#11『断章/契約者、部外者、交錯』
文庫本を読み進める目に、心が追い付かない。心が誰かの声を呼んでいる。たった一言の日常の断片を必要としている。そんな熱望を忘れたくて僕は必死に文字列を心の中に詰め込もうとしていた。
デートから、早くも一か月が経った。撫でるような秋風は、次第に冷たく攻撃的な北風になっていた。街は、クリスマスに向けてネオン電飾でドレスアップしていく。
もう、十二月だった。あざみが恋人になってちょうど一か月だ。
――僕とあざみのデートは、予想外のパニックが発生することもなく終わった。自己評価をするならば、『恋人に擬態することはできた』だろう。
文化祭っていうのは、どうも他の学校とも日程が重なりやすく、月曜日の割には学生のカップルが街を行きかっていた。
――そいつらはカップルじゃなくてただの、男女一組の『友達』だったかもしれないけれど、僕は『カップル』と『そうじゃない男女』で構成された人の流れで、カップルに擬態できていた。
主に、あざみの尽力のおかげだが。
リストアップされた彼女の『本気で恋愛するための課題』は、徹底された恋愛マニュアルだった。恋人っぽい振る舞い一つ一つが書き留められている。僕は、その台本通りに演技すればいい。演技には自信があった。建前のおかげだ。
デートの時点で、『本気で恋愛するための課題』は半分以上達成されてしまった。
効率厨かよ。
おまけにこの一か月間で三〇〇あった課題も片手の指で数えられるくらいになっていた。
……効率良すぎる。
昨日なんかあざみ自身が『恋人レベルってこんなに簡単に上げられるんですね……』って達成リストを眺めながら呟いていた。
いや、お前が作ったリストだろ。
ともあれ、僕は未だにリストの全容を見せてもらっていない。
あと五つ……?
そういえば、発展課題とか言っていたよな……?
まだまだ身構えとかなきゃいけないな――僕は独り、文藝部室で文庫本を開きながら、短かった一か月に思いをはせた。
思いをはせた? 過ぎ去った記憶を憧憬しているわけではない。だって、僕のこの一か月は芝居で成り立っていたのだから。振り返るような過去は刻まれていないはずだ。僕は、何の気なしに文庫本から目を逸らし、部室を見回した。
――僕とあざみ、平日は部室にこもって何かしらやっていた。
それは読書だったかもしれないし。授業の課題だったかもしれない。
ノートがあれば三題噺をしていたし、何もなければ雑談をしていた。ともかく、指定された下校時刻までは二人とも部室に残っていた。
たまにあざみが菓子のお徳用パックを持ってきたので、それを頬張っていた。お返しに僕も侵しの袋を持ってきていたら、部活にお菓子を持ってくるのが習慣となった。
冬が近づいてくれば、部室に眠っていた電気ストーブで暖を取った。もちろん、積みあがった本を横に退かして。
本を動かすのも力作業で、いざストーブを使おうというときには二人とも汗びっしょりでおかしくなって吹き出した。
下校時刻を過ぎたら――――、
そこで、僕は我に返った。換気のために開けていた窓から潜り込んできた冷気が、首筋を突き刺してきたからだ。
僕は、どうしようもなくて頭を抱えた。
思いをはせている――芝居だと思っていた、虚構の物語に向けて。
そんな自分に嫌気がさした。芝居だと思い込んでいた感情が、気が付いたらそうじゃなくなっていたような気がした。建前で生きていくと意気込みながら、自分の意志薄弱さに酷く吐き気がした。
僕は恐る恐る、誰も座っていない長椅子の方へと目を向けた。
そこには、いつも、あざみが座っている。
