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#08『恋人契約と分厚い恋人マニュアル/1』

 恋人関係ってどういうものだろう、とふと考えてみた。

二人が対等であるか、どちらかが優位を保つか、どちらかが尻に敷かれるか。

あるいは、お互いがお互いなしに生きられない状態か、お互いがお互いを必要にしながらそれなしでも生きていける状態か。

協賛関係か、共闘関係か。

それとも――無関心か。

僕はあざみとの恋人関係を、勝手に無関心に近いものだと思っている。

彼女はというと。

「とりあえず、部室は元通りに片付きましたね」

 文化祭のために用意した部誌用のポップを、本の山の奥で眠る棚に押し込めて、部室の片付けは終わった。じめじめとした室内の喚起をしながら、二人でテーブルを囲み、近所のコンビニで買ってきたお菓子をついばんでいる。

「そうだね。昨日のうちに大体片付けておいたお陰で昼前に終わった」

「部活は各ブースを片付けたら各自解散って言われているから、さっさと帰りましょう、オキナ君」

 ――なんというか、いつも通りだった。

 ひょっとしたら、建前だと思っていた彼女の表の顔は、実は本音そのままの素顔だったのか? いや、まさか……。彼女の言動は一つ一つが理論武装で覆われていて中身をはぎ取ることなんてできない。

 僕のただの思い違いだったとしたら?

 だとしたら、ツマシロが彼女を恐れる理由は? それこそないだろう。

 彼女が“神”と呼ばれた理由をますます掴めなくなる。

 普段の鐘来あざみは、神というより菩薩だ。

 ちなみにアザミ本人にそのことを伝えたら上品そうに頬を緩ませながら、「それは言い得て妙ですね」と返してきた。そして、

「確かに、私は菩薩のように、見えてしまうのでしょう」とも。

 意味深長な言葉の使いまわしだ、と思った。これじゃあ、まるで「菩薩なんかじゃない」って言いたげのように見えてしまうじゃないか。

「口が滑りましたね、どこに誰の目があるかなんてわかりませんから」

「壁に耳あり障子に目ありとはよく言うけど、生憎壁は防音だし障子はガラス窓だよ」

「ふふっ、あれはそういうことわざですよ。どこから監視されているかなんて監視されている当人は案外分からないものなんです」

「監視者がよっぽどのノロマじゃなければね」

 手元にあったビスケットをかじった。控えめな甘さは表の彼女のようだった。

「――自分が彼氏になった感覚っていうのが全くないのが驚きだ」

「確かに、私もオキナ君が彼氏になってくれた感覚がないですね。だから、自然に私も彼女になったっていう感覚がない」

「彼氏、あるいは彼女になったことに心と体が追い付いていないという説は?」

「その節は薄いでしょう。だって、私は自分のことが愛されているとか思えていないんですから」

「さすが、建前を見抜くのが上手いね」

「貴方の興味は、私に向けてというより、私の素顔への興味なのでしょう?」

 図星だ。僕は誤魔化すように机に広げられたスナック菓子の山に手を伸ばし、むやみやたらにそれらを頬張った。

「恋は興味の上位互換といっても過言ではないとは思っていますが、貴方の興味は恋に昇華することはないと思っています」

 何も言い返せなかった。だから、黙秘権を実行。黙々と菓子を口に含むだけの作業を続けることにした。横から諦めたような、彼女の呆れた溜息が漏れた。

「私に告白したからには、貴方も真剣に恋をしてください」

「――僕が恋愛する理由がどこにある?」

 彼女の隠された本性にだけ興味があるのだ。彼女に恋しているわけではない。彼女の本性を暴いて、知り尽くせれば鐘来あざみは無用の長物と化す。

 僕の建前を見破れる彼女ならば、きっとそういうことも理解しているはず。

 なのに、どうして僕に恋愛をさせようとする?

