#09『恋人契約と分厚い恋人マニュアル/2』
高校から五駅ほど上ったターミナル駅があざみの最寄り駅らしく、僕らはそこで電車を降りた。帰宅ラッシュで混雑している改札口を抜けて、僕らは、人と人の間をすり抜けるようにして、なんとか彼女の住むアパートに到着した。
エレベーターで最上階まで上がる。
「彼氏なのに、私をデートに誘ってみるとか考えなかったんですか?」
二人きりの密室の沈黙を破ったのはやはり、あざみだった。
「……アウトオブ眼中だね」
「せっかくの休みですよ? それに振替休日っていうのがポイント高いですよね」
「何のポイントかな、それ」
「デートのポイントですね!!」
そんな張り切って言われても、僕としては反応に困るんですよね……。デートってポイント制なの? 何点先取すれば勝ち? そういうことじゃない? じゃあ、溜めたら溜めただけ、割引されるとか? 違う? そもそも何を割引すればいいんだ……? 愛か? 愛か。……なるほど、確かにポイント制かもしれない。割り引く愛もない? それはタブー。
「よくよく考えてみてください。ただの平日が丸ごと休みになるんですよ? あんなスポットやこんなイベントが独り占めできるいい機会じゃないですか!」
「休暇っていうのは読んで字のごとく、『休む暇』ってことだよね。だったら、大人しく家でゴロゴロしていようよ。それもまた楽しい休暇っていうものだよ」
「発想がもはやオッサンじゃないですか!?」
わざわざ遠出する意味の方が見いだせない。だが、そんなに彼女が望むなら、黙って従ってみようという気持ちもある。彼女を手っ取り早く監視するための恋人関係だ。
エレベーターから降りて、あざみの後ろをついていく。角部屋の前に到着する。直筆の『鐘来』のネームプレート。
「あまり、片付いていないけれど、いらっしゃい――オキナ君」
――そういえば、女子の部屋に入ったのは何年ぶりの事だろう。それこそ、こちらに戻ってくる前はそんな機会がまず訪れなかった。緊張していない、と言えば嘘になる。建前で隠し通そうとしても、こればかりはどうしようもないのかもしれない。
女の子の部屋は、男にとっては皆等しく異世界なのだ。新世界であり、異文化とも。
異世界の住人に魂が乗り移ったかのように、僕は彼女の部屋を見回した。生活感あふれるキッチンを抜けた先は開けている。床にはシンプルな青と白のボーダーの絨毯が敷かれ、部屋の手前には足の短いテーブルが置かれている。
「へぇ」
「…………っ!?」
あまりに部屋に気を取られ過ぎて、真横にあざみの顔が迫っていたことを察知できなかった。彼女は、面白いものを見つけた子供のように、きらきらと目を輝かせて、僕の顔を覗いている。
「いきなり脅かせないでね。……心臓止まりかけたから」
「そんなに驚いたんですかぁ。へぇ」
「その眼は何を企んでいるのかな……?」
「いやいや、私は別になーんにも考えていませんよ。ただ、オキナ君も案外可愛いところがあるんだな、っていう世紀の大発見をしただけですね」
とりあえず、そこの机の前に座っていてください、と言われたので遠慮なく座った。荷物を傍らに置き、僕はスマホを開いた。『デートスポット 都心』で検索。無難そうなスポットをピックアップしている間に、あざみは台所で湯を沸かしていた。
褒められているのか、嵌められているのか。彼女の目に映る好奇の目が、嘘偽りのない感情にしか見えないのが末恐ろしい。
「――まあ、いいや」
考えれば考えただけで、彼女への恐怖が誇大化してしまいそうだ。
水を沸かしていたヤカンが甲高い音を立てる。ティーポットに注がれる熱湯。ポットと二つのマグカップで両手を塞いだあざみが部屋に戻ってくる。コップが覚束なかったので、僕はそれを受け取る。ありがとう、という彼女の感謝の言葉ですら、本心なのか建前なのか、判別できない。
――ぞっとした。何に? 彼女に? それとも、そんな些細な言葉で彼女に怯えてしまう僕に?