精神的な病を抱えていて保健室で授業せざるを得ない状態――彼女は、いつかそんなことを打ち明けていた。集団の中にいると発作が起きるとかなんとか。
だから、部活も一人で居られる場所を欲した。部活をしないという手もあったが、彼女のいとこだった生徒会長が色々手はずを整えてくれたらしい。
というか、生徒会長がいとこだった話本当だったんですね。てっきり冗談かと思っていた。なんなら、あざみも冗談で済んでほしい話ですよまったく……と呆れた溜息を漏らしていた。
強く生きてください、生徒会長様。
保健室登校の彼女は、いつでも僕よりも早く部室にいる。帰りのホームルームという概念が存在しないからだ。
そして、いつも決まってこういうのだ。
「おかえり……か。そういえば、あざみ……今日はまだ、来てないな」
熱を帯びた、『心の求めていたもの』。僕のことを迎えてくれる、ささやかな幸せ。
たとえ、虚構の感情で彼女と接していたとしても、その幸せの前にはどうしても建前が敵わないと屈してしまう。『おかえり』の言葉に何も返さないのは無粋だし、何より、ささやかな幸せの対価を払うために僕は『ただいま』と出迎えられることを受け入れている。
だけど、今日は出迎えてくれる暖かさはない。電気ストーブもプラグがコンセントと喧嘩をしたかのようにそっぽを向いていた。
執拗な北風にサヨナラするために、僕は窓を閉めた。肩苦情を占めたと思ったら、部室の扉が勢いよく開かれた。思わず、びくっ、と身体が跳ね上がってしまう。
……鐘来あざみが、部活に来た。
だけど。僕がその時見た彼女は、まるで彼女の皮を被った『何か』のようだった。
足取りは、覚束なく、神に覆われた両目の端には、うっすらと隈のようなものが見受けられる。
「あざみ……、どうしたの?」
「…………なんでも、ないです。ちょっとだけ、疲れることがあったので」
何かを隠している、そんな予感がして何故だか歯がゆい気持ちになった。そんな僕の事なんていざ知らず、彼女は定位置の長椅子に腰かけて、そこらに積まれていた文庫本を手に取って空想の世界に引き籠ってしまった。
僕は結局、『おかえり』の一言すら交わすことができなかった。
「ちょっと、昼休みに……、あまり会いたくなかった人と会ったんです」
しばらくして、文庫本を閉じた彼女は、唐突に言葉を放り投げてきた。だから、僕は読みかけの本にしおりを挟んで、放り投げられた言葉を受け止めることにした。
「その人は、わざわざ遠くから……、私の地元からここまで引っ越してきて、未だに私に付きまとっています。昔の自分の犯した罪の所為なんですけどね」
「それって、ただのストーカーなんじゃないの?」
「それは……、そうですけど」
彼女は口ごもった。そして、僕らの間には気まずい雰囲気が立ち込める。
懐かしい空気。僕らは放課後二人でいるとき、会話を交わさないことが多い。だから、沈黙の時間が増えるのは当然のことなのだが、こんな胸がざわざわとする空気は感じなかった。
きっと、彼女と過ごす時間が『芝居だったから』だろう。
だから些細な沈黙に気を遣わずに済んだのだ。そう、思い込んでいる。
「その人とは、昔……その、付き合っていたんです。曲がりなりにも」
「だからって、ストーカーを許す理由にはならないんじゃない?」
「そうかもしれません。ですが……」
「よく分からないよ、あざみ」
彼女は一体、何を隠しているのだろう? それはきっと、僕の知らない世界で起きた彼女とそれ以外のエキストラの物語なのだろう。
彼女は、元々誰かのお姫様だったのだ。
王子と姫様によるセカイ系御伽噺の結末は、引き伸ばされたままで終わっていないようだ。
終わらせるきっかけとして、彼女は僕を選んだのだろうか?
