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#15『デート理想論Lv.99/4』

[十二月 学校サイド]

「あざみは、もう、オキナの前には現れないよ?」

 深い緑が黒色の目の中でぎらぎらと燃え盛っているように思われた。

 文藝部室の窓は全開で、突き刺すような北風がごごぉ、と音を立てて入り込む。本だらけの部屋に潜り込んだ風は、表紙を持ち上げて、ページとページの間を通り抜けていく。ばらら、ぱらら……、本達はまるで、僕らの睨み合いを怯えるように傍から見守っているようだった。

 僕ら。

 それは、僕、水瀬おきなと。

その幼馴染――釜澄ざくろの二人を示す。

 ――どうして、お前が断言できるんだよ。という本音を僕は必死になって飲み込んだ。鐘来あざみとの因果関係が掴めない。きっと、僕が存在しなかった世界線での話なんだろう。

 たまに僕の前に現れた人影と、足音。極めつけは、つい昨日の交錯。僕の存在した現在の世界線と、僕が来る前の過去の世界線。そこには異端子である『僕』がいるか、いないかの違いがある。ちっぽけな違い……、だとしたらきっと僕は、今大きな壁に立ちはだからないで済んでいるだろう。

 釜澄ざくろ、という僕の幼馴染と、鐘来あざみ、という僕の彼女。

 その因果関係が、見えてこない。

 耳元で、囁かれた、「嘘つき」というざくろの囁き。

――その真意は? 幼き日々の口約束を破られたから? たったそれだけ? 

満ち満ちた怨嗟の瞳の理由は、決してそんな単純なものじゃないと思う。じゃあ、どんな難題が僕とあざみと、ざくろの間に転がっているんだろう。

 夕日は、いつしか地平線の奥に隠れてしまって、まるで僕らの剣呑な空気から逃げていったかのようだった。お天道様はいつでも、贔屓なしに僕らを見守っているようだった。

 公正公平。つまり、ご都合主義なんてもってのほか。

 だから、僕の淡い幻想はきっと、簡単に打ち砕かれてしまうのだろう。現実の残酷さと、運命の無慈悲さなんて、過去に何度も経験している。痛みには慣れている、はずだった。なのにどうして、こんなに心がざわついているのだろう。

 担任のもとへ確認を取りに行ったら、そもそも今日、あざみは学校に来てないらしかったらしい。その事実を知ってもなお、僕は文藝部室に向かっていた。何故か、あざみのことだから、学校をすっぽかしてでも部室にはいつも居座るのだろうな、という謎の期待があった。

 ――どうして、僕はそんなに彼女に期待する?

 ――まさか、本物の愛を『騙ろう』なんて企てているんじゃないか?

 ものの一か月前の自分は、鐘来あざみの内面を暴くために恋人関係になるような歪んだ人間だったはずで、そんな自分を愛していたはずだ。

「オキナには、まだ言っていなかったよね。わたしとアザミの関係性」

「……正直、関係性の欠片もないと思っていたよ。だって、僕とあざみが傍にいるときは決して、僕らの近くにはいないし、それにざくろは一回、あざみのことを『文藝部の部長さん』なんて、他人行儀な呼び方をしていたから」

「あれは、わざとだよ。わざとに、決まっている。わたしだって、そんな言い方、できればしたくなかった。アザミをそう扱ってしまう自分に嫌気がさしたくらいだよ」

「で、あざみとざくろ……、君たちの関係性は?」

「友人……だとまだ少し、他人行儀かもしれないね。そうだな、自分から言っていいものかは分からないけど、大親友だったんじゃないかな」

「……でも、僕はそんな光景まるで見たことがない」

 だって、この瞬間まで、僕は彼女らが親友である事実を知らずにいたのだから。

 親友ってもっと、ずっと、べったりしているものじゃないのか? べったりはさすがに言い過ぎというか、愛が重いかもしれない。

だけど、親友というわりには、彼女らが共に過ごしていた時間を、残念ながら僕は目撃していない。だから、ざくろの親友宣言が張りぼてのように思えてしまう。

 彼女が、嘘をついているんじゃないか、と疑ってかかってしまう。

たとえ、幼馴染だったとしても。僕は人の建前にどうしても敏感になる。加えて被害妄想が激しいのかもしれない。

建前が導く方角には常に牛鬼がいて、方違えをしなければ、自分を傷つけることになってしまう。結局は自分可愛さに、建前で本音を隠しつつ、他人の建前に過敏に反応するのだ。そこには、他人へ捧げる愛なんてものはあってはならなくて、純粋で高密度な自己愛が偏在しているのみだ。

