった。
というのも、三階で魔剣リーフから聞いた言葉を覚えていたからだ。
――この塔はエンケ・ファロス様の理術によって維持されます――
明らかに建築ではなく理術で作成されたといった塔の外見を思い出すに、当のエンケが絶命した今、どうなるかは自明だった。
ズズズズッ
そしてヴァルアスの予想が正解だと知らせるかのように、塔全体が鳴動を始める。
「えっ、えぇっ!?」
「帰るぞ」
目に涙を浮かべて動揺するロコを荷物か何かのように脇に抱えると、ヴァルアスは来た時とは逆に塔を駆け下りていく。
「……」
しかし降り始めてすぐ、三階の中央でヴァルアスは足を止めた。
「どうしたの? 冒険者のおじいちゃん」
「……いや、何でもない」
ヴァルアスは床上に落ちていた砕けた剣から視線を外し、ロコを安心させるように小さな笑みを向けると再び動き始めた。
その後は再び足を止めることもなく、開いていた一階の扉から脱出して距離をある程度離したところで、塔は完全に崩壊し後には山の様な木くずが残るのみとなったのだった。




