同じ月を見ていた
お隣に住む三歳年下の男の子。私たちはいつまでもつながっていられると、心のどこかで信じてたのに、そんなことはなくて……。
坂道の上にある、五階建ての古い団地。
同じ造りの部屋、同じ形の窓。
私は自分の部屋の窓から、空に浮かぶ月を眺める。
隣の部屋に住むあの子も、きっと同じ月を見ているだろうと、そう信じて――。
「じゃあ、また月曜日にな」
車から降りた私に、運転席から声がかかる。
「うん、送ってくれてありがとう」
私が言うと、運転席に座る和樹が、何か言いたそうにこちらを見た。
私はその視線から逃げるように、ドアを閉める。
「じゃあね、おやすみ!」
「あ、おい、佳那……」
聞こえなかったふりをして、道路を渡る。団地の敷地内に駆け込むと、和樹の車が走り去って行く音が聞こえた。
ごめんね……。
心の中でつぶやく。
同じ大学で知り合った和樹が、私に好意を持ってくれていることは知っていた。
和樹は優しくて、いつも落ち着いていて、いい人だ。
付き合っちゃえば? という友達の言葉に、心が揺れ動いた時もある。
だけど……。
カシャンと小さな音がした。
階段の下の自転車置き場に人影が見える。
制服の白いシャツにリュックを背負ったその姿を、私は小さい頃からよく知っている。
「恵太」
私の声に、恵太が顔を上げて私を見た。
「今、予備校の帰り? 遅いんだね?」
薄暗い外灯の灯りの下で恵太に言う。
「俺、受験生だから。大学生みたいに、ちゃらちゃら遊んでられないから」
ちゃらちゃら遊んでるって私のこと?
恵太はぷいっと私から顔をそむける。
きっと私が車から降りるとこ、見てたんだ。
「今の誰? 彼氏?」
「違うよ。ただの友達」
「へぇー、ただの友達が、わざわざ車で送ってくれたりするんだ」
「通り道だから乗ってけって言うんだもん。バス待つより早いし」
古い階段をのぼり始める、恵太のあとを追いかける。
私の家と恵太の家は、この団地の五階のお隣同士だ。
私も恵太も、生まれた時からこの団地に住んでいる。
だから必然と、私と三歳年下の恵太は、姉弟のように育ってきた。
「ねぇ、なに怒ってるの?」
階段をのぼりきると、私たちの住む部屋のドアが並んで見えた。
「別に怒ってねぇし」
「じゃあ、こっち向いてよ」
足を止めた恵太が、ドアの前でこちらを振り向く。
私は少し背伸びをして、そんな恵太の唇にキスをする。
「……酒くせぇ」
「ちょっとしか飲んでないもん」
恵太は私から顔をそむけ、ドアを開けると、それ以上何も言わず、自分の家に入っていった。
恵太と初めてキスをしたのは、恵太の中学校の卒業式の日。
卒業のお祝いに、なんてふざけて言って、私からキスをしたんだ。
あれから二年とちょっと。何度もしたキスは、いつだって私から。だけどそれを、恵太は拒否しなかった。
付き合おうという言葉も、好きだという言葉も、交わしてはいないけど。
「それって、とりあえずキープってわけ?」
大学の友達にそう言われた。
「そんなんじゃないよ。恵太に私よりしっくりくる子ができたら、その子と付き合えばいいし」
「佳那にしっくりくる人ができたら、その人に乗り換えちゃうわけでしょ?」
大学生になった私は、夜遅くまで男の子を交えて遊ぶようになり、ドライブをしたり、お酒の味も覚えた。
そんな私のことが、恵太は不満みたいだけど、恵太は私の彼氏じゃないし、私も恵太の彼女じゃない。
その一線を越えられないのは、私たちの間にある三歳の歳の差。
「二人でキープし合ってるなら、お互い様だけどね」
友達にそう笑われた。
だけど私は思っているのだ。
自分の部屋に入り、窓を開ける。
空に浮かぶ丸い月。
この月をきっと恵太も見ている。
だから私たちはつながっている。
恵太が私から離れることはないって、心のどこかで安心している。
こんな私は、すごくずるい女だ。
それは日曜日の朝。突然私の母から聞いた言葉。
「恵太くんちの引っ越し。夏休みに入ってすぐらしいね」
私は冷蔵庫を開けたまま、母親の顔を見る。
「なにそれ? 引っ越すなんて聞いてないよ?」
「やだ、佳那。あんた、知らなかったの?」
知らない。知らない。そんなの聞いてない。
「奥さんの実家を二世帯にしたんだって。ひばりヶ丘だから、恵太くんの高校はちょっと遠くなっちゃうけど、あと半年で卒業だしね……」
その後の母の言葉はよく聞こえなかった。気づくと私は部屋を飛び出して、隣の家のドアを叩いていた。
「引っ越すってほんと?」
ジャージ姿で少し寝ぐせのついた髪の恵太が、私の前に立っている。
「そうだよ」
恵太は表情を変えることなく答える。
「どうして教えてくれなかったの?」
「おばさんから聞いたなら、それでいいじゃん」
「なんで? 昨日も会ったのに、どうしてもっと早く教えてくれなかったの?」
そこまで言って口を閉じる。
誰から聞こうと、いつ聞こうと、恵太が引っ越すことは決まっている。
それは変えることのできない事実なのだ。
私たちはもう、同じ月を見れなくなる。
