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幻日譚  作者: 麓城結社
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外伝 上

「いつかわたしを助けてね」

 遠い昔、その人に言われた言葉を今でも折に触れて思い出す。まるで夢の中だったかのような淡く不確かな記憶が頭の片隅にこびりついて離れない。誰かも知らないその人を助ける力が欲しいと願った。とにかく、それが俺が強くなろうと思ったきっかけだったことは間違いない。


 ごく平凡な細工職人の家に生まれた俺の人生が激変したのは12年前、5歳の時だった。サー大陸を襲った未曽有の龍災が、たまたま請け負った大仕事のせいで手が放せなかった両親が高台の僧院に預けた俺を除き、親類縁者もろともに生まれ故郷のハクの街を地図から洗い流したのだ。

 街で働く息子夫婦を持つ僧院の院長は、いつもは豊かな水源を与える水龍への敬虔な祈りを欠かさないその口から、こんどは水龍への呪詛を吐き散らしながら水底の神殿を目指して海に飛び込み、そのまま二度と浮かんではこなかった。

 あの日龍災孤児になった俺は、いつの間にか俺の傍らに立っていたその人に手を引かれてハクを出て、サー大陸を巡ることになった。酷く感情が鈍麻していた俺は、特にその状況に疑問を覚えることなく、人形のようにただ足を動かしていた。

 雨は途切れることが無く降り注いだ。冷たい雨とぬかるんだ道は、5歳児の俺から容赦なく体力を奪い取る。その人はいかにも高そうな分厚い革の上着を俺に与え、俺が歩き疲れればその細い背中に背負い、日に三度几帳面に食事を与え、夜には寝床を整え、そして俺を腕に抱いて眠った。

 水に沈んた街をいくつも見た。旅はどれほど続いたのか。後にあの龍災の記録を紐解けば、当代の魔術師と剣士が龍を調伏するまでには、実に9か月が掛かったと記されていた。ならば俺とあの人の旅もそれだけ掛かったのだろう。

 ついに俺たちはサー大陸において中心的な都市デインにたどり着いていた。ハクの街とは桁違いの規模を誇る都市は、その豊富な経済力を活かして高度に設計された灌漑設備を有し、また耐龍災用の魔術防備を整えていたおかげで、これまで廻った大陸中のどの街よりも揺るぎない街らしくそこに在った。

 デイン市の高い市壁の門には俺たちのように龍災により住む街を失った人々が大陸中から押しかけ、入市を求めて列をなし、その列には終わりが無いように見えた。市のキャパシティは限界を迎えているようで、市壁の周りには入門の許可が降りなかった人々のキャンプがあふれかえり一つの街の様相を呈していた。粗末なテントの中で寒さに身を震わせる難民たちの顔は一様に暗かった。

 どのような魔法を使ったのか、俺たち二人はあっさりとデインへの入門を許可された。市壁を抜けて街に入ると石畳で舗装された大通りには市が立ち並び、店主は粗末な商品を並べて客を呼んでいた。子どもたちは降りしきる雨を避けて、建物のひさしの下で肩を寄せながら遊びに興じていた。それは久しぶりに見る人らしい営みだった。

その人は立ち止まり空を見上げて呟いた。

「ああ、ほんとうになんて長い雨。でも、よかった」

すると出し抜けに9か月間降り続いた雨がぴたりと止み、分厚い雲の切れ間から太陽が差し込んだ。

 心からの安堵をその顔に浮かべ、その人は雨に濡れた石畳に膝をついて俺に視線を合わせた。

「よかった。君を無事にここに連れてこられて」

 俺は言葉もなく、その人の綺麗な顔をただ見つめていた。

「さようなら。ごめんなさい。それでも、いつか私を助けてね」

 その人はそう言って俺を一度強く、声が漏れてしまうほど強く抱きしめてから立ち上がり、日差しを浴びようと路上を埋め尽くす雑踏の中に紛れると、それっきり二度と帰っては来なかった。


 貴女は誰だったのだろう。あのハクの街ではありふれていた龍災孤児のうち、なぜ俺だけを貴女は連れ出してくれたのだろう。なぜ貴女は俺に謝罪したのだろう。俺をひとりデインに置き去りにしたことへの謝罪だろうか。それとも?

 今思い返してみると、疑問は尽きることが無く湧いてくる。しかし俺は故郷を失ったことよりも、両親が死んでしまったことよりも、その人が俺の前からいなくなってしまったことがただ悲しくてたまらなくて、雨が降り始めて以来初めて泣いた。



「ねえ、なんで泣いてるの?」

 日が落ちてからもぽつねんとその場に立ち尽くしていた俺の前にいつのまにかしゃがみ込み、心の底から不思議そうに見上げる少女が言った。

 大陸中に悲しみをばら撒いた長い龍災がついに終わったのだ。デインの陽気なお祭り騒ぎは、これから夜を徹して続く。きっとデイン以外でも、大陸中どこもおなじ。今日ばかりは俺のような年頃の子どもが日が落ちてから遊び歩いていても怒る大人はいない。そんなおめでたい空気の中、悲しそうに泣く俺はいかにも浮いていたことだろう。

「もしかして迷子になったの?」

 その子に言おうと思った。あの人がいなくなってしまったんだ。そして気が付いた。ついさっきまで俺と一緒にいてくれたあの人の名前が思い出せなくなっている。顔を思い浮かべても、イメージはするりと頭の中から逃げ出してしまう。それが無性に悲しくて、俺また火が付いたように泣き出した。

 少女はとても困った表情をした。

「仕方ないなあ、私が君のお父さんとお母さんを探してあげる!だからもう泣かないで」

 少女は俺の手を引いて歩き出した。思えば、あの時の俺はいつも誰かに手を引かれていた。俺はその状況に安堵を覚えて、つい涙を止めた。

「ねえ、君の名前は?」

 朗らかに笑いながら少女は俺に尋ねた。誰かに名前を聞かれたのなんて、あの人以外と話すのなんて久しぶり過ぎて、俺は言葉に詰まった。その沈黙をどう受け取ったのか、少女は一瞬戸惑った様子を見せてから、納得した表情でまた笑顔を浮かべた。

「あ、ごめん。人に名前を尋ねるならまず自分からだよね。あのね、私はアスカ。ねえ、君の名前を教えてくれる?」


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