#21『無痛で愛は叫べない/3』
「ねえ、あざみ。――どうして、どうして私を見捨てたの」
「……見捨てて、なんか」
「見捨てて、なんか、ない? ――そう言いたいの?」
つか、つか……、と、ざくろの足音が一歩ずつ近づいてくる音がする。目を、閉じてしまいたくなった。直視することができないのは、きっと私自身が罪悪感を抱え込んでいるからだ。罪悪感の正体は、『彼女を一人にしてしまったこと』。
「見捨てていたら、ここには来ていない、でしょ!」
「ねえ――それも、また都合のいい嘘なんでしょ?」
「……!!」
声を出そうとして、私の喉は震えたままだった。今まで、建前で自分を守ってきたその応酬が今になって返ってきたのだ。凍てついた心が、掌のうちでボロボロとこぼれ落ちていくのを感じた。氷結し、砕けたそれの隙間から流れ出るのは、心を溶かすための涙――なのかもしれない。
頬を流れていく、厚い激情は何だろう。言えていない、本当の言葉ってどこにあるんだろう。いったい、いつの私なら、その言葉を包み隠さず、吐き出せるんだろう。
『本当』は、いつでも棘を持っていて、私を刺すことだけを考えているんだ。
……なんて、被害妄想に浸るようになったのはいつからだっけ?
「嘘……、嘘、ああ、また嘘なの? わたしだけは、貴方の傍にいるのに、いたのに」
「嘘なんかじゃない……、絶対、嘘なんかじゃない……!」
「ここには、嘘なのか、本当なのかを語る術はないでしょ?」
「信じてよ……!」
「今まで、散々嘘をついてきて、今更そんな口を聞くというの? それは傲慢じゃない?」
オオカミ少年、という童話があるが、私は今、オオカミ少年ならぬ、オオカミ少女だった。『本当』から逃げてきた代償。今更の『本当』は、もう、誰にも信じてもらえないのかもしれない。――彼を除いて。
(オキナ君……)
水瀬おきな――、私がようやく信じることができて、信じられることができた少年を除いて。
※ ※ ※ ※ ※
時間を少し巻き戻す。さて、部外者になった僕の話をしよう。
――いつも通りの登校は、彼女が保健室に到着したら瓦解した。そう、それまでは、いつも通り、いや、いつもよりも幸せそうな様子で、なんなら鼻歌を口ずさみながらスキップする勢いのあざみだったが、
「なんだ……、あの人だかり……?」
保健室の前に立ち往生する数人の男女に目が留まった。刹那、あざみの鼻歌は止んだ。スキップのような足取りも途絶えた。横に並んでいたはずなのに、気が付けば、あざみは僕の後ろに隠れている。制服の裾を握ってくる手は、震えている。
「どうしたの、あざみ」
「…………怖い、怖い。……あの人達には近づけないよ……」
小声での問いに小声で答えてくる。「どうして?」と、再び問おうとして、人だかりが僕達の存在に気付いたようだった。一斉に目線がこちらに向けられると、あざみは完全にボクの後ろに隠れてしまった。手の震えが、心なしか増したように思える。
「あ、ようやく来たようだぜ。――あの尻軽女」
グループの中の誰かが言った。尻軽女? ――あざみのことか? 言葉に引っかかったまま、次々と言葉が吐き出されていく。
「おいおい俺のことを「窮屈になるから」って言ってまーた男作ってんのかよ」「てか、お前自分が可愛いからってうぬぼれて、調子乗ってんじゃん?」「だーから、尻軽女って言われるんだよ」「きっと、この学校だけじゃ飽き足らず、別の学校のやつともつるんでんじゃない?」「てか、よく見たら今カレさん、転校生君じゃん」「今度は、この学校に慣れていない奴を落としたの~?」「君も捨てられちゃうから、気を付けた方がいいよ、これ忠告」「うわー、わざわざ恩情かけるのマジ卍」「何事も先人が語るっていうだろ? あと、借り? みたいなやつ? 後で返してもらう的な?」「ユウト、マジ優しいじゃん、さすがアタシが惚れただけあるわ」「そうか? さすがエミリだな」
ユウトと呼ばれた男子生徒が、エミリと呼ばれた女子生徒の肩を抱く。情報量が多い割には、欠如している情報が多すぎる。僕のいなかった世界での『鐘来あざみ』の評価だろうか。どうも、悪評のように聞こえてしまう。とりあえず、目の前のやつはお幸せに爆発しろ。
ともかく、僕は蚊帳の外だった。言いたい放題だった。あざみと目の前の男女を隔てる壁である僕は、壁の役割を果たせていない。なんとも、惨めだった。
僕は、あざみの方を振り返ろうとした。その時、彼女の手が僕から離れた。僕は、彼女のその細く白い手を追おうとして、後ろに手を伸ばした。
ふと、あざみと目が合った。怯えているのが目に見えた。僕に、怯えているのか?
