#23『無痛で愛は叫べない/5』
「もう、貴方のことは信じていない。もう、わたしは傷ついて傷ついて仕方がないの。昨日、部室に行った時だってわたしを拒んだじゃない。また、一緒に本を読んだり、談笑したりしたかっただけなのに」
「あれは! 違うでしょ!? ノックもせずに部室に乗り込んできたうえに、本の山を掻き分けて、私の上に覆いかぶさってきたんでしょ……!」
一歩ずつ、一歩ずつ。じっとりと、舐めるように縛り付けるように、近づいてくるざくろ。その姿を、親友ではなく、狂人の類に見えてしまう私は愚かしい人間なんでしょうか。
「ざくろ、怖いよ……、前のざくろはこんなに怖くなかったよ……! なんで、こんなに怖いの!? 元に戻ってよ」
私の懇願は、彼女に届くのだろうか。現状、答えはNOだ。彼女の瞳が映す私はどんな形をしているのだろう。もう、何も映していないのかな。私の形を忘れてしまったのかな。もう、二人で一緒に居られないのかな。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
私が君を一人にし過ぎたから。本音を言っていい箱庭に閉じこもってばっかりだったから。どんなに親しい親友でも、本音を言えないことはあって、だから必死で言葉を選んでいた。本音を言ったら嫌われるんだから。だけど、本音を言わないっていうことは私にとって窮屈だった。
暗雲から、ぽつ、ぽつと雫が降ってくる。雫の大きさは少しずつ大きくなっていき、屋上を濡らしていく。冬の雨は冷たくて、雨に呑まれるうちに氷漬けにされちゃうんじゃないかって考えてしまう。心だけ、ざくろに氷漬けされて、その後で、身も動かなくなるんじゃないかなって――誇大な被害妄想が膨らんでいく。
私を縛るものはなんだ? と自問自答してみれば、真っ先に答えとして、「本音を言ったら嫌われる、という強い強迫観念」だろう。
初めて、私が男の人と付き合ったのは中学二年生の時だ。きっと、ほんの些細なきっかけで、どうでもいいところで私は付き合っていた男の子に本音を突き付けてしまったのだ。今でも、本音を突き付けられた時の彼の顔が鮮明に浮かんでくる。怯えたように一蹴だけ震えて、そして遠慮したかのように苦笑いをしたのだ。その表情が今でも焼き付いていて、離れられないんだ。
そんなトラウマを少しでも癒してくれたのは、他でもない水瀬おきなだった。今の私が付き合っている人。本音を漏らすことを許してくれる人。だけど、それ以外の人には、いまだに本音を漏らすことができない。怖いから、嘘八百で誤魔化そうとする。
その結果が今日なんだ。今まで付き合った人間から罵倒を受けては逃げて、逃げた先にいた傷つき、擦り切れた親友と相対するのだ。今の彼女が、親友と呼べるのか、狂人と呼べるのかはともかく。
閉ざされた屋上の扉に背中を預ける。今すぐこの場から逃げ出したかった。だが、何度扉に力を入れても、上手く横に滑ってくれない。焦りが募るうちに、目の前にざくろが立っていた。彼女の「ふふっ」というお淑やかな笑い声もこの局面じゃ、身体をこわばらせるための小道具として成り立ってしまう。声だけで彼女は笑っていた。
「ねえ」
胸倉が掴まれる。彼女の手は、まるで女の子のものとは思えない力で強く握ってきた。首が締まり、呼吸が苦しい。だけど、何よりも彼女に本当の言葉を一つも与えられなかった自分の心が痛くて、苦しい。
雨脚が強くなる。私も彼女もずぶ濡れだ。綺麗にまとまっていたざくろの短い髪も、私の黒い髪も乱れて、重なり合う。ざくろの顔が目と鼻の先にあった。いつの間にか腰を抱かれていて、私の動きは制された。怖くて、目を瞑ることしかできない。
親友のことを直視できていない私を許してください。なんて、誰に許しを乞えばいいんだろう。答えてくれる人はいないんだ。
「やだ……、怖いよ……、ざくろ……! ごめん……ごめんなさい……」
「っ……!」
ひたすらに怖がった。私が校内で避けられるようになってからも、ずっと一緒にいてくれた親友に襲われるのが怖かったのもある。けれど、それ以上に親友に対して、してしまった仕打ちと、親友に対して怯える自分が許せなくて、目頭が熱くなった。
「……そんな、顔……、しないでよ」
ああ、まただ。また、傷つけちゃうんだ。初めて付き合った男の子に対して、しでかしてしまった仕打ちと同じことを、今度は親友に。
また、傷つけちゃうんだ。もう、雨が私を溶かして、後悔や受け取った反感や憎しみやそれ以外のちっぽけな感情と、ちっぽけで図太く生きてしまっていて、そのために繊細な心を壊し続けた自分を溶かしてよ。そして私が溶けるのと一緒に、私が傷つけてしまった心達を癒してあげ――
――パンッ!!
痛いっ! 思わず、瞑っていた目を見開いてしまった。そして、見たくもなかったうつつの話が目に飛び込んでくる。
涙でぐしゃぐしゃになったざくろの顔を見て、唇を噛みしめずにはいられなかった。雨に打たれながら、もう一度、彼女は私の頬を平手打ちした。今度は、痛くなかった。
「ざくろ…………何を」
「何を、じゃないの! 馬鹿あざみ!! ずっと、ずっと待っていたのに! 確かに、昨日のアレはやり過ぎだったって思ってるけど、それでも少しくらい私の気持ちを汲んでもいいじゃない! 馬鹿! 馬鹿あざみ!」
「っ!? ぶへっ!?!? 痛い! 痛いよざくろ!?」
何度も、何度も、頬に紅葉の葉っぱが浮き上がっても、何度も何度も叩かれた。私は、なされるがままだった。だって、腰抱かれていたし。
ようやく、ざくろの感情が収まったのか。平手打ちの乱激には終止符が打たれた。その代わりに、今度は、強く抱きしめられた。苦しいくらいに。平手打ちの反動――それだけじゃなくて、独りにしてしまった時間の分だ。
「親友、でしょ!? 貴方が本音を言うのが怖いことなんて何度も聞いてるから分かってるよ! 確かにわたしは人当たりが良くて各方面に友達がいるかもしれないけどさあ!! それでも、わたしの親友は、あざみだって、何度も言ってるじゃん!!」
「私、なんかでいいの……? いっぱい、君を困らせてきたのに」
「いいに決まってる! ただ、ただちょっと寂しかっただけ! だから、強く当たったのっ!」
雨は、冷たかったけど。ざくろの身体は温かくて、ざくろから流れてくる心の激流は、凍死した私の心を溶かしてくれそうだった。
「……ねえ、ざくろ」
「…………友達をやめて、とか言わないで、ね?」
「私の親友で居て、在り続けて。――こんなに私を思ってくれる友達、ざくろしかいないから」
私の心を溶かしてくれて、ありがとう。
雨露に濡れながら、私はざくろを強く抱きしめた。
ねえ、オキナ君――――、私の生きる世界って思っているより、厳しく辛いものじゃないんだね。
強く、強く、親友を抱きしめて、泣きじゃくりながら、私はふと初めて本音を受け入れてくれた人のことを想った。そして、私を受け入れてくれた最愛の親友の胸を涙で濡らした。
しばらくして。
――傷だらけで、今にも意識を失いそうなオキナ君が屋上の扉を開けた。




