回想列車
真っ白な雪が、地平線を覆っている。大気との境界さえ認識できないほどの白銀の世界が、車窓からの眺めを埋めつくしていた。
「切符をお見せください」
帽子を目深に被った車掌が立っている。
「すみません。切符は持っていないんです。ここに運賃はあるのですが」
握っていた三文銭を手渡す。
車掌は両手で包み込むように運賃を受け取った。
「それでは旅の続きをごゆっくりお過ごしくださいませ」
音のない平原は寒々としている。そこに灰色の煙が漂ったかと思うと、列車はトンネルへと誘われた。
いつしか私は眠ってしまったようで、気づけば長いトンネルを抜けた列車は、霙の降りしだく駅で停車していた。
「ご降車なさらないのですか」
駅員に尋ねられた私はかぶりを振った。
「この足をご覧なさい。細く痩せてしまって、歩くこともままなりません。ここで降りたところで、どこへも行かれないでしょう」
再び電車は走り出した。
雲間から光が射し込み、辺りは融雪が泥でまだらに茶色く染まっている。
「海だわ」
荒れ地を抜けて、線路は泥岩の層が堆積した段丘を滑るように蛇行していく。突端には白い灯台がそびえ、遠くの海原には羽を真っ直ぐに伸ばした鳥が飛び交っていた。
トンネルを越えると、車輪は乾いた音をたてた。赤や黄色、それに茶色の枯れ葉が、極彩色の絨毯となって、線路に溢れている。
線路の両端に銀杏並木が途切れることなく、黄金色のアーチとなって、その下には同じくすすきが風に揺れ、きらきらと輝いていた。
やがてこぢんまりとした駅に到着した。懐かしい匂いがする。これは、
「庭に金木犀を植えよう」
「いいわね」
定年後にガーデニングを始めた夫の提案。挿し木をするときには、本当に大きくなるか不安だったけれど、数年後には我が家の風物詩となった。
駅の一角に生えた金木犀は、形も高さも夫の植えたものに似ていた。橙色の花弁から、甘い香りが漂っている。
夫が亡くなって、残された庭木は私一人で世話をするには骨が折れるから、遠くに暮らす息子がハウスキーパーに頼んで伐採してしまったのだけれど、金木犀だけには誰にも手をつけさせなかった。
列車へと戻った私は、普通に歩けていることに驚いた。まるで足腰が丈夫だったころに戻っているみたい。
「それは持っていけません」
車掌に指差され、私はポケットから金木犀の花を取り出した。ホームへ放り投げると、花びらは舞い降り、匂いもついには消えてしまった。
「不思議ね。鮮烈な香りなのに、離れてしまうともう思い出せない」
車輪が動き出す。また長いトンネルが口を開けている。進むにつれて、海鳴りが響いてくる。浜辺の貝殻に耳をすませるときの音がする。
眩しい太陽が、トンネルの出口を切り裂いていた。段丘を下って、電車は海沿いを走っている。砂浜に埋もれるレールを器用に滑っていく。
白い入道雲が山の向こうから湧いている。蝉の合唱がそこここから降り注ぐ。
「この辺りは息子が小さい頃、週末に出かけた場所にそっくりだわ」
虫取の好きな息子を連れて、山の上にある高原へ夫と三人で毎年繰り出した。トンボを追いかけて捕虫網を破いて泣きべそをかく息子が思い起こされる。遠くにある建物は、
「水族館でしょうか」
「ええ、次で降りることができます」
車掌の言う通り、線路は山裾の建物へ繋がっていて、水族館の前で停車した。
「息子は魚も好きで、何て言ったかしら、ヒラヒラとして、尾の長い」
「もし宜しければ、館内へどうぞ。心配なさらずとも、電車はいつまでも待っています」
水槽の中身はほとんど空だった。海草や、岩石だらけで、生き物や魚影は全くない。
私は魚の説明書きを探し回った。
「そうだわ。エイだ。それにしてもあの子は変わった生き物が好きだったわねえ」
水族館の奥にある展示室に、たくさんのエイが遊泳している。エイの群れは、巨大な川のようにも、とぐろを巻いた竜のようにも見えた。
足元には青い帽子が落ちていて、躓きそうになった。それは息子のお出かけするときの、お気に入りの帽子に似ていた。押し入れにしまったのだっけ、それとも捨ててしまったのだろうか。
