君の助手席で
私を運転手代わりに使うあいつと、いつもそれに応えてしまう私。二人のドライブの行き先は?
「いやぁ、杏奈は絶対来てくれると思ってたよー」
指定された場所に車を止めると、優斗がそう言いながら助手席に乗り込んできた。
まるで自分の車に乗るように、慣れた調子で。
「あのねぇ、言っとくけど、私はあんたの専属運転手じゃないんだからね?」
ため息をつきながら、隣に座ったちょっと酒くさい優斗を見る。
会社の飲み会の、三次会まで付き合ったっていう優斗は、赤い顔をしてご満悦な様子だ。
「だって、うちが田舎なの知ってるだろ? 終電早くて」
「だったら電車なくならないうちに帰りなさいよ」
「でも杏奈は、来てくれたじゃん?」
ご機嫌顏の優斗と目が合う。私はさりげなく視線をそらす。
「ちょっとドライブしたい気分だったの。別にあんたのために一時間かけて、こんなところまで来たわけじゃない」
「じゃあドライブして帰ろうよ。湾岸線回ってベイブリッジ通って」
「私に指図しないでくれる? タクシーじゃないんだから」
優斗は私の隣でおかしそうに笑っている。
まったく、もう。
ほんとに私は運転したかっただけなんだから。
あんたのためなんかじゃ、絶対ないんだからね。
フロントガラスに映る、ビルの夜景を見ながら、もう一度ため息をつく。
そして私は今夜も、優斗を乗せて愛車を走らせるのだ。
私は車の運転が好きだ。
仕事で車は使わないから、週末になると運転したい気持ちがムクムクと湧き出して、真夜中にふらりとドライブに出かけたりする。
愛車は親戚のお姉さんから譲り受けた中古車。
運転は好きだけど、車には詳しくないから、走れれば充分。
上品なピンク色も気に入ってるし、乗り心地も悪くない。
今夜もこの愛車で、どこか近場のドライブでもしようかなって、思っていたところだった。
「今、横浜で飲んでるんだけど。杏奈、迎えに来てよ」
私が行くのを当たり前のように、電話の向こうで優斗が言う。
「えー? 横浜?」
「一時間位で着くよな? それまで飲みながら待ってるから。よろしく」
「は? 優斗、あんたねー」
文句を言いつつ、今夜も来てしまった私。
まぁ、片道一時間のドライブは、予定よりちょっと遠いけど、悪くはない。
優斗が高速代を払ってくれるというので、少し遠回りして湾岸線で帰ることにした。
夜の高速を運転するのは嫌いじゃないけど、夜景を満喫できないのが、ちょっと残念。
助手席の優斗は、ベイブリッジが見えただの、観覧車が見えただの、子どもみたいにはしゃいでいるけど。
「あのさ、優斗も免許とったら? 人に頼ってばかりいないで」
「俺、外回りじゃないから車乗らないし、だいたい免許持ってても、飲んだら乗れないだろ?」
あくまでも私を、お酒を飲んだ時の運転手に使おうとしてるわけね?
