めぐる季節の向こうに
幼い頃から隣にいるのが当たり前だった二人。春も夏もどんな季節も、このまま一緒に過ごせると思っていたのに……。
「はーるぅ、入るぞぉ」
少し乱暴な足音と共に、今夜もその声が聞こえてくる。
静まり返ったこの家には似合わない、低くて大きな声。
「お帰り、ナツ」
私の声に、ほんの一瞬間をあけてから、ナツが部屋に入ってくる。
いつもドアは開けっ放しなのに、私の部屋に入る前、ナツは必ずそうするのだ。
「あー、今日もしごかれたぁ! もう練習しんど」
「もうすぐ夏の大会だもんね」
「大会終われば引退だけどな。これでやっとあのクソ監督から解放される」
「そんなこと言っていいの? 甲子園行くんじゃなかったっけ?」
「行けるわけねぇじゃん。まぁ、一回戦くらいは勝ちたいけど」
「勝てるよ、きっと」
そう言いながら私は、少年野球チームのユニフォームを着た、ナツの姿を思い出す。
私の記憶の中のナツのユニフォーム姿は、それしかない。
「私も応援に行きたいな……」
ぽつりとつぶやいた私の言葉は、本心なんだろうか。
「来ればいいじゃん」
「……うん」
「来いよ」
ナツの声に、私が黙り込む。
「……はる」
私の名前を呼ぶ、ナツの少しかすれた声。開けっ放しの窓から蒸し暑い風が吹き込み、窓辺につけてもらった風鈴がちりんと音を立てる。
ナツの手が、そっと私の手を握った。そのぬくもりを合図に、私は静かにそれを待つ。
ゴツゴツした大きな手に力が入る。それとは逆に、まるで壊れ物にでも触るかのように、ナツの唇がかすかに私の唇に触れた。
ひいきの野球チームの帽子をかぶって、小学校の校庭を走り回っていた男の子。
声が大きくて、ちょっとお調子者で、いつもたくさんの友達に囲まれて笑っていた。
ナツキとはるかだから夏と春だな、なんて、隣同士に住む幼なじみの私たちは友達からからかわれたけど、それは嫌ではなかった。
小学生の頃、そんなナツと手をつないだのはたったの一回。
たまたま一緒になった学校からの帰り道。突然降ってきた雨から逃げるように、ナツは私の手を引いて走ってくれた。
あの頃のナツは私よりも背が低くて、声は高くて、その手はまだ柔らかかったのに。
「じゃあ、またな」
そう言ってナツが立ち上がる。
「……うん」
「また明日、来るから」
ナツの足音が遠ざかる。来た時とは別人のように、その気配を消すかのように。
ナツはまた明日も来てくれる。雨が降っても、風が吹いても、どんなに練習で疲れていても。
自分の母親が運転していた車で事故に遭った、隣の家に住む目の不自由な女の子のために。
「お隣、お引越しが決まったみたい」
ため息混じりの母の声を、私はナツの試合の日の朝に聞いた。
「え……」
私の前で、しばらく黙り込んでいた母が口を開く。
「ごめんね、はるか。お母さんちょっとホッとしてるのよ。これであの事故から、一区切りつけるんじゃないかって」
私は何も言わなかった。
あの事故から――ただその言葉だけが胸に深く残る。
お隣に住むナツと私は、親同士の仲も良くて、家族でバーベキューをしたり旅行に行ったり、小さい頃からまるできょうだいのように育ってきた。
六年生のあの日まで、ずっと変わらずに。
「中学の制服の採寸に行くんだけど。はるちゃんも一緒にどう?」
何気なく誘ってくれたナツのお母さんの言葉に、私も気軽にうなずいた。
たまたま一緒に行けなかった母を残して、私とナツは、ナツのお母さんの運転する車に乗り込んだ。
まさかあんな事故に遭うとは思いもせずに。
「ナツくんのお父さんはいい人よ。事故の責任は全て私がとりますって、誠心誠意対応してくれたし。ナツくんだって毎日はるかのことを心配して……」
「お母さん……あの事故は、ナツのお母さんのせいじゃないよ?」
信号待ちで止まっていた私たちの車に、トラックがブレーキもかけずに突っ込んできて……私はよく覚えてないのだけれど。