彼女は嘘をついて生きている。それが、僕の生き方に相応しいものだったから、僕は彼女に近付いた。
彼女の建前は、花の蜜のようだ。僕は働き蜂。
『僕と彼女の御伽噺を始める』から、『彼女は新たな御伽噺を理由に忘れたい物語を打ち切りエンドにする』
――僕は、彼女の操り人形でしかないし、そうだとしてもそれで構わないのだろう。
道化のような自分を嘲笑してみたくなった。そんなどす黒い本音を心の奥底にしまった。しまったはずだった。
「……オキナ、どうしたんですか」
「………………え、ぁ?」
なんで、そんなに悲しそうな顔で、笑っているんですか。
――僕の建前はもう、使い物にならなくなってしまったのかもしれない。
「なんでもない……、ごめん、今日はもう帰るね」
このままだと、ガラスよりも脆い己の内面が発露してしまいそうで、怖い。
だから、僕は。
水瀬おきなは、鐘来あざみの箱庭から飛び出した。
「待って」――そんな言葉はすぐに遠ざかっていった。
※ ※ ※ ※ ※
走った。走った――、どれだけ走っただろう。僕は、独り、がらんとした帰り道を走り抜けた。目の前に馴染みのある背中を見たが、それも無視して、ひたすらに走り抜けようとし「やあ、ごきげんよう――水瀬おきな少年」無理でした。
追い抜いたと思ったら瞬間移動してきたのは、あざみのいとこ、生徒会長。名前は名乗らない主義らしい。生徒会長キャラで通っているからわざわざ自分のダサい名前を世間に公表したくないとのこと。今のままでも十分ギャグキャラだけど、確かに本名が『太郎』っていうジャパニーズベーシッククソダサネームだったことを知ったときに確信したよ、この男はギャグキャラになるべく生まれたギャグキャラの申し子だって。
多分、キザなキャラクタ性もギャグに通じてしまう。もはや天性。
「で、そんな生徒会長大郎先輩が何の用ですか」
「太郎は除こうね少年。――いや、ちょうど君が通りかかったから声をかけただけさ。気まぐれってやつさ」
はぁ……、生徒会長もとい、大郎先輩の思考は一般人には理解できないくらいに独創性あふれるもののようですやはり天性のギャグキャラは違う。
「いや用がなければ帰りたいんですが」
「おぅ……冷たいなあ少年よ。ボクがちょうどこの瞬間、話したいことを思い出したというのに」
「それってただの思い付きでは……?」
「そうとも言う」
付き合ってられるか。僕はそそくさとその場を立ち去ろうとした。
「おぅ、おぅ……待ってくれないか少年。ボクはいたって真面目な話をしようと」
「真面目な話をしそうな雰囲気ではないですね!! いや、馬鹿真面目に馬鹿っぽいことを話しそうですね待ちませんからっ!」
「さすがに酷い印象……」
どうやら本気で落ち込んでしまったらしい。さすがに可哀想になって僕は足を止めて彼の方へ引き返した。前言撤回しますから、道端で体育座りしながら夕日眺めて黄昏ないでください……。
「おぅ、失態ッ。そういえば、君はあざみと同じような人間だったんだッ……。だからボクのような人間と波長が合わないッ!」
「どうしてそこであざみが出てくるんですか」
「かかったな」
「……えっ」
次の瞬間、目にもとまらぬ速さで大郎先輩の体育座りが『展開』し、僕めがけて『射出』した。瞬きの間に僕は、先輩の肩に担がれていた。じたばた足掻いてみても抜け出せない。
「さあ、少年。夕飯を奢る代わりに僕と話をしないか?」
「夕飯の場所にもよります」
「サ○ゼ」
「意外と庶民的だった」
「雑談をするには気楽に話せる場が大事なのさ。高けりゃいいってものじゃない」
「持ち金が無に近いだけでは」
「大丈夫だ、心配ない。サ○ゼで豪遊できるくらいは持ってるさ」
サ○ゼで豪遊って、パワーワード全開ですね。僕は、ふとそんな他愛ないことを思いついた。……どうでもいいわ。
「ちなみに話の内容も聞きますね」
「僕の最愛のいとこ、あざみについて――君に話しておきたいことがあるんだ」
大郎先輩は、初めて僕の前で真面目な表情を見せた、気がした。必死層に訴えかける情熱の目線がこちらを覗く。
誘いを断るわけにはいかなかった。
サ○ゼの定番メニューは、やはりミラノ風ドリアに限る。だって安いわりにはちゃんと食べた気になれるし。ドリンクバーがセットだとなお良し。異論は認める。
「確かにサ○ゼで豪遊できるくらいの金はあるようですね」
「そこそこは裕福な家庭に育ったのでね。単純にボクのエンゲル係数が並外れているから親が多めに小遣いを渡してくれるのもあるんだけどさぁ」
対して、大郎先輩はテーブル二つ分を、サラダやスープ、色とりどりのピッツァ、スパゲティにハンバーグ、それに加えて一品料理、お決まりのドリンクバーで埋め尽くしている。ちなみにドリアとデザートは別腹らしい。ドリアをデザート枠にぶち込むな。
「で、あざみの話って何ですか」
「早速本題に移るか少年、その心意気や良し」
大郎先輩は、優雅にティーカップを手に持った。そして、慣れた所作で紅茶を口に含んでいく。彼の動きは作法というか、一つの様式美だった。僕はこれを以後、『大郎式』って呼ぼうと思う。
いちいち先輩の所作がおかしくて吹き出しそうだから、即却下したけど。
「君は、ひょっとしたらあざみと一番距離が近い人物なんじゃないかなって思うんだが――どうだろう?」
「どうだろうって僕に言われましても。別に彼女との距離とかまったく考えたことなかったですね」
「……そうだろうな、とは思っていたよ。君はあざみとよく似た人間だってことは薄々勘づいていたからね」
「あざみと同じ人間……?」
「つまり、本音をあまり漏らさない。うわべだけで人と接しようとすることだ」
――確かに、その共通項に焦点を当てれば僕と彼女は、近似値だろう。
「というか、彼女との共通点はそれくらいしかないはず……?」
「ちなみに君が建前で人と接するようになった理由とかはあるかね?」
先輩は、何を考えているのだろう? 僕の建前について探ったところで出てくるのは過去の負の遺産だけだ。弱みを握りたいのか? 弱みを握る理由は?
