#04『嘘つきは恋人契約の始まり/3』
黒髪が、秋風になびいた。切りそろえた前髪の向こうから、淀んだ赤茶の瞳が黒縁の眼鏡越しに、こちらを覗いている。背丈は、平均的? 僕より頭一つ低い。黒一色、冬用のロングスカートがヨットの帆のように揺れている。眼鏡のレンズが、快晴の空を映していた。
少女の行き着く先には、どうやらお邪魔虫がいたのかもしれない。不機嫌そうに目を伏せている。ちなみに、お邪魔虫っていうのは僕のことだ。
「あのっ……」
考えるよりも早く、唇が言葉を紡いでいた。だが、言葉が届くよりも速く、少女は屋上の入り口にひょっ、と顔を隠した。小動物を思わせるコミカルな可愛らしい動きだ。本音だから、口の奥に丸めて呑み込んじゃうけど。
丸めて呑み込んだおかげで、残った感情は、「入り口から退いてくれないかな」っていう面倒臭さ溢れ出た感情のみ。ちなみに手元の腕時計を眺めれば、あと三分で次の授業が始まる。だけど、鍵が壊れた屋上の入り口は、半分までしか開かない。ちょうど、その隙間から少女の黒髪が風に揺られて舞い踊っている。
彼女も彼女で退く気が無さそうだった。
ならば、強行突破でいいだろう。僕は、屋上の入り口に向かった。少女は依然動こうとしない。結局、僕が目の前に来ても、彼女は目を伏せたまま、僕を睨み返してくる。彼女が番犬だったとしたら一目散に噛みついてくるだろう。――犬というより、猫っていう印象の方が強いかもしれない。誰とも血を交えなさそうな、独りを愛し、独りに愛されたような少女、のようなイメージだ。
あくまで、僕の想像のお話だが。僕の抱く想像は、どうせみんな建前なんだから。
「ごめん、そこ、通るね」
「………………、早く、出ていってくれると、助かる」
「君がそう、言うなら、そうするよ」
「…………、ありがとう」
僕は、返さなかった。返す時間も惜しかった。
階段を駆け下りる。焦りながら、自分の失態に気付き、首の下から頭のてっぺんまで燃え盛りそうなくらい恥ずかしくなった。
――我ながらぎこちない言葉の紡ぎ方だと思った。素が丸出しになっているんじゃないかと不安になる。
そもそも、どうして始業寸前にこんな誰もいない屋上なんかに足を運んだのだろう。
見た目からして、真面目そうな印象の少女だったがために、謎が謎を呼ぶ。
成績は優秀そうだけど、運動はからっきし。本好きによくいそうな感じの眼鏡の似合った少女だった。文芸部で毎日本を読み漁っていそう。
なんとなく、カネキアザミの話を思い出した。
カネキアザミには近づくな。
彼女に近寄ったら、何もかもが壊される。
どういうことなのか、よく分からない。そもそもカネキアザミってなんだ? 人名にしてはアザミっていう名前が珍しいなと思う。アザミの名称の由来は、アザム――傷つけるとか、驚きあきれること――だったのを、植物図鑑で見たことがある。花を折ろうとすると、とげに刺されて驚くから、アザム。転じて、アザミ。
花言葉は、『独立』『報復』『厳格』――『触れないで』
まさに、他人を傷つけるものに付けられる名前。そんな名前をわざわざ本名に使うか? だとしたら、あだ名? それとも都市伝説や怪談の類か?