「わかってるわよ。そんなこと頭では……でもね、ナツくんはあんなに元気なのに、どうしてはるかだけがって……あの子の姿見てるとどうしても思っちゃって……」
母の声が涙声になる。事故で私が視力を失ってから、母は何度泣いたのだろう。
「お母さん、ナツは元気なんかじゃないよ。元気なふりをしてるだけ。だってナツのお母さんは……死んじゃったんだから」
命を落としたお母さんと、ほとんど無傷だったナツ。そして光を失くした私。
誰が一番つらいんだろう。
私は涙が枯れるまで泣いたし、死んだ方がましかもなんて思ったり、周りの人たちに当たり散らしたりもした。
だけど、自分だけが無事だったことを後ろめたく感じているナツは、私の前では決して泣かないし、泣き言だって言わない。
私のことを本当の娘のように可愛がってくれていたナツのお母さんの話を、この部屋ですることもない。
全ての責任を負うと言ったお父さんと一緒に、ナツも責任をとるつもりなんだろうか。
可哀想な私のために。
「わかってるわよ……」
母がもう一度そうつぶやいた。
「でもやっぱりそこにいて欲しくなかったの。だからお母さんが頼んだ。引っ越して欲しいって……」
「お母さんが……」
「ごめんね。だけどやり直したかったのよ。あの事故のことはもう忘れて、はるかの将来のために」
耳に響く、母のすすり泣く声。
誰が一番つらいのかなんて、どんなに考えたってわからない。
「はる。入ってもいい?」
今日も私はこの部屋で、ナツの声を聞く。部屋の前でためらうように、いつも一歩立ち止まるナツの声を。
だけど今日は少し様子が違う。足音が控えめだし、声も小さい。
「試合、どうだった?」
少しの沈黙のあと、ナツが答える。
「二対一で負け」
「……惜しかったね」
ゆっくりと部屋に入り、私の隣に腰を下ろしたナツが、小さなため息を吐く。
「試合、来なくてよかったな。どうせ負けたし」
「ナツ……」
「もうこれで終わりだ」
――これで終わり。
いつもそばにいてくれるナツの声が、なんだかすごく遠くに聞こえる。
「ごめん、ナツ。応援に行かなくて」
そんなナツに向かってつぶやく。
「ごめんね。もう私のところへも来なくていいから」
――だからお母さんが頼んだ。引っ越して欲しいって……。
それはきっと、ナツとナツのお父さんのためでもあるんだ。
ナツたちはもう、私に責任を感じなくていい。
泣きたかったらちゃんと泣いて、お母さんの思い出を大事に、前に進んで欲しい。
「はる……」
ナツの手が、私の手に触れる。だけど私はそれを振り払い、首を大きく横に振る。
「もう帰って。私は大丈夫だから」
「はる」
「ほんとに大丈夫。もうナツがそばにいてくれなくても大丈夫だから」
ナツの前で笑顔を作る。私は上手く笑えているだろうか。あの日以来、笑い方なんて忘れてしまった。
「じゃあなんで泣いてんだよ」
そう言ったナツの手が、もう一度私の手をつかむ。今度はさっきよりもっと強く。
「全然大丈夫なんかじゃないくせに」
握られた手を引き寄せられて、ナツにぎゅっと抱きしめられる。
「これで終わりだなんて……俺は嫌だ」
すがりつくように私を抱きしめたナツの声は、今まで聞いたことのない涙声。
そうか、そうだったんだね。
私がナツに支えられていたように、私もナツを支えていた。
ふとすれば倒れてしまいそうな二人は、お互いを支え合って、なんとかここまでやってこれたんだ。
「ナツ……」
私はそっとナツの背中に手を回す。あたたかいそのぬくもりを、この先ずっと忘れないように。
「ごめん。でももう……ナツには会いたくないの」
震える声に気づかれないよう、ゆっくりとゆっくりと言葉をつなげる。
「ナツに会うと、あの日のことを思い出してしまうから……だから……だからもうナツには会いたくない」
ナツの体がそっと私から離れていく。
ナツが今、どんな表情をしているのかわからない。ナツの泣いている顔も、怒っている顔も、笑っている顔も、私はこの先ずっと見ることができない。