「ふふ、疑心暗鬼に陥っているようだね」
「……根拠は?」
「あざみと似ているからだよ。昔から彼女と一緒にいることが多いからね」
「手も足も出ないですね。ええ、そうです。疑心暗鬼に陥っていましたとも。僕の建前の理由を聞いたところで、先輩にはメリットがあるんですか? あるとしたらそのメリットは、僕にとってのデメリットになりえますか?」
「ずいぶんと回りくどい質問だ。そういうところも、あざみとそっくりだな」つまりは、こう言いたいんだろう――ボクが君の弱みを握ろうとしているんじゃないかって。落ち着いた微笑を向けてくる先輩は何でもお見通しのようだ。
僕は軽く頷いて肯定する。
「大丈夫さ、弱みを握ろうとしたわけじゃない。トラウマな出来事だとしたら無理に言わなくてもいい。ただ簡単に『建前で自分を守るようになったきっかけ』を教えてほしいだけなんだ」
「……それは、本音を漏らしたら、傷ついたことがあったからです。……好きな人に告白したら、その噂が学校中に知れ渡ってたくさんの非難を浴びたんですよ」
「本音を言ったら、傷ついた。それも、君を取り巻く世界が全て敵になった、か」
よく頑張った。偉いぞ。会長は俯きがちな僕の頭にそっと手を置き、擦り始めた。
唐突で意外な反応に、僕は驚いて声を出せなかった。だけど、自然に彼の手を退けることはできなかった。駄目だこの先輩、キザなギャグキャラだと思わせておいて、的確な位置で爆弾を仕掛けてくるからずるい…………。男でも惚れてしまう。
トゥンク……、と胸の高鳴りの音を耳にした気がした。
ちなみにキャラクターボイスは、大郎先輩です。どう足掻いても彼はギャグキャラでした。うん、いい加減我に返ろう。僕は、先輩の手を退けて、グラスいっぱいに注いだオレンジジュースを一気飲みした。目が覚めた。帰ってきた現実では相変わらず、大郎先輩が優雅なティータイムをしている。いつの間にか料理は平らげられていた。
「君は、ボクよりもあざみに近付ける存在だよ。根拠なら、今さっき証明されたよ」
「先輩より近づける? そんな馬鹿な。だって、僕と彼女は建前で会話していて」
「残念ながら、そう思っているのは君だけだ」
――じゃあ、彼女が僕に対して本音で接している、ということですか?
だとしたら、僕は彼女に失望してしまうかもしれない。いや、私は建前で喋っているっていう建前で彼女は僕と接していたのか? 建前の建前は本音ということか。嘘の嘘が真実へとひっくり返るように。
頭の中で無数の麻縄が絡まり合って固く縛られている。紐をほどくには僕だけの力じゃ無理そうだ。あざみだけが真実を知っている。あざみのみぞ知る、彼女の真の感情――つまり、本音。僕が追い求めているもの。
「ボクはね、一度だけ彼女の本音を目にしたことがあるんだ、たまたまね」
「それは羨ましい限りですね。僕が今一番に知りたいものなので」
「あんまりいい気持ちはしないよ。正直、見るに堪えなかった。少なくとも今の彼女とは同一視できないくらいに別人だ」
「余計興味が湧いてくるじゃないですか」
「たとえ、その事実があんまりいいものじゃないとしても、君はあざみの本音を知りたいのかい?」
「事実がいいものじゃないからこそ、求めているんですよ」
僕は、彼女の堅い殻で覆われた中身に興味がある。その中身が堅い殻と似ていたようでは面白くない。
「本音で語って傷つくなら、建前で綺麗な会話をした方が誰も傷つかないだろう?」
「傷つくとか、傷つかないとか関係ないんですよ。――僕は決して傷つきませんから」
彼女は、どうしても傷つくだろうけど、僕はそれで構わない。だって、僕は彼女の本音さえ暴ければいいのだから。
建前は人を傷つけないための盾であり、自分が傷つかないための盾でもある。
だけど、それでいいのか?
