サヨナラのかわりに
「おばあちゃん! どこ行くの?」
今年幼稚園に入ったばかりのひ孫に声を掛けられ、ソフィアはゆっくりと振り返った。
お気に入りのステッキで曲がった腰を支え、転ばないように生垣の支柱に手を添えた。
ステッキに貼ってあるきらきらの流れ星のシールは、この愛らしいひ孫がくれたものだ。
「これからお友達に会いに行くのよ」
ソフィアは皺だらけの目を細めた。
「1人で?」
「そうよ。1人で行きたいの。いい子でお留守番していてね」
そう言うと、ソフィアは優しくひ孫の頭を撫でて、市街地行きのバスに乗った。
******
――お友達。
その言葉に、ソフィアは自分で笑ってしまった。
彼と会うのは、およそ50年ぶりで。友人と呼ぶのもためらうほどの疎遠ぶりだ。
それでも、ずっとずっと会いたくて…。
再会の時を長く待ちわびていたのだから、心が躍る。
「あらあら、まぁ」
バスを下りて郊外を歩いていたソフィアは、街の変貌ぶりに驚いた。
どっちに歩けば良いのやら困り果て、こんとステッキを鳴らして辺りを見回した。
「こっちかしらねぇ」
もちろん確信はない。
だが街中にあふれる標識や、うろ覚えの記憶を頼りに歩いていくと、大通りを曲がったあたりから、ふっと懐かしい気持ちがこみ上げてきて、嬉しくなった。
「あぁ、やっと見つけた! ここはちっとも変わってないのねぇ」
眼前に広がっているのは、広大なヒマワリ畑だ。
一面が黄色に染まり、ソフィアの背を超えるほどの花が地平線の向こうまで続いている。
思わず駆け出そうとして、爪先から転びそうになった。
まったく、
年老いてからの炎天下の外出は、とても疲れること。
汗が噴き出し、くらりと眩暈がして、よろけながら近くのベンチに腰を下ろした。
すると、
とたんにポロポロとこらえきれないほどの涙が瞳から溢れてきて、困ってしまった。
「あら、やだわ」
慌てて涙をぬぐい、まっすぐにヒマワリ畑を眺めた。
「…懐かしいわねぇ。まさか、またこの場所に戻ってこられるなんて」
しみじみとそんなことを考えながら吐息をもらした、その時。
「どうぞ」
彼女にハンカチを差し出した男がいた。
右手にハンカチ。
左手には、切ったばかりのヒマワリの花を数本抱えている。
ソフィアは、思わず目を細めた。
自分と同じくらいの年恰好。
額に刻まれた年輪の皺の数に、年甲斐もなく気持ちが浮き立った。
「お花もどうぞ」
「それは、どうもありがとう」
ハンカチとヒマワリの両方を受け取り、彼女は丁寧にお礼を言った。
男が、ベンチに座る。
肩先が触れる距離で、2人はそれを気にすることなくヒマワリ畑を見つめた。
言葉が出ない。
『――お久しぶり。元気そうね。お互い年を取ったわね』
用意してきたセリフは、口をつくことなく喉奥に飲み込まれていく。
「あの戦争がなかったら、きっと僕たちは結婚していたよね」
男が、呟いた。
「プロポーズした君に遺書を手渡して、僕は戦地に赴き、捕虜になって死んだことにされて、悲しいかな君は別の男と結婚した」
淡々と、静かな声が響く。
ソフィアは、無言で耳を傾けた。
「命からがら帰国した僕は、違う女性と結婚し、家族を作り、気づくと50年が過ぎて。僕は、こんなにもおじいさんになってしまったよ。…あぁ、君、お孫さんはいる?」
「ひ孫もいるわよ。とても可愛いのよ」
「そう」
さわさわと風が鳴った。
目の前のヒマワリが揺れ、鮮やかな黄色が大昔の光景へと心を誘う。
8月の暑い日。
ソフィアは、ここで彼のプロポーズを受けた。
幸せな気持ちになった数日後、彼は婚約者を置いて、遠い海の向こうへと渡ったのだ。
「だんだんと、記憶が薄れていくのは寂しいものねぇ」
「引き出しのカギをなくしただけだ。中身はちゃんとそこにしまってあるから、きっと大丈夫」
昔と変わらない笑顔でそう言って、彼はソフィアを見つめた。
「変わらないねぇ、君は」
「ふふ。お世辞だと分かっているけど、ありがとうと言っておくわね」
「本音だけど」
「信じませんよ。あなたは昔からウソつきだから」
彼がついた最大のウソは、あのプロポーズだろう。
結局、ソフィアたちは結婚しなかったし、その後会うことも、手紙のやりとりもなかった。
あの戦争がなければ…と、何度思ったかしれない。
旧知というには、あまりにも切ない相手との再会だ。
男が、ゆっくりと立ち上がった。
「では、また」
握手を求められ、ソフィアはそっと手を伸ばした。
彼の指先に触れると、握り返す彼の手に力がこもった。
「では、また」
と、男がもう1度呟いた。
ソフィアはこくりと頷いたものの、どうしても指先が離れない。
別れがたい気持ちに胸が詰まり、お互いに手を握り合ったまま動けなくなった。
「こんなに近くにいるのに、私たちはとても遠い存在になってしまったわね」
声を震わせて。
ソフィアは、サヨナラの代わりにその言葉を送った。
** *
それから、どれくらい経った頃だろう。
ソフィアがベンチに座ったまま動けないでいると、畑の入り口から、1人の青年が走ってきた。
両腕に大きな猫を抱き、汗だくで近づいて来る。
「失礼。ソフィア・ルトニアさんですか。はじめまして、僕、セフ・ロウです!」
「あぁ」
その笑った表情が、若い頃の彼を思い出させた。
とても懐かしい、よく見知った笑顔だ。
「突然、連絡をしてすみませんでした。亡き祖父の遺書に、あなたと今日ここで会う約束をしたと書いてあったものですから。何十年も昔の口約束だと知りつつ、もしかしたらと思って」
「いいのよ」
ステッキに体を預け、ソフィアはゆっくりと立ち上がった。
黄色い花の隙間を縫って吹く風が、柔らかく彼女の頬を撫でる。
「あのね、今、彼に会ったの。とても楽しくお喋りをしたのよ」
「……?」
「彼、ちっとも変わってなかったわ」
不思議そうに首を傾げる青年に目を細め、彼が抱く猫を指差した。
「ところで、それはどうしたの?」
「すみません。ここに来る途中に逃げ出してしまって。慌てて追いかけてたら、遅刻して…。あぁ、それより暑いですね。僕の家にいらしてください。祖父の昔話も聞きたいですから」
そう言って、青年はゆっくりと片手を差し出した。
昔と同じ――
変わらない優しい笑顔で…。
…友よ。
もし、そう呼ぶのが、許されるなら。
私はまた、あなたと一緒に、楽しい時間を過ごしたいわ。
この場所から――
《完》