まぁ私は、お酒好きじゃないからいいけど。
女友達との飲み会の時でも私は一人車で行って、帰りにみんなを送ってあげるのが、お決まりのパターンだ。
飲み会でおしゃべりするのは好きだけど、別に飲みたいとは思わないから、ウーロン茶で満足。
運転するのも好きだから、みんなの家を回るのも全然苦ではないし、おまけに大感謝されて、得した気分を味わえるのだ。
だからと言って、私は優斗の運転手になった覚えはないけどね。
「それに俺が免許とったらさ」
外を眺めたまま、優斗がつぶやく。
「もう杏奈の隣に乗せてもらえなくなっちゃうじゃん? 俺、この席が好きなんだよ」
私は黙ったまま、ハンドルを握る。
優斗の言葉を何度も頭の中で繰り返しながら。
優斗と知り合ったのは、高校三年生の春。
それまで私は優斗のことを知らなくて、たまたま同じクラスになって、たまたま隣の席になった。
初対面だというのに、照れる様子もなく私に話しかけてきた優斗。
そんな優斗と話すのはけっこう楽しかったから、私たちはすぐに冗談を言い合える仲になった。
「杏奈って優斗と仲いいよねぇ?」
「え、そうかな?」
「付き合ってるの?」
「げ、まさかー!」
そう言って友達と笑い合う。
確かに優斗とは、クラスの男子の誰よりも仲がよかったけれど、私たちはそんな仲じゃない。
だって優斗はいつも冗談ばかり言っていて、そんな雰囲気になったことなんて一度もないもの。
やがて高校生活が残り半年くらいになった時、ある日突然席替えをすることになった。
「よかったー。これでやっと、あんたと離れられるわ」
荷物をまとめながら、隣に座る優斗に言う。だけど優斗はいつものように言い返してこない。
あれ? と思った私に、優斗がぼそっとつぶやいた。
「俺はこのままがいい」
「え?」
「俺、この席が好きなんだよ」
そう言った優斗の横顔は、なんだかいつもと違う。見慣れたはずのその横顔が、なぜだか寂しそうに見えて、胸がドキドキしてきた。
「あ、あのぉ……優斗?」
どうしたらいいのかわからなくなって、恐る恐るその名前を呼んでみる。
するとうつむいていた顏を上げ、優斗が私に振り向いた。
「だってここなら、授業中わからない問題、杏奈に教えてもらえるし、テスト前にはノート写させてもらえるし」
「ちょっ、あんたねー」
私の声に優斗が笑った。いつもみたいに、楽しそうに。
なんだ。へんな想像しちゃって、バカみたい、私。
もしかしたら優斗は私のことを……だなんて。
そしてそれをちょっとだけ期待していた自分に気がつく。
やがて私たちは遠く離れた席になり、その後も会えば冗談を言い合ったりしていたけれど――結局ただの友達のまま、高校を卒業した。
運転する感覚が、いつもとどこか違うと感じ始めたのは、高速を降り国道を走り出してからだった。
カーナビから流れる音楽とは違う音。ハンドルも重い感じがする。だけどそれがなんだかわからなくて、私はそのまま走り続けた。
やがて国道から脇道へ入った頃、窓の外も変わり始めた。
「あれ? 雨?」
フロントガラスにぽつりぽつりと落ちてきた雨粒は、あっという間に激しくなった。
「マジかー? 今日雨降るって言ってたっけ? まぁ、杏奈に家の前まで送ってもらうからいいけど」
「優斗。あんたねー」
私の隣でシートにもたれて、のん気にそんなことを言っている優斗をちらりと見る。
華やかなビルの夜景も、オレンジ色に続く照明も、キラキラ光る対向車のヘッドライトも、いつの間にか見当たらなくなり、あたりは静かな住宅街だ。
やがてその住宅も減っていき、周りにはのどかな畑が広がる。
市街地から一時間もしないうちに、景色はがらりと変わってしまうのだ。
「ねぇ、優斗?」
「ん?」
雨の音が激しくなるにつれ、私は次第に不安になっていた。
「なんかさ、車の調子、ヘン……」
「え?」
と同時に、車がガクンと大きく揺れた。
「へっ、な、なにっ」
私はハンドルをつかんでブレーキを踏む。が、ハンドルが取られ思うように動けない。
「や、やだっ、なにこれっ」
「杏奈っ、落ち着けって。とりあえず車、端によせろ」
よろよろと頼りない走り方で、畑の脇の空き地に車を停めた。
対向車も後続車もなくて助かった。
「杏奈。これってさ」
まだドキドキしている心臓を押さえていると、隣の優斗が言った。
「もしかしてパンク?」
「えー、うそぉ」
「うそじゃねぇって」
車から降りた優斗の後に続いて、雨の降る中、助手席側の前輪を見る。タイヤは見事にぺしゃんこだ。
「お前、よく今まで気づかずに運転してたな」
「ちょ、ちょっとおかしいとは思ってたけど……でも、優斗だって気づかなかったじゃん?」
「俺だって、ちょっとはおかしいと思ってたけど」
しゃがみ込み、暗闇の中でタイヤを眺めながら、ため息をつく優斗。それを見ていたら、どうしようもなく泣きたくなった。
どうしよう。どうしよう。こんな時、どうしたらいいんだっけ?