――彼女の建前の理由を知りたいなら、彼女の本音を知らないといけない。
この一か月で――特に、文化祭後のデートから考えが変わってきた気がする。
「もしも、君が本当にあざみと本音で接したいと思っているなら、――ボクからも彼女のことをよろしく頼む。ボクでは、彼女のことを救うことができないから」
「救うって大袈裟な」
「あざみの精神疾患は、――彼女が本音を隠す理由に至った出来事のときに罹患したものだ。もしも、君が彼女と本気で接することができたならば、彼女の病は治るかもしれない」
「僕は精神科医じゃありませんよ。管轄外です」
「ボクは真面目だ。あいにく、建前は君たちのように得意というわけじゃないのでね」
帰りますね――、僕は荷物を片手に持ち、席を立った。もう、彼と話すことはない。
「ボクが君に何かを求めるのは間違いかもしれない。だけど、ボクには彼女をどうにもできないんだ。そして、君にはあざみを救ってあげられる素質がある」
「たとえ僕にあざみを救う素質があったとしても、他人を救ってあげるほど僕は聖人じゃありませんよ」
「いいや、君は、本当は優しい人間だよ」
「先輩に、僕の、何が、分かるんですか」
「君の目は、冷たい人間になり切れていないよ。そして、それはあざみも一緒だ」
――君達は、この世界に怯えているような目をしているよ。
そんな、僕の何もかもがお見通しだ、とでも言いたげな大郎先輩の熱のこもった目を僕は、きっといつになっても好きになることができないのだろう。
「どうか、彼女を救ってあげてくれ」
「――失礼します」
僕は、足早に席を後にした。ドリアとドリンクバー代を机に叩きつけて。
答えを出す気にならなかった。どうして僕に期待をする。僕の人間性をゼロから百まで知らないのに、僕のことを語らないでくれ。
……僕と、あざみが、この世界に怯えている。
先輩の残したその言葉だけが、胸中をざわつかせていた。
※ ※ ※ ※ ※
――どうして、僕は校門の前に立っているのだろう。
無意識のうちに足が、文藝部室へと向かっている。
帰路を遡っている間、胸騒ぎが止まらなかったのだ。
この不快な胸騒ぎをどうにかして止めたかった。だから、思い当たる節を探って見ようとして真っ先に部室へ向かおうとしていたのだ。
夕暮れの空は、深い夜の色に今にも呑み込まれそうだった。
下校時刻が差し迫っている。僕の足は、いつの間にか早足になっていた。
「おい、ミナセ」
「……ツマシロじゃん。帰り?」
「ちょっと私用でテニス部抜けてきた。これから帰りだ。一緒に帰るか?」
「ごめん、忘れ物をした」
じゃあね。僕は軽く手を振ってその場を立ち去ろうとした。
「どうせ、文藝部だろ? ――彼女に会いに行くのか?」
「……まあね。大事な用事を伝えるのを忘れてきたんだ」
「せいぜい、幸せ、にな。――彼氏さんよ」
僕は、振り返った。彼はもう、足早にその場を立ち去っていた。
歩き方が、やけにぎこちないように見えた。
だが、僕には彼の背中に声をかける余裕もなかった
部室棟の階段を上る。
棟の隅に位置する文藝部室に向かっている。
上の階で誰かが駆け下りてくる音がした。
階段の幅は狭いので壁際に体を寄せる。
足が踊り場でくるり、と華麗にターンをした。
小柄な身体が一段飛ばしで下ってくる。
緑がかった漆黒の視線が、僅かに合ってしまった。
耳元で、囁かれた、「嘘つき」
僕が振り返ったときには、彼女の姿はもう階下に過ぎ去った後だった。
釜澄ざくろ――あのシルエットは、僕の幼馴染そのもの。
何があったのだろう。部活内でのトラブルかな? だけど、だとしたら僕をあんな目で睨みつけないよな。それに「嘘つき」って……?