まるで――、まるで。
(こんな私でも好きでいてくれますか?)とでも言いたげで。
だけど、
(こんな私を好きでいてくれるわけないよね)って自問自答をしている。諦念が僕を否定しているようにも見えた。
何かが、虚空に舞っている。透明のそれは、電灯の光に当たって、寂れた輝きを放った。あざみの瞳からこぼれた涙をすくおうとして、掌にそれを乗せたけど、弾けて消えた。熱量を持った雫は、ほんのちょっとの質量しかない。だけど、それは混沌とした彼女の整理できない胸の内が内包されていて、掌を通じて、僕の中に様々な混じった感情が沁み込んでくる。
ああ、どうして、僕までも。泣きたくなってしまうんだろう。どうして、こんなにも苦しいのだろう。追おうとした身体は、後ろから差し押さえられる。
「やめておいた方がいいよ、転校生。悪いことは言わない。今度は、お前が俺のようになるんだぜ? ――被害者、としては見捨てておけないってわけだよ」
ユウト君の鶴の一声で、僕は、あざみから引き離されていく。僕を置き去りにして、内輪で盛り上がる男女。僕は、眼前――、走り出したあざみへと手を伸ばした。
彼女が、手の届かないところにいるように、『錯覚』した。
そう、あくまで、錯覚だ。
「……やめてくれ」
「? どうしたんだい、転校生君」
「僕の名前は、転校生君じゃなくて、水瀬おきなだ!」
物理的な距離が、遠くなっていく。ただ、それだけの『錯覚』だ。騙し絵だ。まだ、近い。まだ、熱い。その熱が――彼女が、僕に与えてくれた感情の熱が、冷めないうちに。夢が、醒めないうちに。
僕ができることはなんだ? 部外者は部外者らしく、同調圧力に呑み込まれて、モブキャラAにでもなってろとでも? 世間的な運命様は、出る杭は打つのがお好きらしい。だけど、僕の歩みは、神様風情には止められない。
止めさせやしない。
「僕は、水瀬おきな――そして、鐘来あざみの彼氏だ」
この事実は、過去にも、現在にも、そして、未来にも覆らない。
覆らないから、己を欺いて無かったものにするのもまた悪で、そして、苦しんだからって論点をずらして矛先を向ける相手を作ることはもってのほかだ。たとえ、過去が嘘だらけでも、嘘だらけの過去を認めるという最初で最後の『本当』を拒絶したら、前に進めない。真実に巡り合えない。
ユウト君の顔が、強張った。他の男女も、不審げに僕の方を睨んでくる。まるで、自分たちがマジョリティであり、正義だと謳っているみたいに。
「転入生……、これは最後の警告だからな。どうなっても知らないからな」
「構わない。少なくとも、嘘だらけのアイツの本当を知ってあげられなかった君達とは……、お前達とは、違うから」
睨み返したら、目を見開いて、驚きを隠せない様子だった。一体多数の数の某量でも、僕が逃げる理由にはならない。ダンッ、と上履きでリノリウムの床を叩く。廊下の向こうまでその銃声じみた炸裂音は響いた。威嚇にひるんだようで、ユウト君の後ろに隠れている男女は、何歩か後ずさりしている。
「こ、後悔しても――」
苦し紛れに吐き出した台詞は、とどめを刺すのを少しばかり早めただけだ。
「するわけがねえ。むしろ、もう充分幸せだ」
僕の服を掴んでいるユウト君の腕を揺さぶって、離した。もう、この場にいる理由はない。時間は限られているし、熱がいつ冷めるか分からない。その前に、あざみのところへ行きたい。行かなきゃいけない。床を叩く足音の感覚が狭まっていく。粋が乱れることなんかに構わず、走る。廊下を、そして、階段を。
僕はどこを目指すべきなんだろう? はっきりと、答えは浮かび上がっている。答えは、浮かび上がっていたからこそ、僕はアイツと遭ってしまったのだろう。
「よう、ミナセ」
「――ツマシロ、なんとなくお前もここにいると勘づいていたよ」
妻代啓治。妙に、鐘来あざみを警戒する人間が待っていたのは、屋上の手前の踊り場だった。




