オトメゴコロ
彼女にフラれたばかりの僕と、その隣で飴玉を舐めている幼なじみの夏帆。なんかすごく頭くるんですけど……。そんなふたりの、夏の始まりのお話。
《二年前に短編として投稿していたものです》
「これ、食べる?」
ホームのベンチに腰かけた僕の前に、飴玉が一個差し出される。
あのなぁ……僕はもう、こんなもんでご機嫌になるような、子供じゃないんですけど。
「おいしいよ。ほら」
夏帆は僕に飴玉を押し付け、自分の分を口に放り込む。
「この、しゅわしゅわーっ感が、やめられないんだよね」
お気に入りの、ソーダ風味の大玉を舐めながら、僕の隣でにこにこと幸せそうな夏帆。
……なんかすごく頭くる。
まだ梅雨だというのに、夏のリハーサルみたいに、ギラギラした日差しが照りつける午後。
高台にある、ミカン畑に囲まれた、この小さな駅のホームからは海が見えた。
だけど、生まれた時からここで暮らす僕らにとって、そんなもんは見飽きた光景。
駅員さんの、のんびりとしたアナウンスが流れ、下り電車がホームに滑り込む。そして、何人かの乗客を吐き出すと、電車はまたゆっくりと走り出す。
ベンチに座ったままの、僕らを残して……。
「あー、暑っ。海でも行って、ひと泳ぎしたいところですなー」
スポーツタオルを首からぶらさげ、ブラウスのボタンをひとつ開けて、持っているうちわでぱたぱたと扇ぐ夏帆。
まったく……お前はいつも気楽でいいよな。
「暑いなら帰れば?」
「そっだねー」
そう言いながらも立ち上がろうとせず、夏帆は僕に向かって風を送ってきた。
だから、そういうの、むかつくっての。
「あー、もういいから! 帰れよっ!」
僕の叫び声が、誰もいないホームに響く。夏帆はきょとんとした顔をして、うちわを持つ手を止めた。
線路に迫りくるような緑の山。蝉の声だけが、気まずい僕らの耳に、騒がしく聞こえる。
「あ、えっと……ごめん、夏帆」
夏帆がぷっと吹き出すように笑いだす。
「そうやってすぐに謝っちゃう光稀って、好きだなー」
好きだなーって言うのは、夏帆の口癖。
「俺、別に夏帆のこと、好きじゃないし」
「だよね。光稀、桃ちゃんと別れたばっかだもんね」
そう、ついさっきね。一年間付き合った桃花にフラれたところを、ばっちり夏帆に見られてしまったわけで……。
それからずっと、夏帆は僕のそばにいる。
「俺のどこが悪かったんだろ……」
そんなことをつい口走ってしまったのは、夏帆とは長い付き合いという、安心感がどこかにあったからか?
「受験勉強に専念したいなんて、俺と別れるための、口実としか思えない」
「そっかもねー」
夏帆は二個目の飴玉を、口の中に放り込む。
「なぁ、俺のどこが悪かったと思う? 顔? 頭? それとも性格?」
「うーん……」
夏帆はうちわを持った両手を、膝の上にちょこんと乗せて、体をこちらに向けた。
片方のほっぺが飴玉のせいで、ハムスターのようにぷっくりふくらんでいる。
「乙女心がわからないとこ、かな?」
オトメゴコロガワカラナイ?
そりゃあ僕は、恋愛経験豊富って、威張れるほどのもんじゃないけど……だけど女の子を好きになったことも、付き合ったことだってある。
しかも桃花とは、高二の夏から一年間も付き合ったんだ。少しは乙女心ってやつも、理解しているつもりだったけど……。
「男と付き合ったこともない、お前に言われたくないね」
「……やっぱり光稀、わかってない」
夏帆は言って、顔をそむける。僕はそんな夏帆の横顔を眺める。
七月の日差しが、夏帆の横顔に当たっていた。黙ったまま見上げているのは、青い空か、流れる雲か?