結局、ざくろの考えていることが何なのか、思考している間に、僕は文藝部室の前に立っていた。
「……あざみ、いるか?」
僕は、部室の扉を開いた。
そして。
定位置の長椅子の上でうずくまったまま、震えている彼女を発見した。
「怖いっ……怖い、怖い怖い、怖い…………っ!」
縮こまったまま、ぶつぶつと原因不明の恐怖に怯えている彼女には、僕の存在が認識されていないようだった。
「あざみ、――あざみ、聞こえるか?」
僕は本の山を掻き分けて、彼女のもとへ足を進める。
ようやく声が聞こえたのか、あざみは泣きはらした顔を勢いよく上げた。そして、椅子を伝って僕の方へと駆け寄ってくる。
「うっ、あっ……、怖い、怖い怖いっ、助けてぇ……っ、助けて、オキナ君っ」
涙が宙で踊る。椅子の上から、僕の胸元に飛び込んできたあざみ。僕はその勢いを抑えることができず、彼女を抱きとめる形で本の山に飛び込んだ。
「あざみっ……どうしてっ…………!」
彼女は依然、僕の胸の中で嗚咽を漏らしている。泣き止む気配はない。本の山に埋もれながら、僕は、大郎先輩にやってもらったように彼女の頭を撫でた。
彼女の姿が、誰にもすがれなかった過去の僕自身にそっくりだと思った。
誰にもすがれずに一人で朽ち果てていくことの辛さは、身をもって感じたことだ。
だから、こうやって手を差し伸べることができるのかもしれない。
僕の今の感情は、建前なのか? 本音なのか? ――そんなことはどうでもよくて、今は彼女が落ち着くまで一緒に居ようと思った。
どうやら、僕と彼女は共感できる部分が多いらしい。だから、大郎先輩にも似た者同士って言われたのかもしれない。
僕は、彼女のことが嫌いだけど、きっと、好きだ。
本の山に被せるようにして、バラバラに引き裂かれたコピー用紙があった。部室に置いてある、部誌製作用の有り余る量のコピー用紙の一部だろう。
油性ペンのツンとする匂いが微かに残っている。
殴り書きで記された文字が、用紙を汚している。
『お前は、また、神様呼ばわりされるぞ……昔のように』『神の暴政』『気付いたら彼女の周りに誰もいない』『主導者』『俺を捨てた人間』『不幸にしてやる』『クラス社会で罰ゲームでも受けろ』『弱みは握っている』『鐘来あざみは裏切り者』『恋人殺し』『許さない』『神、誰よりも上位にいる』『クラスを道具として扱ったからお前は捨てられたんだ』『まだ復讐は終わっていない』『お前から一つ残らず幸せを消し炭にしてやる』
――酷く汚れた文字列に思わず、吐き気が込み上げてくる。僕はそれらの髪に目を向けるのをやめて、部室の天井を見つめていた。ぼぅ、っとしていた。
ツマシロは、どうして僕とあざみが付き合っていることを知っているような口振りだったのか。誰からその情報を仕入れたのか。
そして、ざくろはどうして部室の方から階段を下ったのか。彼女の所属する部活は部室棟の一階に部室を構えているらしい。わざわざ最上階に来る理由などないはずだ。
去り際に吐いた、「嘘つき」の一言も妙に心につかえている。
「僕が、何か、悪いことをしたのかよ」
これじゃ、まるで僕だけが罪人みたいじゃないか。
僕の建前上の幸せが、そんなに恨めしいのか? 世界中のクソ人類に向けてスピーカー片手に暴れたくなる衝動を抑えきるのは難しかった。
「やりたいことくらい、勝手にやらせてくれよ」
僕は、彼女の建前を破り捨てたいだけなんだ。
僕は、彼女の本音を探し求めたいだけなんだ。
僕は、――――彼女をもっと知りたいだけなんだ。
だけど、まだ僕は彼女のことを何も知らない。
建前を破り捨てなきゃ、本当の意味で彼女の手を握ることはできない。
震え、泣きじゃくったままのあざみの頭を何度も擦る。
彼女の恐怖の意味が知りたくて。彼女の過去が知りたくて。
僕はその時初めて、ひたすらに彼女を甘やかしてしまったのだろう。
自分でも悲しいことに、建前で着飾ることを一切しない、正真正銘の本心で。