だけど、ツマシロの言い草からするに、彼は恐らく一回以上、カネキアザミによって何かを壊されていそうだった。
恐怖が、彼の顔から溢れ出て、僕の方まで押し寄せてきていたのだ。建前か本音かなんて、一目瞭然なくらいに。だから、決して出鱈目で、ファンタジックな何かではないのだろう――その、カネキアザミとやらは。
ツマシロは人間味のある人間だ。だから、僕からすれば扱いやすい。ツマシロが友人ポジションについてくれたとしたら、僕はあのクラスでとても生きやすい環境を手に入れられるだろう。
あとは、カネキアザミとやらが干渉してこなければ、世もすべて、こともなし。
僕の背後、いつの間にか遠ざかっていた屋上の方で、ぴしゃり、と扉が閉まる音がして、それに続いてチャイムが鳴り響いた。その時にはもう、僕はクラスに到着していた。
今日も今日とて、僕は陰と陽の境界線のすれすれを歩きながら、仮面で顔を隠す。
仮面の外では、笑顔を振りまく。
その奥では、淡々と仮の自分というドッペルゲンガーに身を投げる。
ただ、それだけで僕は生きるという無為な行為を繰り返している。
無為な自分は、何の脈絡もなく、思い付きでこういった。
文芸部に、入ってみようかな――なんて。
その選択に至った経緯は僕にもよく分かっていない。
だが、何かが喉に突っかかっていた。きっと、屋上の少女の事だろう。
――じゃあ、僕が今抱いている感情は、一体なんだ?
…………分からない。分からない、ということに、しておきたかった。
※ ※ ※ ※ ※
放課後になって担任教師に、文芸部の顧問が誰なのかを聞いた時、何故か目をひん剥いたような顔をされた。思わず、本音がこぼれそうになったところを僕は、飲み込んだ。たった一つの些細な疑問だって、本音をこぼす行為には変わりない。
ひとまず、顧問教師が職員室にいることを教えてもらったので、そちらへ向かった。職員室には先生が一人、机で作業しているのみだった。その手は、目にもとまらぬ速さでパソコンに文字を打ち込んでいる。年季の入った丸メガネがブルーライトを反射する。声をかけるのを躊躇うくらいには集中しているように見える。
だが、こんなところで時間を食い潰す時間は惜しかった。最低限の応対で済ませる。
「すいません、文藝部の顧問の先生はいらっしゃいますか」
僕の声が届いた瞬間、丸メガネの教師の手がピタリと止んだ。手元をよく見てみれば、小刻みに震えているまでである。トレードマークの眼鏡が鼻からずり落ちていく。不気味なくらいの冷や汗を掻いている。
…………どうして、文藝部の話をしたくらいでこんなに驚かれるのだろう。
反応が明らかに異常だ。周囲の空気ががらりと変わったとはまさにこのことかもしれない。秋の夕日が差し込み、ほのかに温もりを感じられる職員室が、一瞬にして肌を切り裂くくらいの冷気で満たされたような気分だ。
「あの、顧問の先生は」
「え? ――ええ……そ、そうですね、私です、ど、どうも」
言葉がいちいち引っかかるのは、そういう話し方だからだろうか。歯切れの悪さが目に余る。確かにそこまで話すことが得意な教師には見えないが、それにしても人との応対が下手過ぎる。何をそんなに動揺しているのだろうか。
「文藝部の見学をしたいのですが」
「そ、そうですか。なら、ご、ごごご自由に」
ここまで、本音を隠し通してきた僕だが、彼の話し方は鼻についた。周りを見回し、人間がいないことを確認したうえで、僕は、ニンマリとした一二〇%の作り笑顔を振りまいて、相手の気持ちを安らげながら、こういうのだ。
「あのう、どうして僕が文藝部を見学するくらいで、そんなに驚くんですかぁ?」
「……?」
丸メガネの教師の瞳は、今度こそ本当に何も分かっていないような純粋な疑問を映していた。しばらくして、何かを勝手に理解したのか「あぁ。あぁあぁ……成程」と数度頷いた。ずり落ちた眼鏡を元に戻して、
「君、転校生ですか」
「はい。今日転校してきたばかりです」
「だったら、ちょうどよかった。――文藝部に入るのは控えた方がいいと思います」
「ええと、確認しますが先生は文藝部の顧問ですよね」
「はい。それはもちろん。正式に学校から言い渡された指示で、文藝部の顧問をやるように言われました」
