隣の彼
私が好きな彼には、好きな人がいる。だけど彼の想いも、私の想いも、決して届くことはないんだ。
私の身体の左側が、今日も痛い。
眠気を誘う午後の授業。
窓から差し込む日差しは柔らかく、教科書を読む先生の声は子守唄のように穏やかで、実際眠っている生徒も何人かいる。受験生だというのに。
そんな中、私は少し緊張しながら、前を見ていた。
決して、授業に集中しているわけではない。
むしろ授業なんて頭に入らない。
窓際から二列目のこの席は、いまだに慣れない。
先生が背中を向けて、黒板に何かを書き始めた。
私は視線を動かし、隣の席をちらりと見る。
春の日差しを浴びた、窓際の一番後ろの席。
彼は机に開いた教科書の上に頭を突っ伏して、気持ち良さそうに眠っていた。
「あー、よく寝た」
授業が終わると同時に、彼が大きく伸びをしながら、そんなことを言った。
独り言、でいいんだよね?
彼の前の席の男の子は、今日は欠席で、いま一番近くにいるのは私しかいない。
私は何も言わずに、机の上を片付け始めた。
身体の左側を緊張させ、耳だけをそちらに傾けながら。
するとそんな私の耳に、また声が聞こえた。
「はぎわらさんってさ」
心臓がとくんっと跳ねる。
「あ、おぎわらさんだっけ?」
「萩原です」
前を見たまま、そう答える。
名前、覚えてくれたんだ。ちょっとあやふやだったけど。
「ああ、萩原さんね。萩原さんって部活とかやってんの?」
なんか普通に話しかけられてる?
私は息が止まりそうなほど緊張していたけど、一生懸命平静を装って答えた。
「何も、入ってない」
「あ、同じ、同じ。俺も帰宅部ー」
その顔を見ていないのに、彼の笑っている顔が想像できる。
想像しているうちに、本物の笑顔を見たくなって、私はつい隣の席を向いてしまった。
「あ」
思わず短い声がもれる。隣の彼が私を見ている。
慌てて顔をそむけようとした私に、彼は嬉しそうにこう言った。
「あー、やっとこっち向いてくれた」
そして私の前に、想像の中じゃない、本物の彼の笑顔が広がった。
私の隣の席に座っている、生野くんのことは、高校に入学してすぐの頃から知っていた。
だって彼はちょっとした有名人だったから。
「ほら、生野だよ。また女の子と歩いてる」
「今度はあの子と付き合ってるの?」
女の子同士で集まると、必ずと言っていいほど生野くんの話題が出る。
私は彼女たちの話を聞きながら、廊下をすれ違う生野くんのことをちらりと見る。
生野くんは女の子と並んで歩きながら、何だか楽しそうに笑っていた。
「ちょっ、誰なの、あの子ー」
「真奈美、悔しがるなよー。どうせすぐ別れるって」
「そしたら告ってみる? きっと真奈美とも付き合ってくれるよ?」
「生野は誰でもいいんだもんね」
「誰でもって……それあたしに失礼じゃないのー?」
友達の笑い声を聞きながら、私も笑った。
カッコよくて、優しくて、女の子にもてて、でもちょっと遊んでるふうの生野くんは、そんな話題の中だけの人のはずだった。
だってクラスも違うし、もちろん話したこともないし、無口で目立たない私とは違う世界の人。
なのに私は、そんな噂話を聞くたび、生野くんの姿を目で追っていた。
女の子だけじゃなく、男の子の友達もたくさんいて、いつも楽しそうに笑っている生野くんのことを。
「生野ー!」
同じクラスの男の子の声が聞こえた。生野くんは机の上を片付けながら「今行くー」なんて答えている。
そして無造作にバックの中に荷物を突っ込むと、立ち上がって私に言った。
「じゃあまた明日。萩原さん」
私がそれに答える前に、生野くんはバックを肩にかけ行ってしまった。
私は顔を上げて、その姿をそっと、目で追いかける。
男の子たちとふざけ合いながら、教室を出て行く生野くん。
二年生になった頃から、突然生野くんは彼女を作らなくなった。
何人もの女の子に告白されたらしいのに。真奈美も生野くんに「付き合って」って言ったのに。
生野くんが言った真奈美への答えは「好きな人がいるから、その人以外は付き合わない」だった。
それからしばらくの間、生野くんの好きな子が誰かという話題で持ちきりだったけど、結局それはわからないまま、だんだん生野くんの話題は出なくなった。
そして三年生になった今でも、生野くんに彼女はいない。
翌朝もまた生野くんに会う。
席に座っている私に、登校してきた生野くんが「おはよう」って言う。私は顔を上げて、小さく答える。
「おはよう」
生野くんは私に向かって、私の大好きな笑顔を見せてくれた。
生野くんの隣の席になって、私は少しずつ生野くんのことを知っていった。
授業中はだいたい寝てるか、ぼうっと外を眺めていること。
英語の時間だけはちゃんと話を聞いていること。
前の席の菊池くんと仲がいいこと。
昼休みはお弁当を持って一人でどこかへ行ってしまうこと。
私の身体の左側は、まだ緊張しているけれど。
今日もお昼休みが終わる頃、生野くんはお弁当箱を持って戻ってきた。
男の子の友達はたくさんいるはずなのに、どうして教室で食べないんだろう。
そんなことを考えながら、戻ってきた生野くんを見たら、目が合ってしまってあせった。
「ん? なに? 萩原さん」
きっと私は、よっぽど何かを聞きたそうな顔をしていたんだろう。