頭の高い位置でひとつに結ばれた髪。思ったよりも白くて長い首。睫はくるんと上を向いていて、ちょっと厚めの唇はうっすらとしたピンク色。
クラスの女の子たちのように、派手な化粧をしているわけじゃないのに、夏色の空の下の夏帆は、なんだか綺麗だった。
だけど……僕にはなぜか、そんな夏帆の表情が、どこか寂しそうにも見えたんだ。
「……夏帆?」
夏帆の口の中で、飴玉がころんと音を立てる。
「ごめん」
僕の隣で夏帆が吹き出す。
「やっぱ好きだなー、光稀」
結んだ髪を揺らして、横を向いた夏帆と目が合う。
その途端、体中の熱が急上昇して、顔がやたらとほてってきた。
おかしい。なんかおかしい。夏帆の「好きだなー」は、そういう「好き」ではないはずなのに。
「あのさ、夏帆」
「ん?」
夏帆はもう、いつもの夏帆だった。口の中で飴玉を転がして、時々「すっぱーっ」と、顔をしわくちゃにしている。
「やっぱ、いいや」
「そう?」
ちょっと笑って、夏帆は両手を思いきり空に伸ばした。白いブラウスから、ほのかに漂ってくるのはレモンの香り。
「ま、女は桃ちゃんだけじゃないし」
夏帆が僕の顔を見て言う。
「ここに、こんなに可愛い女の子もいるしねー」
「は? どこにだよ?」
「ここ、ここ! 光稀の目の前にいるじゃん!」
自分のことを指さして笑う夏帆。見慣れたはずの笑顔なのに、それがすごく新鮮に見えるのは、どうしてだろう。
僕たちの前に広がる海。どこまでも青く、どこまでも広く、そして美しい。あまりにも身近すぎて、今まで気がつかなかったけれど……。
「さてと、それじゃ、あたしは帰りますか」
夏帆がすくっと立ち上がる。僕は手に持っていた飴玉を口に入れる。
甘くて、すっぱい味が、しゅわしゅわと口の中に広がった。
「んじゃ、またっ」
ふざけて敬礼みたいなポーズをしてから、夏帆は僕に背中を向ける。
学校帰りの駅で、僕は桃花と別れた。それから電車に乗って、いつもの駅で降りて、なんとなくこのベンチに腰かけた。
自分ではよくわからなかったけど、僕はかなり、ダメージを受けていたようだ。まっすぐ改札を出れずに、この炎天下のベンチで、意味もなく、何本もの電車を見送ったくらいなんだから。
だけどそんな僕の隣に、夏帆はずっといてくれた。
慰めるわけでもなく、何か聞いてくるわけでもなく……ただずっと、僕の隣にいてくれた。
そして僕は――そんな夏帆の「オトメゴコロ」を、全くわかってなかったのかもしれない。
口の中で飴玉を転がす。夏帆の口の中でも、僕と同じ味が広がっているのだろう。
甘くて、すっぱくて……ちょっぴり懐かしい味。
駅員さんのアナウンスが聞こえてきた。もうすぐ上り電車がやってくる。
僕はベンチから立ち上がって、屋根の下の階段を下りていく、夏帆の背中を見つめる。
「夏休みになったら、海でも行こうか?」
そんなことを言ったら、怒られるかもしれないな……。
「あたしを桃ちゃんの代わりにするな」って。
鞄を持ってホームを走る。僕とは逆方向へ電車が滑り込んでくる。
「夏帆っ」
薄暗い階段の途中で、夏帆が振り向く。
「あのさ……」
ちょっと首をかしげて、僕を見上げる夏帆。
「海でも行かない? 夏休みになったら……昔みたいにさ」
電車からパラパラと降りてきた乗客が、僕たちの脇をすり抜けて、階段を下って行く。
そしてそれとは反対に、夏帆が下りかけた階段を、ゆっくりと僕に向かって上ってくる。
夏帆の顔に、また夏の日差しが降り注がれた。
「光稀。それって、デートのお誘い?」
「まぁ、そういうことになるかな?」
「桃ちゃんと別れたばかりだってのに?」
「……ごめん」
ぷっと吹き出して笑いだす夏帆。
「やっぱ、あたし、光稀好きだー」
だから、そういうことは、そんなに軽々しく言うもんじゃないだろ? もしも、その「好き」に、深い意味があるんだとすれば、だけど。
夏帆は笑いながら、僕の手に飴玉をひとつ握らせる。そしてそのまま背中を向けて、跳ねるようにして階段を下りる。
「夏帆っ! 返事は?」
「考えておくっ」
結んだ髪を揺らして、夏帆は後ろ向きのまま手を振った。
僕は階段の上に立ち尽くしたまま、そんな夏帆の背中を見送る。
「乙女心かぁ……」
たぶん僕はわかっていない。特に夏帆の「オトメゴコロ」なんて難解すぎる。
だけどそれがわかった時、僕たちの関係は、何かが変わるのだろうか……。
口の中で小さくなった飴玉がころんと動いた。
ソーダのすっぱさは、いつの間にか消えていて、口の中には甘い味だけが残っていた。