じゃあなんで……、余計に謎が深まるばかりだが、僕が言葉を発するより早く、丸メガネの教師が語り始めた。半開きになっていた口をきゅっと閉じる。
「私としては部員が増えるのは嬉しいことなんですが、そんな私利私欲に君を巻き込んで、君がアレの餌食になったとしたら私の立つ瀬がない」
「アレ……? アレっていうのは」
「そのことについては、あまり教師も表立って口出しができない。ホラ、一応生徒のことだから……、君はまだ、この学校の不吉な噂を知らないだろうから、だとしたらなおさら顔を出さない方が身のためだ」
「そんな曖昧な説明じゃ僕は納得できませんよ」
済まない、と顔を伏せて、横へ視線をずらす丸メガネの教師。何かを隠しているには違いないのだが、果たして口を割いてくれるかどうか。
「教師の言うことには従っておいた方がいい……なんて言葉で脅す気はないですが。ともかく文藝部は地雷です。やめておかないと、後々後悔しても、後戻りできなくなる」
がたがたがたがた、小刻みな震えはいつしか目を凝らさなくてもわかるくらいになっていて、眼前の机に鎮座したパソコンにも振動が伝わっている。
「まさか、先生は」
僕は、あえて――声を、震えさせた。雰囲気に酔わせてしまえば、案外簡単に、彼の言ったことの真相が突き止められるかもしれない。
「……逃げられなくなった身ですよ、アイツから」
「アイツ……?」
「君は知らないのです? 関わった人間の」
「――全てを壊す、存在?」
「なんだ、もうその噂は知っているようですね」
――正体不明のカネキアザミは、幸か不幸か僕の行く手を阻んでいるらしい。
「文藝部って部員は」
「アイツだけですよ。たまに入部する人間がいるのですが、男女ともども数日で退部してしまう。最悪の時は高校中退しかけた生徒も、ちらほらと」
「話を聞いた感じだと、相当ヤバイ存在に思えるんですが、その、カネキアザミって一体何者なんです? 都市伝説とか怪談の類ですかね?」
「最近はなまじ都市伝説化している傾向があるらしいですが、アイツはれっきとした人間です。確か……、君は、何組だっけ」
「一組ですね」
「――――なんで、こうもドンピシャで当たるんですかね、君は」
何が、当たるのだろうか。首を傾げつつ、何か思い当たる事柄を脳内検索にかけた。在り来たりな自己紹介。僕にたかってきたうるさい奴ら。そいつらが去った後に声をかけてくれたツマシロ、隣の空席。ツマシロからの警告、カネキアザミに近づくな。カネキアザミは文藝部員で、都市伝説化した実在の生徒で。
――そこまで、思い出せばなんとなく目の前の教師が言わんとしていることが察せた。
「そのカネキアザミっていうやつ、病気で保健室登校していたりします?」
時が、凍り付いた。教師の目が虚空を見つめていて、その口はあんぐりとして塞がらない。時は瞬間冷却の後、解凍を始めたようで陸に打ち上げられた魚のようにぱくぱくと口を開けて閉めて……、を繰り返した。
「――その反応からすると、トゥルーって感じですね」
過呼吸気味で、顔を赤くしている教師を横目に僕は腕を組んで目を閉じた。
さて、僕は文藝部に入るべきか否か。
答えは、屋上にいた時と変わらなさそうだ。
「決めた、僕、文藝部に入部します」
屋上にいた時というより、たまたま屋上であの少女を見た時に心に決めたんだけど。
対する教師は、あまりの驚愕を受けたのか気絶してしまった。
さすがに恐れすぎだよ、カネキアザミとやらを。
――所詮は人間だろう? 建前っていう鎧で本音を守っているだけの、ただただ愚かな人間サマだ。
無論、僕も含めてなんだけど。
だとしたら、太刀打ち不可能な脅威、ではない。
気絶した教師の机の横に積んであった入部届に一通りの事項を書いて、彼のパソコンのキーボードに積んでおいた。
どうせ、この紙を見たら見たで、気絶するのだろう。
丸メガネの教師が永久機関のように気絶を繰り返すさまは、なかなか滑稽なものかもしれないな。
噴き出し笑いすら、建前の後ろに押し込めるけど。
僕は職員室を後にした。部屋を出て正面に見えた階段を、誰かが駆け上がっていく音だけが耳に響いた。