息子は青い帽子がないと癇癪を起こした。アルバムの写真の息子はいつも青い帽子と一緒だった。
「これも持ち込めないのですか」
「申し訳ありません。置いていってください」
列車の扉の前で仁王立ちする車掌と言い争う気は微塵もない。私はそっと帽子をホームのベンチへと置いてきた。
水族館を発車して、すぐさまトンネルがやってきた。汗ばんだ肌が冷まされていく。暑さは和らぎ、心地よい。
夫のいなくなってからは、日用品の在処や保険の手続きなど、私は任せきりだったことで、どうしてよいか分からずに途方に暮れていた。
見かねた息子は何度も実家と妻子の待つ家を往復してくれた。申し訳なかったけれど、とても助かった。思い出すだけで胸が熱くなる。
列車が停止したのは、薄暗い闇の中だった。トンネルはそのまま地下へと続いていて、仄かな明かりが階段を回折していた。
「次はきっとあそこかしら」
改札を抜けるとき、
「あまり遠くへ行かないように」
車掌の忠告が背後で聞こえた。
階段を駆け上がると、桜吹雪が渦巻いていた。川のせせらぎや小鳥のさえずりが満ちている。
もう何十年も昔だのに、通いなれた道は、歩みを進める毎に当時の記憶を呼び覚ましていく。
校門から程近い公園の桜の樹の下で、詰襟姿の青年たちが卒業証書の筒を片手にはしゃいでいる。誰しも笑みを湛えていて、来る将来への希望に心踊らせている。
「先生も早く、カメラマンが待ってる」
手を引かれた私は、整列した彼らに混じる。
「これからタイムカプセルを埋めに行こうと思うんだけど、何を入れるか先生はもう決めた?」
タイムカプセル。すっかり忘れていた。
「ごめんなさい。私としたことが、そんな大事なことを。そうねえ、どうしようかしら」
通学路の河川敷へと集まった彼らと共に、橋脚の下で穴を堀り始める。一斗缶大の空間に、学生たちは思い思いの品々を放っていく。
受験に使ったすりきれたボールペン、汗の滲んだグローブやボール。懐かしみながら、過ぎ去った日々に別れを告げる。
満杯になった穴を閉じて、
「このあと街で食事をするんだ、先に向かうから、必ず来てよ」
彼らの背中が小さくなっていく、私も急いでついていこうと一歩踏み出した。
遠くへ行かないように。
車掌の言葉が脳裏を過った。私はここに留まっていられないのだ。ゆっくりと踵を返し、来た道を辿った。
地下へ戻ると、車掌は変わらず待っていた。
「間もなく終点です」
車内アナウンスが流れ、トンネルの向こうから静寂が忍び寄ってくる。レールは白いヴェールに包まれている。
ポケットに手を当てると、四角い感触が残っている。タイムカプセルから拝借してきた、生徒からの手紙だ。
雪原の白さよりも、味気ない、真っ白な世界に列車は到達した。もはや温度すら感じられない、色のない平原は、上下左右さえ覚束ない。
「ここが終点なのね」
人生の終着駅とは言い得て妙だ。人は亡くなるときに、これまでを走馬灯として甦らせるという。
車掌も、列車も、全て夢だったのだろうか。私は不安になってポケットに手を当てる。四角い手紙を取り出して開いた。
「やっぱり」
手紙には何も書かれていなかった。確かに記されていたはずの文字は、死んだ人間には要らないということなのか。
足は元のように、細く痩せてしまって、私はこれ以上歩くことが叶わない。
どんなに素晴らしい人生でも、死んでしまったら何も残らない。私の思い出なんて、一体何の意味があったのか。
蹲る私は永遠に閉ざされた無機質な世界に一人ぽっち。
風も、衣擦れの音さえもない。
匂いも、温度も失われた。
私は、誰。
(了)
先が見えないことは、不安になります。
死んでしまったらどうなるのか、眠れない夜もあります。
事実、科学的には何もないでしょう。
蛋白質が分解して、炭化水素が燃焼されて、セラミックが残って。
それでも生きた証はどこかで繋がって、複雑な網目となって繋がっている。
そう信じることは、人に許された最高の幸せだと思ってます。