「強いて言うなら、私が本気で恋愛しようとしているから、でしょうか?」

「わざわざ答えが見えているっていうのに、本気になるの?」

「答えって何ですか? それはまだ仮定でしかありませんよ。実験もしていないのに何かを生み出せると思っているのですか? 何も生み出せないのに、考察はできませんよ?」

「考察?」

 そう。――彼女は自分の人差し指を僕の鼻に押し当てた。

 潰れた鼻とあざみを交互に見比べる。ピンと伸びた指と、彼女の爛々と燃えるような緋色の目が勝気な感情を発露させているように思える。

「つまり。私の素顔はどんなものだったか。――それを理解するには、貴方が真剣に私と向き合ってくれなければいけないの」

「屁理屈だよ」

「筋は通っているでしょう? 貴方に生半可な気持ちで接してほしくないんです」

 それは、彼女が見せた初めての本音だったのかもしれない。

 それでもやはり、彼女が“神”と呼ばれる理由が分からない。

「真剣に、やるよ。それで僕の興味を満たされるのなら」

 僕も、彼女の鼻に人差し指を突き立てる。

 ここに、小さな小さな、僕と彼女の恋愛戦争が勃発した。



※   ※   ※   ※   ※



 祭りの片付けに追われる人が行きかう校舎を二人並んで後にする。正面玄関から出ると、校舎内の喧騒が嘘のように静かになった。

 ローファーの先をトン、と叩き。つま先起点に彼女は僕へと振り返る。彼女の手が僕の方へと伸ばされている。

「さあ、水瀬おきな君――恋を始めましょう」

 果たして恋愛をするのに、そういった宣言が必要なのかは疑問だが、僕は彼女の手を取ることにした。

 衣替えの季節からは、一か月半以上過ぎている。十一月の空気は、詰襟の制服だけじゃ、少し肌寒い。マフラーを巻いてこようかと迷うくらいに。

 だけど、それはあくまで僕が独り身だった時の話だ。

今はむしろ動き回るには、暑苦しいくらい。

自由に動き回ることができないっていうデメリットを併せ持ったカイロ役が、隣を歩いている。歩いている? ――僕の身体にしがみついている、とも。ナマケモノか。

べたべた、べたべた。

 かくして、僕らの恋人生活(?)は何の前触れもなく始まった。

 べたべた、べたべた。

……始まったはいいのだが、早速問題点が浮き彫りになってるよこれ。

「あの、あざみさん?」

 べたべた。

「はい、なんでしょう?」

 べたべた。

「……さすがにべったりしすぎで、歩きづらいんだけど」

 帰路に就く僕の腕に絡まり、身体を押し当ててくるあざみがそこにいた。

彼女は、寒さにめっぽう弱いとのことで、誰よりも早くダッフルコートをフライングゲットしちゃったらしい。

 で、そんなあざみ・イン・クソ厚着が密着していることもあって、暑い。

「本気で恋愛しているんだから仕方がないですね」

「理由になってないから」

「それに私は言いましたよね? 後悔しても知らないって」

 確かにそんなことを言っていた気がする。後悔するような事態にはまだ至っていないんだけど。

「彼女っていうものを定義するのは、私としてもおこがましい限りですが、少なくとも私の記憶では――こう、べったりするものが彼女だと」

「認識が歪んでる。それが世間一般のカップルっていうわけじゃないから。確かにカップルの第一印象としてあながち間違っていないのかもしれないけど」

 さすがにベタじゃない? ――なるほど。理解しました。

 アイコンタクトで僕の言わんとしていたことを読み取ったのか、あざみは一人で勝手に相槌を打った。テレパシーでも使ったの。さらっと超常現象起こしているんだけどこの子。やはり、侮れないな鐘来あざみ。

「べったりしすぎなのは、あんまりよろしくないにしても、手繋ぎくらいは許してくれないでしょうか――せっかく恋人やってるんですから、それくらいは許してくださいよ」

 僕に抵抗権はない。成すすべなく、あざみの白くてきめ細かい真珠みたいな指に僕の掌は吸い込まれていった。

「とりあえず、本気で恋愛するための課題『手を繋ぐ』『べったりする』は突破ですね。……おめでとうございます」

「ありがとう……じゃなくて! 本気で恋愛するための課題って」

「私の携帯に『恋人ならやりそうなこと』をリストアップしたんですよ、昨日一徹して」

「一徹って」

「で、本気で恋愛するために一つずつ課題をこなしていくんです。そうすれば、対私用『本気の恋愛』が完遂されるっていう」

「ちなみに課題数は」

「発展課題含め三〇〇前後ですね」

「本気の度合いが違う」

 あの、そんなにしなきゃいけないことあるの、恋愛って。

そこまでしたらただのラブラブカップルじゃ済まないよねもはや夫婦では。

「私を本気にさせたのは、オキナ君ですよ」

「言葉の重みをようやく理解した気がするよ……」

「後悔しても、後戻りはできないんですからね」

 後戻りする気はない。ただ、そっちがその気なら――僕も本気で鐘来あざみを“殺しにかかろう。”