こんなことなら、もっと車のこと勉強しておくんだった。
おろおろと、パニックになっている私の隣で、優斗の声が聞こえた。
「しょうがない。タイヤ交換すっか」
「え? で、できないよ、そんなの」
「俺がやる」
「へ?」
呆然と突っ立っている私を残し、優斗は車のトランクを開け、中をのぞきこんだ。
「スペアタイヤも工具もあるし、なんとかなるだろ」
「なんとかって……あんた免許も持ってないのに、できるわけないじゃん」
「俺、免許は持ってないけど、自動車整備工場の息子だから。親父の跡継げるように、昔っからいろいろ仕込まれてさ。結局全然関係ない事務職に就職したけど」
慣れた様子で軍手をはめて、工具を取り出しながら、優斗がにかっと笑う。
「うそぉ……」
「はい、邪魔だからどいてどいて。濡れるから車乗ってろよ」
乗ってろって言われても、乗れるわけないよ。
手際の良い感じで作業を始めた優斗の背中が濡れていく。何も手伝えない上、傘も持っていなかったことに気がつき、また涙が出そうになった。
高校を卒業した後、私は二人の人と付き合った。
一人は大学で知り合った同級生。もう一人は就職先の先輩。
二人ともとても優しい人だったけど、なぜだかどちらともうまくいかなくて。結局、一年も付き合わないうちに別れてしまった。
そんな時、高校時代の友人の口から偶然、優斗の名前が出た。
女の子と歩いている優斗とばったり会ったって。聞いたら「同じ会社の子」って照れくさそうに言ってたって。すごく可愛らしい子だったって。
その話を聞きながら、私の胸がチクチク痛んだ。
なんで? 優斗のことなんか、もうずっと忘れていたのに。
そもそも優斗のことなんか、好きでもなんでもなかったのに。
そして偶然はそのあとも続く。
それからしばらくたった雨の日、私は優斗と再会したのだ。
雨の中、車で少し遠くの駅まで家族を送ったあと、ワイパーの揺れるフロントガラスの向こうに、見覚えのある姿を見つけた。
白い靄のかかった中、黒い傘を差し、うつむきがちに立っているスーツ姿の男が、優斗だってことは遠くからでもわかった。
バス停に一人で立つ優斗の表情は、どことなく暗かった。しとしとと続く、雨のせいなのかもしれないけど。
高校の制服を着て、冗談を言って笑いあっていた優斗とは、違う人みたいに見えた。
見間違いかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、私は車を走らせた。
駅のロータリーを回り、信号を越え、雨に濡れた道路を走る。
だけどどうしても、どこか切ない優斗の顔が頭から離れなくて、私は車をUターンさせて、優斗の立つバス停に停車した。
「よかったら……乗ってく?」
窓を開けて、声をかけたのは私のほうだ。
傘の影で、ゆっくりと顏を上げた優斗と目が合う。
やっぱり優斗だ。私はまだ、優斗のことを忘れてなかった。
そんなことを思った私の前で、優斗が昔と変わらない笑顔を見せてくれた。
そのまま優斗を助手席に乗せ、雨の中を走った。
ワイパーが静かに揺れる中、優斗はしばらくどうでもいいことを話したあと、今彼女と別れたばかりなんだ、と私に言った。
「フラれちゃったのぉ?」
冗談っぽく私が言ったら、優斗は苦笑いしながら首を横に振った。
「別れたいって言ったのは俺のほう。なんか違うなぁってずっと思ってて。結局俺、彼女のこと傷つけた」
私の前でそんな話をするのは、高校生の頃、くだらない話ばかりしてきた優斗とは違う。
「それで落ち込んでたんだ?」
