#01 『プロローグ/偽りの始まりを』
僕は、息を呑んだ。空気がピンと、張り付いているような気がした。
日が暮れた頃の教室には、藍色の哀愁漂う空気が充満している。
二日間にかけて盛大に執り行われた文化祭は、いよいよ終幕に向かっている。
体育館では後夜祭が執り行われていた。
有志バンドに向けた黄色い歓声が、今頃沸き上がっているのだろう。
その熱狂に満ち満ちたBGMは、残念ながら僕と彼女を取り巻く空気には不相応だった。
ちょっと黙っててくれないか、せっかく一世一代の告白ってやつを演じたのによ。
僕の気が動転でもしたら彼女にバレてしまうだろう。
――なんて、内心で毒づいてみる。
幸い、こちらの些細な動揺に、目の前の彼女は気付いていないらしかった。
この世界を取り巻く天蓋というキャンバスでは、夜の訪れを報せる藍色と、アメジストを磨いたような濃い紫と、地平線の彼方に沈むめらめらと照った臙脂色が鮮やかなグラデーションを描いていた。
僕と彼女の間には、暫しの間静寂の時が流れていた。彼女は、窓にかかった手すりに頬杖をつきながら、空を埋め尽くす鮮やかな色彩を眺めていた。
彼女が何を考えているのか、建前で目隠しをした僕には分かりっこないことなんだろう。――だが、今はそれでいい。いずれ、彼女の本性を暴き出せたのなら。
ふと、
「今の私は、本当の私ではないけれど」
窓の外から、僕へと視線を移した彼女は、そのままこちらに向かって微笑んだ。
いささか、弱気で、儚げな印象が焼き付いた。
果たして、その表情も、建前なのか。
――君は、僕と同類項なのか。
僕はあくまで無言を貫いた。ただ、彼女の瞳を見つめ続けた――鷹が獲物を捕らえた時のようなイメージだ。見つめる、というより、射殺すように視線を合わせる。
為すべきことはただ一つ、建前を貫き通すことだけだ。
再び、彼女の口は言葉を紡ぎ始める。
「私が誇張に満ち満ちていたとしても、貴方は私のことを気にかけてくれるの?」
僕は、一瞬間を開けて、はっきりと答えを口に出した。
窓の端で結ばれていたカーテンが、唐突にほどかれた。
それは、僕と彼女の間を遮った。
舞い込む、秋の終わりの、冷ややかな風。背筋が震えた。
悪寒のような何かを感じて、僕は何の気なしに後ろを振り返った。
――誰も、いるわけがない、か。
廊下の向こうで、誰かが駆け足で去っていく音があった。
きっと、友達を追って後夜祭に向かったのだろう。僕の知らない世界の話だ。
今、僕の世界は、この教室だけで事足りる。普段なら整然と並んでいる机や椅子は、どこかのクラスの出し物にでも使われているのだろう。
ともかく、僕と彼女だけの世界には、二人を隔てる障害物が見事になかった。あるのは、夜闇に溶けていく影と、僅かに差し込む夕日がもたらす光だけ。二極化した世界に僕らは取り残されていた。
不意打ちの突風が止む。カーテンで遮られていた僕らは、すぐに再会した。
ただ、あの風は、僕に素晴らしい事実を吹き込んでくれたらしい。
彼女と僕の視線が合う。
僕は彼女の表情を見て、思わずにやりと、頬を緩ませた。
ようやく、本性を、表したんだろうな――建前女が。
「じゃあ、貴方がそう言ってくれるなら、私は貴方を信じましょう」
せいぜい、後悔しないように。
天使のような悪魔が、そこにいた。
舞い込んだ風が、きっと眼前の天使もどきの化けの皮を剥がしたのだろう。
「後悔するのは、果たしてどちらか」
僕は、悪魔に向けて宣戦布告をした。
僕こと、水瀬おきなと。
彼女こと、鐘来あざみ。
――これが、たった二人のちっぽけな戦争が幕開けた瞬間だった。