 化けの皮を無理矢理にでも剥いでやる。

本気の恋愛? ――正直、興味がない。誰かに本音を打ち明ければ傷つく未来が待っているだけだ。ソースは去年の自分。

 お前の表面上のロマンティックをわざわざ他人に求めるな。

 馬鹿馬鹿しいと、一蹴した。本音は、苦笑いで誤魔化すことにする。

「で、次の課題は何?」

「そう、せっかちにならないでくださいよ。――何事にも順序というものがありますからね」

 ――あまり気は長くない。さっさと僕の興味を満たせ。正体を表せ。

 僕は両手を挙げて降伏のポーズをとる。

「分かったよ。君に従おう」

「よろしいです。――では、次の課題を告げることにしましょう」

 あざみは、コートのポケットから携帯を取り出した。そして、ある画面に辿り着くとそれを僕に見せつけてきた。

「次は、これです」

『デートをする』

 なるほど。無難な選択だ。確かにこれは恋人っぽい。

「――素晴らしい、選択なんじゃn」

「無難な選択だとでも言いたげな顔をしていましたね」

 ……言い返せなかった。

「まあ、気にしていないです。私も無難な課題だ、なんて考えていたので」

「いや自分で言っちゃう? 言っちゃうの? それ」

 課題を作った当人がこの有様である。僕達本当の恋愛(笑)、ちゃんとできるのかなあ……、僕心配だよ……。

「なにうわの空で、『母さん……空が青いよ……』とでも言いたげな顔をしているんですか」

「どんな顔だよ」

「短くまとめれば、アホ面ですね」

 ――このアマ、覚えておけ。

ここで盛大にブチギレても大人気ないので本音は隠しますよ。ええ、隠しますとも。僕は建前の権化。オキナの建前は世界一ィィィィ!! って自分に言い聞かせる。

静まれぇ……静まれぇ……と僕が心の中で唱えていることもいざ知らず、彼女は飄々とした様子で携帯の画面をスライドさせた。

「ええと、この課題には続きがあるんですけど。こちらを見てください」

「ん? あ、ああ……なに、『デートの日時は、文化祭の振替休日』」

 明日じゃん。あまりに突貫工事じゃありませんか、あざみさん。

「それだけじゃありませんよ。『日程も何も決めていない! どうしよう~、そうだ! ここはどこかで作戦会議をしなきゃ!』」

「あの、あざみさん?」

「『どうしようかな~、そうだ! 彼氏を私の家に連れ込んで作戦会議をするんだ!』…………ふむ」

「なに一人で勝手に納得しているのかな!? それ君が書いた文章だよね! キャラ崩壊が起きてるからね!?」

「よくあるじゃないですか、ほら、コミ障でもネットだと饒舌なやつです」

 それと同列に扱っていいのか? 言わんとしていることは分かるんだけどそれでいいのか鐘来あざみ。

「まあ、この携帯に書かれていることは私にとってのバイブルですから」

「そんなに大事なものなの」

「バイブル……聖書。そう、聖書。本気で恋愛するための救世主。『そうさ我らがあざみ様!! 我らが恋の救世主!! 絶対成就の理のもと、本気の恋で彼を射止める』……って書いてありますね」

「はい」

「……はあ、一体誰が書いたんでしょうね、これ」

「いや、君でしょ? ほら、目を逸らさないで。自分の発言に責任を持とうね。相当な深夜テンションだね。疲れているね」

 一徹して完成させた黒歴史を自ら晒して、自滅する文芸部部長系清純派美少女。

 長いっ……肩書きが長いっ……、噛まなかった僕を褒めてほしいくらいだ。

「えーこほん、今のは忘れましょう忘れましょう、私が悶えることになりそうですから」

そう言われると余計忘れられないよね。人間、言われたことと逆のことをしたくなってしょうがない生き物だから。熱湯風呂を見ると無性に人を押し込みたくなるアレだ。まあ、悪ノリも過ぎるとあざみ様もおかんむりになるだろうから自重しなきゃいけないし、そもそも僕は本音をむやみに表に出すようなことはない。

 いや、むしろ怒らせれば本音を見せるのでは? いくら建前と言っても、怒りの前では無力になりやすい、だろう。ソースは僕。ああ、去年の僕は青かった。煽られればすぐに揚げ足を取られて墓穴を掘る。負のスパイラルで淘汰された僕に死角はない。

「ちなみに私の揚げ足を取ろうとしても無駄ですよ。人に対しては寛容なので」

「フラグかな?」

「信じるか信じないかは、貴方次第です」

さすが生ける都市伝説。言葉の重みが違う。

「ともかく、私の家で作戦会議をするっていうのは決定事項ですよ。さあ、行きましょう。善は急げ、ってやつです!」

「それはちょっと意味が違うような……って、え、ちょっとあざみさん!? 襟を掴まないで!?」

 うぅ……、呼吸が……。これが嫌々散歩に連れ出される飼い犬の気分か。

 意識が明滅する。酸欠でいつ気絶してもおかしくない。

 ああ、秋風が冷たいなぁ――。

 結局。

帰路から離れて、僕はあざみに強制連行されることになりました。

 めでたし、めでたし。……………………は?


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