「一緒にいるところを見たことがない、ね。確かにオキナはそうかもしれないね。だって、オキナは、オキナと結ばれる前のアザミを知らないんだもの」

「それは、知らないよ。転校してくる前の事なんてわざわざ話してくれなきゃわかんないし。だけど……親友だって分かる行動をざくろが起こしていないのも不思議だ」

 まるで、親友っていう名札を貼っているだけの他人のような振る舞い方だよ、それだと。――言うべきか悩んで、やっぱり本音は口に出さない。いや、出せない。自分が傷つくからか、それとも知らない世界は知らない世界でいた方が楽に生きられるからか。知らない世界に対しての興味は、ないはずだ、きっと。うん、きっと……。

「親友だって分かる行動……? それってどういうものなの?」

「説明しろって言われても、なんとなく見ていて仲いいなって思える雰囲気、なんじゃないかな?」

「そりゃ、その機会が少しでもあれば、していたけど」

「そう言ってしまえる時点で、君たちの関係はぎこちないように思えるよ」

 ――本当は、友達でもなんでもないんじゃないの?

 だとしたら、どうしてわざわざあざみと『親友』だって名乗っているのか。

 名乗るには名乗る意味があるはずだ。『親友』であることを利用して、何ができ――

「ぎこちない……?」

 絶対零度の言の葉が、刃物のような鋭さをもって首筋にあてがわれた。

 一歩、ざくろが前に踏み出しただけ。だけど、どうしてか、僕の足は小刻みに震えていた。足が何かしがみつかれたように動かない。

彼女の囁くような声は、まるで暗殺者を思わせる静かな殺意に満ちていた。      

「ぎこちない……、そうなったのは、他でもないオキナのせい、だよ」

 ざくろは、僕の胸倉を掴んでいた。

 次の瞬間。左頬で火花が散った、そんな幻視だった。

 そんな幻視は、痛みを伴って僕を現実に還した。

 ざくろに頬を、叩かれた。――その現実を理解するのに、しばらく時間を要したのは、無理もない、と思う。


「わたしだって、親友と一緒に居られるものだったら、一緒に居たかったよ……!」

 それは、悲痛。僕が果たして、一生をかけても知ることができないような、隔絶された彼女と彼女の世界。僕が知らなかった、彼女達の過去。

 北風が止んだ。窓の外の空は、深海を思わせる深い紺碧に染まっていた。

「オキナがいなくなってからのわたしの話――、オキナは知らないでしょ?」

「そりゃ、考えてもいなかったからね」

「ひどい、ひどいひどい。なにも包み隠さず言う必要はないじゃん……」

 考えてもいなかった、というのはもちろん嘘だ。僕はあくまで本音を語らない。

 だが、建前の壁に隠れていたって相手の本心をつつくことはできる。

「だって、そんな昔々の幼馴染の話なんて、あんまり憶えていないからね」

 ――興味がないわけではない。

 昔のことは忘れた? それも嘘だ。幼いころは、ざくろと兄妹のようにべったり接していた。その記憶は、案外簡単には忘れられるものではなくなっていたらしい。

 原風景っていう言葉がある。人の心の中にある原初の風景っていう意味で、その風景は懐かしさを帯びているらしい。また、原風景は美化されるし、自分のエゴでどんどん都合のいいものになっていく。

 だとしたら、僕の原風景は、ざくろと過ごした毎日だった。

 そんなこと、たとえ僕が本音を漏らせる真っ当な人間だったとしても、恥ずかしさで言えっこないけど。

 ちくり、と心のどこかに針が刺さったような気がした。居心地の悪い痛みだった。

「興味がない。だから、この無駄話はおしまいだよ。僕にはまだ、やることが残っているんだ」

 鐘来あざみを連れ戻す。たったそれだけの『やること』のはずなのに、まるでいばらの道に素足で踏み込んでいるような凄絶な道のりを歩んでいるように思える。

「オキナが興味なかったとしても、それでもわたしにとってはかけがえのない記憶なんだから。取り消せない約束なんだから」

 ――後ろからぐいっ、と裾を掴まれて、僕の足は立ち止った。振り返って、僕は、僕を毒林檎で眠らそうとしている魔女と相対した。そんな気がした。これじゃあ、まるで、僕の方がお姫様みたいな例えだ。無論、僕はお姫様でなければ、王子様でもない。