私の知っているナツの顔は、ずっと小学生のまま。なのにナツは、どんどん私の知らないナツになっていく。
だからもう私のことは忘れて。新しい場所で新しい生活を始めて。
夏が過ぎ、秋が来て、冬が訪れ、春になり、そしてまた夏がめぐってくる。
繰り返される季節の中、きっといつか、ナツには素敵な人が現れるはずだから。
うつむいた私の頬に、あたたかい指先が触れる。体を離したナツが、私の涙をそっと拭って、消えてしまいそうな声でつぶやいた。
「……ごめん、はる」
立ち上がったナツが部屋を出て行く。遠ざかる足音を聞きながら、私はくずれるように床にうずくまる。
何よりも大切な支えを外してしまったのは、私自身なのだ。
よく晴れた夏休みの初日。私は耳をすまして窓辺に立っていた。
この窓からちょうどよく見えるはずの、ナツの家。その家の前にトラックが止まって、引っ越し作業が始まったようだ。
かすかにナツの声が聞こえる。お父さんと何か話しているみたい。引越し屋さんの声も聞こえる。
やがて荷造りの終わったトラックが、ナツの家の前から走り去って行った。
「……はる」
背中に声がかけられた。何度も何度も飽きるほど聞いた、私の名前を呼ぶ声。私は耳だけを、その声に傾ける。
「俺、はるの隣からいなくなるけど……最後にひとつだけ、聞いてもいい?」
何も答えない私の背中に、ナツが続けて言う。
「はる……なんで俺とキスしたんだよ?」
ナツの声に胸がぎゅうっと苦しくなる。
「俺のこと……ちょっとでも好きだって思ってた?」
どうして? どうして今さらそんなこと聞くの?
「私は……好きでもない人と、キスなんてしない」
つぶやくような私の声は、ナツに届いただろうか。
「……よかった」
そう言ったナツの声を聞いたら、真っ暗な世界にナツの笑顔が広がった。
あれは小学生の頃。突然降り出した雨に、手をつないで走って。私の家までたどり着いて顔を見合わせたら、二人ともびしょ濡れで。
なんだかわからないけどおかしくなって、二人で声を上げて笑ったんだ。
そして私は、あんなふうに無邪気に笑う、ナツの笑顔が大好きだった。
「はる……」
私の隣に歩み寄ったナツの手が、私の手をそっと握る。
「俺のことなんか待ってなくてもいいけど……でも俺はいつか戻ってくるから」
声が低くなって、手が大きくなっても、つないだ手のあたたかさは変わらない。
「はるのこと、ちゃんと支えてあげられるような男になったら、もう一度ここに戻ってくるから。だから……」
ナツの声を聞きながら、あふれそうになる涙を必死にこらえる。
「だからそれまで……元気で」
ほんの一瞬だけ、握った手に力をこめたあと、ナツはその手を静かに離した。
「ナツ……」
ナツの足音が遠ざかる。私は耐え切れずに声を上げる。
「ナツも……すぐお腹壊すんだから気をつけて。冬は風邪ひかないように、喉痛くなったら早めに薬飲むんだよ? カップラーメンばかり食べてないで、ちゃんとご飯も作らなきゃだめ。部活引退してだらだらしてると体なまるから、運動も続けて……」
何言ってるんだろう、私。
「とにかく……元気でいて」
「……わかった」
ナツがそう言って、笑ったような気がする。
「じゃあ、また」
「うん……」
ナツはもう『また明日』とは言わない。明日、私たちはもう会えない。
だけどいつかきっとまた会える。私たちが前を向いて歩き始めて、自然に笑い合えるようになった時――その時きっと、私はまたナツと会える。
車のドアが閉まる音がする。ナツが乗り込んだお父さんの車がエンジンをかけ、ゆっくりと走り出す。
私は窓辺から、小さく手を振った。窓の外の景色も、走り去る車も、私には見えないけれど、ナツも同じように手を振ってくれている気がした。
「待ってるよ、ちゃんと前を向いて……ナツのこと」
つぶやいた私の頬を夏の風がなで、窓辺の風鈴が優しい音を立てた。