「うん。俺っていつまでたっても、女の子とうまくいかないんだよなぁ」
そう言って頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜると、優斗は私の前で昔みたいに笑った。
「私だって同じだよ」
どうしてだかわからないけど。
「私もうまく男の人と付き合えたこと、一度もない」
誰かに相談することもできなくて、ずっと胸の奥でくすぶっていた気持ち。
それを優斗の前で吐き出したら、なんとなく楽になれた。
「杏奈」
「なに?」
「また連絡してもいい?」
「……いいよ」
それからだ。優斗がずうずうしく私を運転手として使うようになったのは。
いいよ、なんて、簡単に言うんじゃなかったって、さっきまでは後悔していたけど。
「よし。これでとりあえず大丈夫だろ」
付けたばかりのタイヤをポンッと叩いて、優斗が雨の中で立ち上がった。
「今夜はもう遅いから、明日になったらちゃんとしたところで見てもらえよ?」
「う、うん。ごめんね、優斗。こんなに濡れちゃって」
「お前だって濡れてるじゃん。だから車乗ってろって言ったのに」
そう言って笑う優斗の顔を見ていたら、どうしようもなく胸がドキドキしてきた。
「中、入ってもいい? 濡れちゃうけど」
「も、もちろん! 早く乗って!」
助手席のドアを開け、びしょ濡れの優斗を押し込める。それから私も反対側へ回り、運転席に乗り込んだ。
雨の中、恐る恐る車を走らせる。
「そんなにビビんなくても大丈夫だって。家まではちゃんと走れるから」
「う、うん」
ハンドルをぎゅっと握りしめ、前を見つめたまま私は言う。
「優斗がいてくれて、ホントによかった」
「まぁ、これくらいはね。いつも乗せてもらってるし」
よく考えたらそれもそうだ。私の方が絶対、優斗に尽くしてるはず。
そんなことを思っていたら、フロントガラスに当たる雨が止んだ。
「げ、雨止んだ?」
「なにもあんな大雨の中、作業する必要なかったってこと?」
「マジかー」
優斗がシートにもたれて、私の貸したタオルを頭からかぶる。
雨でくすんでいた視界が、次第に開けていく。
こんなふうにずっと走っていくのも、いいかもしれないな。
隣に優斗がいれば、何も怖がることはない。
「ねぇ、優斗?」
「ん?」
運転席の窓を開ける。雨上がりの風が車内に吹き込む。
「今度はもっと明るい時間にドライブしない?」
「いいね。海でも行く? 江の島とか。山だったら箱根方面な。温泉もあるし」
「温泉かー。いいね」
「行く? 杏奈の運転で」
なんだか調子の言いことを言っている優斗の顔をちらりと見る。
「あんたってさー、もしかしてどの女の子にも、そういうこと言ってるの?」
赤信号で車を止めた。
「まさか。俺、ずっと前から言ってるじゃん? お前の隣が好きなんだって」
ぼうっと前を見たまま、優斗の言った意味を考える。
「このままずっと、杏奈の隣でもいいけどな、俺は」
信号が青に変わった。私はゆっくりとアクセルを踏み込む。
「そうだね。意外とうまくいくかもね。私たち」
「だな」
隣で笑う優斗の顔を想像しながら、まっすぐ続く道を走らせる。
澄み切った青空の下を、夕暮れの茜雲の下を、今夜みたいな雨上がりの星空の下を、これからもずっと走っていけたらいい。
優斗と一緒に。
「とりあえず明日、付き合ってくれない? いい整備工場あったら教えてよ」
「オッケー。親切な店、紹介するよ」
優斗の笑い声に微笑みながら、あたたかい灯りの灯る家に向かって走った。