「言いたいことはそれだけ?」
うつむく私の少し上から、冷たい声が降ってくる。
「だったらもう帰れよ。俺、勉強中なんだ」
迷惑そうに言った恵太が、私の前のドアを乱暴に閉めた。
お隣が引っ越しの準備を進めている。私はあれから、恵太に会っていない。
「佳那」
団地のそばで車が止まる。運転席の和樹が私に言う。
「わかってるんだろ? 俺の気持ち」
フロントガラスの向こうに見える、不格好に欠けた月。その姿が、和樹の顔で隠されていく。
「いい加減、じらすのやめてくれよ」
そうつぶやいた和樹の唇が、私の唇に重なる。
「ごめんなさい……」
涙と共にあふれた言葉は、誰に向けてのものなんだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
私の上に覆いかぶさる和樹の体をどけて、私は車から飛び降りた。
転がるように走って、道路を渡った。
私の名前を呼ぶ、和樹の声が聞こえて、振り向いたけれど、追いかけては来ない。
団地の敷地内に駆け込んで、前を向いた瞬間、暗闇の中で誰かにぶつかった。
「恵太?」
怒ったような表情の恵太の顔。私は恵太のシャツに触れた手を離し、さりげなく涙をぬぐった。
「あと一分待っても出て来なかったら、車のドア、蹴飛ばしてやろうかと思ったけど」
「え……」
「俺にそんなことする権利、ないもんな」
いつものリュックを背負った恵太が、背中を向ける。
「待って……恵太」
黙って階段をのぼる、恵太のあとを追いかける。
「待って、恵太。私……」
階段の踊り場で、恵太の腕に手を伸ばした。
だけどそれは、私の知らない男の人の腕。
小さくて、いつも私が引いていた手とは、もう違う。
思わず息をのんだ私の耳に、恵太の声が聞こえた。
「なんで、俺とキスなんてしたの?」
私は黙って顔を上げる。見慣れた恵太の顔が、月明かりにぼんやりとにじむ。
「俺のことなんて、好きでもないくせに」
違う。違う。私はずっと恵太のことが……。
――恵太に私よりしっくりくる子ができたら、その子と付き合えばいいし。
いつか言った私の言葉が、頭をよぎる。
恵太の着ている、制服の白いシャツ。リュックに入っている、教科書や参考書。ポケットの中の自転車の鍵。
それは私が、決して戻ることのできない世界。
大人ぶってみればみるほど、私は恵太の隣には似合わない人間になっていく。
それが、すごく、悲しくて、怖い。
私の手が、恵太から離れる。
「ごめんね、恵太」
予備校の帰りに自転車置き場で、もう私のことは待たなくていいから。
お隣に住んでいた三つ年上の私のことなんて、忘れちゃっていいから。
恵太には、恵太に一番合った人を、探して欲しいの。
言葉の代わりに涙がこぼれる。ぽたぽたと私の足元にそれは落ちる。
踊り場に吹き抜ける夏の風。あと何日で夏休みが始まるのだろう。
夏休みになったら、私たちはもうお別れ。
お隣同士でなくなれば、私たちをつなぐものは、何もない。
恵太の指先が、私の濡れた頬に触れた。そのまま促されるように、泣きながら顔を上げる。
ぼんやりにじんだ恵太の顔が、薄暗い踊り場の灯りをさえぎって……震える私の唇に、恵太が唇を押し当てた。
「……バイバイ」
消えてしまいそうな声を残し、恵太が階段をのぼっていく。
私はその場に立ち尽くしたまま、漏れそうになる声を必死に抑える。
その日部屋に帰っても、私は窓から、月を眺めることはできなかった。
あの日の私は間違っていた。
夏にお隣が引っ越して行き、秋が来て冬が過ぎて、私は思う。
私は何を怖れていたんだろう。
たった三歳の年の差。たった少しの距離。
走って追いかけて、少し大きくなってしまったその手を、つかむだけでよかったのに。
小さい頃にしていたのと、同じように。
春。大学四年生になった私に彼氏はいない。
和樹とは付き合えないと、ちゃんと話をして、あれから車に乗せてもらうこともない。
引っ越してしまったお隣さんとは、一度も連絡をとっていない。
新入生たちで賑わうキャンパス。春の日差しの中、私はふと立ち止まる。
どんなにたくさんの人の中でも、私は見つけることができるから。
ずっと小さい頃から見ていた、その大好きな姿を。
「恵太」
大学の中庭で出会った恵太が、私の前で立ち止まる。
「ここ受けてたなんて、知らなかった」
「落ちたらカッコ悪いから、言わなかった」
そう言った恵太が、私のことをまっすぐ見つめる。
前より少しだけ大人びて、でもまだあどけなさの残る顔をして。
「俺、佳那のこと、追いかけることにしたんだ。嫌がられても、どこまでも追いかけて行くから」
そんな恵太の前で、私も素直に答えることができた。
「嫌がるわけないよ。ありがとう。恵太」
照れくさそうに少し笑って、恵太が言う。
「これからよろしく。先輩」
返事の代わりに、私は笑顔で、恵太の手をとった。
並んで歩く私たちが、いつかまた、同じ場所から、同じ月を眺められますように。
春風の吹く中、恵太の隣で、私は心からそう願った。