話を切り替えよう。
忘れろ、忘れろ――内心で恐怖感情を飲み込み、押し込むことにした。
紅茶をマグカップに注ぐと、片方を僕の前に差し出し、あざみはボクの傍らに座った。肩にしな垂れかかってきた彼女は、どうやら僕のスマホの画面に目を通しているらしい。
「お気に召すものはある?」
僕が検索結果のピックアップを見せると、彼女の瞳は陽の光を浴びた宝石のように照り輝いた。
「そうですね……、これもいいし、あれもいいし。というか、オキナ君、デートスポットを探すセンスでもあるんですか!? どこも楽しそうじゃないですか!」
「僕にはそんなコアなセンスないよ。多分、あざみが優柔不断なだけ」
「否定できない……」
ちなみに、デートの予定は小一時間も話し合った。僕のピックアップしたスポットは一つも選ばれなかった。理不尽の極み。
「水族館にプラネタリウム、そして展望台。――デートポイントが跳ね上がりますねっ! 明日が待ち遠しいですっ」
「あーあーあー、はしゃぐなはしゃぐな。そーうーだーねー、楽しみだなー」
「隠す気のさらさらない棒読みありがとうございますねっ! いっそ清々しいくらいです!!」
両方の拳で左右から僕のこめかみをぐりぐりしてくるあざみ。地味に痛い。
「あざみはどうして、僕と恋人関係を結ぼうなんて思ったの?」
「それ、告白してきた当人が言うことですかぁ……?」
「いや――僕の告白の意味を分かっていながら言っちゃう? それ」
「…………そういえば、そうでしたね。貴方は私のことが好きだからっていう理由で私に告白したわけじゃないんですよね」
ご名答、僕は即答して、彼女の淹れた紅茶をすすった。なんてことない、市販のティーバックだ。だんだん、異世界に慣れてきたような気分になった。
何度でも言うが、僕の彼女に対する興味は、所詮興味どまり。それより高次な感情には至らない。干渉動物には最適だが、愛玩動物としては及第点に満たないようなものだ。
僕は彼女に告白をした。だけどそれは、恋ではない。
「私が貴方の告白を受け入れた理由ですか……、強いて言うなら、『オキナの完璧な建前を盗みたい』ですね、多分?」
「なんだ、君も君じゃないか。――だけど、残念かな。僕には君ほどの優秀な建前バリケードが張られていないことに気付いたよ、君のお陰でね」
「皮肉ですよね」
「皮肉だね」
――会話だけを遮断したら、僕らは傍から見たら普通の恋人同士に見えるのだろう。だけど、僕らの、言葉と言葉の殴り合いはどう考えても恋人とは程遠かった。
恋人というよりは敵同士って言われた方がしっくりくるだろう。
「私達、案外似ているのかもしれませんね」
「さあね、想像に任せるよ。ああ、そういえば蛇足かもしれないけど」
なんですか? あざみは何も気づいていないようできょとん、と小首を傾げた。
「デートっていうのは、わざわざ遠出しなくてもできるんだよ? たとえば」
「はいはいはいはいっ! 分かりました、オキナ君が言わんとしていることはわーかーりーまーしーたー!!」
手足をじたばたさせて彼女は絨毯の上に倒れ込んだ。と思ったら、手足をじたばたさせて「う~、もう~」と謎の呻き声をあげている。突然の幼児退行に僕は、どう対処すべきか分からず、茫然と彼女の挙動を見守っていた。
「……オキナ君」
「はい。なんでしょう、突然幼児退行したあざみさん」
「…………今さっきの行動の一因は、だいたいオキナ君なのでオキナ君が幼児退行したっていうことでいいのでは?」
「ごめんちょっと分からない」
「分からなくてもいいです。そんなことより」
今度は起き上がり、ずいと彼女の顔が近づいた。忙しい奴だ。
「まさか今日のこの会を『おうちデート』っていうことにして明日のデートをすっぽかすとか」
「おお、ご名答。僕の建前を見破る才能があるね」
「軽口で誤魔化さないっ!」語気を荒げつつ、さっきより強い力で両方の拳で左右から僕のこめかみをぐりぐりしてくるあざみ。ずきずき痛い。「やっぱりっっ!! このクソ彼氏!! もしも明日本当にすっぽかしたら末代まで祟りますからね!?」
「……まあ、気分による」
「信用ならないですねっ、藁人形でも用意しておきましょうか! ちょうど、部室の奥に未使用のやつが転がっていたので」
藁人形が転がっている文藝部室ナニモンだよ。胸倉をガシガシ掴まれて、「がるる……!」とあざみが唸る。獅子を模した威嚇の真似だろうか。獅子ほどの貫禄はない出直してこい。残念だが、お前は同じネコ科でも獅子というより、極限に猫に近い猫だ。
なるほど、愛玩動物だ。相変わらず愛玩動物としては及第点だけど。
「ちゃんと、来てくださいね……?」
ひとしきり、暴れた後で、疲れたのか彼女は僕の胸に収まった。心配そうな声から察するに、どうやら本当に僕が来ないと思い込んでいるらしい。――内心で、僕はガッツポーズを挙げた。
「大丈夫だよ。行かないっていうのは、冗談だから」
「本当ですか……?」
胸に収まっていた彼女が僕を見上げる。しっとりと、瞼の両端が湿っているように見えた。きっと、気のせいだろう。――騙されてはいけない。
「初めて、僕の建前を見破れなかったね」
「…………ふん、知らないです。いじわるなクソ彼氏です」
いじけた彼女の頭を撫でた。そうしたいと思ったからじゃない。その絵を傍から見たら恋人みたいに見えるだろうと思ったからだ。
きっと、そのはずだ。
よく分からない感情を、紅茶と一緒に飲みほした。ほろ苦さが下に居残りしていた。