 強いて言うなら、わがままな王女様に付き従う従者でしかないし、そうでありたい。

いつから、こんな気持ちが芽生えたのだろう、芽生えてしまったのだろう。

人は常に過ちを繰り返す生き物だから、こうやって僕は、あざみの元へ向かおうとしているのだろう。

愚かな従者は、常に過ちを繰り返すのだろう。

いつかしたはずの『約束』を、魔女は欲している。だけど、その約束はあくまで口約束でしかなくて、記憶が常に風化してしまうがゆえに、従者はその『約束』を忘れてしまった。気付いたら、僕は違う姫に付き従っていて、ある日まで王子を待ち望んでいた姫は、こうして従者となってしまった王子を憎むのだ。だけど、それでも従者はきっと、王子であることを拒んでしまうのだろう。

――過ちは、繰り返す。だけど、過ちを過ちとしては繰り返さなかった。まだ、繰り返していないだけかもしれない。それでも構わない。これから、過ちを過ちとして繰り返さなければいい話だ。

「約束。……僕は、そんなもの、憶えてなんかいない」

「口約束だから、仕方がないのかもね」

「しょせんは、幼い子供の交わした約束だよ? そんなものに縋るの?」

「そんなもの、なんかじゃっ、ないっ!」

 今度は、左頬に火花が散って、勢い余って僕は、本の山に激突した。崩壊した山々が僕の身体めがけて降ってくる様は、まるで大噴火のようだった。本というが岩石のように飛び掛かってきて、或いは、溶岩流のようにどどど、と音を立てて雪崩れ込んできた。

 思考停止も束の間、今度は、本の水底から引き揚げられる。掴まれた両肩は、じんわりと熱く、そして、痛かった。そんな僕に構うことなく、想いで殴ってくるざくろの姿に思わず、目を奪われた。

 瞳から溢れ出る涙は、憎しみなのか。悲しみなのか。寂しさなのか。ありとある僕に向けられた感情がごった煮のはずなのに、その雫の色は、最高純度の透明だ。

「わたしにとっては、そんなものじゃない! オキナも――アザミも! だから、私はこうやって、立ちはだかるのっ! そうしないと気が済まないからっ。終わってほしくないから!」

「終わってほしくない? ――何がっ」

 言いかけて、制服のポケットが震えた。中にあった携帯電話には一見の通知が入っている。数秒前に送られたメッセージ。

『恋人っていう戯れ言に飽きました。

  これからは、二度と私の前に現れないで――それじゃあ、さようなら』

 送信者は、言わずもがな。

顔が熱くなった。喉が震えていた。目頭が火傷しそうだ。

この野郎。――僕は、この地に来て初めて舌打ちをしてしまった。

 舌打ちをさせてしまった、お前を一生許してやらない。絶対に、金輪際だ。

「……帰る」

「まだ話は終わってな…………」

「うるせえよ。悪夢にうなされている馬鹿を叩き起こす方が先だ」

 僕を押しつぶそうとする本の雪崩なんか、もはや敵じゃなかった。床に叩きつけられる文庫の束を一瞥して、ざくろの方を向く。彼女はもう、これ以上、言葉を放ちそうになかった。膝が盛大に笑いこけているのが見て取れた。――敵じゃない。ざくろを跳ね除けて、僕は文藝部室を後にした。

 どうしても許せない、アイツの胸倉に掴み掛りたかった。

 速足では、まだ遅い。歩みは徐々に速度を増していく。

 火照りに火照った身体を冷ますように一目散に走り抜ける。

 ああ。もう。

 どうして、こんなにも熱いんだ? どうして、こんなにも居ても立っても居られないんだ? どうして、こんなにも切ないんだ?

 どうして、こんなにも僕は、怒りに満ち満ちているんだ?

 建前に毒された僕は、きっとそんな純粋な感覚すら、忘れてしまったのだろう。

 今では、その純粋な感覚が愛おしく思えてしまう。

 それもこれも、全部が全部、鐘来あざみのせいだ。

 あの、悪魔のせいだ。


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