へんかな? へんだよね、こんなこと聞いたら。
でも生野くんがにこにこしながら私のことを見てるので、私はつい思ってることを口にしていた。
「いつもお弁当、どこで食べてるの?」
言ったあとに、心臓の音が生野くんに聞こえてしまうんじゃないかってほど、ドキドキした。
でも生野くんは、そんな私の気持ちなんて知りもせず、いたずらっぽい顔をして答える。
「あー、どうしようかなぁ。誰にも秘密の場所だからなぁ」
え、何なの、それ。そんなふうに言われると、余計知りたくなってしまう。
生野くんはお弁当箱をしまいながら、私に言う。
「でも、萩原さんにだったら、教えてあげてもいいかな」
恥ずかしいのに、私は生野くんから目を離せない。
生野くんは笑って、一本立てた指先を天井に向ける。
「この上」
ここは四階。その上ってことは。
「屋上?」
「そう。ここから見るより、もっと遠くまで景色が見えるんだ。誰もいないし。気持ちいいよ」
なんか、少し意外。もしかしたら、女の子と待ち合わせでもして、一緒に食べてたのかな、なんて思っていたから。
「今度、萩原さんも一緒に行く?」
私は何も答えずに生野くんを見る。生野くんはそんな私にほんの少し笑いかける。
そんな私たちの耳に、午後の授業が始まるチャイムが聞こえた。
「赤点の人は補習があります。放課後、三組の教室に来てくださいね」
一学期の中間テストの後、英語の答案用紙を配ってから、若い女の先生がそう言った。
「生野ー、お前どうだった?」
「俺、補習」
「うわ、マジで? だっせー」
前の席の菊池くんがそう言って、生野くんが笑っている。
私はそれを隣で聞いて、思わず「えっ」と顔を向けてしまった。
「なに? もしかして萩原さんも赤点だった?」
振り向いた生野くんと目が合って、私はぷるぷると首を横に振る。
「まさかぁ、そんなわけねーだろ? 萩原さんはお前と違って真面目なんだから」
「だよなー」
菊池くんの声に生野くんがふざけたように笑う。
でも、でも生野くんだって真面目に聞いてた。英語だけは。
「英語、好きなんだと思ってた」
そうつぶやいてから、慌てて顔をそむける。
そんなこと言ったら、私が生野くんのこといつも見てるのばれちゃうよ。
すると私の左側で、生野くんのかすれるような声が聞こえた。
「好きだよ? 俺、英語」
ぼんやりと前を見た私の目に、他の生徒たちと笑顔で話をしている、先生の姿が映った。
放課後、三組の教室をちらりとのぞく。
何人かの生徒が席に座っていて、そこに生野くんの姿が見えた。
そしてそんな生徒たちの机を、一人一人回ってノートを覗き込んでいる先生。
先生の名前は桜井涼子。小柄で可愛らしい雰囲気の先生は、教師というより友達みたいな感じで、みんなに「涼子ちゃん」なんて呼ばれている。
私はその場に立ち止まり、涼子先生から生野くんに視線を移した。
机の上にノートを開いている生野くんは、黙ったままずっと、先生の姿を目で追っていた。
窓の外に雨が降る。私は雨を見るふりをして、生野くんの横顔を見る。
教科書を読む涼子先生の綺麗な発音。女の子たちのくすくすとした笑い声。窓の外に響くかすかな雨音。
そんな教室の中で、生野くんの視線は涼子先生だけに向いている。
私がその横顔を、見つめているのにも気づかずに。
「先生! 質問してもいいですかぁ?」
そう言って一人の女の子が立ち上がったのは、授業の終わりのチャイムが鳴ったあとだった。
「はい? どうしたの?」
先生がいつものように笑顔で答える。
数人の生徒がこそこそと何か耳打ちしたあと、立ち上がった女の子が先生に言った。
「涼子先生、結婚するって本当ですかぁ?」
「え……」
先生の顔が赤くなる。教室の中がざわめき出す。
「どうしてそんなこと」
「井上先生が言ってましたぁ」
「もう……やだなぁ、井上先生ったら」
恥ずかしそうにそう言ってから、先生は黒板の前に立って顔を上げた。
「ごめんね。もう少ししたら、ちゃんと自分の口から言おうと思ってたんだけど……私、結婚することになりました」
女の子たちがキャーっと歓声を上げる。口笛を吹いて冷やかす男の子もいる。
「涼子ちゃん、おめでとー」
「結婚式はいつ?」
「先生結婚しても、学校辞めないよねー?」
大騒ぎになった教室の中、困ったように、でも幸せそうに微笑んでいる先生。
そんな先生をぼうっと見てたら、小さな音を立てて、何かが落ちた。
「生野くん?」
私の足元に落ちたシャーペンを、生野くんが手を伸ばし拾っている。
だけど私には生野くんの顔が見えない。
「生野くん……」
消えそうな声でその名前を呼ぶ。だけどうつむいたままの生野くんに、私の声は届かなかった。
「一人百円。萩原さんも賛同してくれるよね?」
私の席に二人の女の子が来た。涼子先生の結婚祝いをみんなで贈るのだという。
私は財布から百円玉を出して、彼女たちに渡した。
「ありがと。次、生野ー」
お金を集めた女の子が、隣の席で机に突っ伏している生野くんに言う。
「生野も、百円! 涼子ちゃんのお祝い」
声をかけられ、生野くんがゆっくりと顔を上げる。
「ほら、早く百円!」
生野くんの前に差し出された手。私はぼんやり隣を見つめる。
「俺、金ないから」
「え?」
「強制じゃないんだろ?」
それだけ言うと、生野くんは立ち上がって、機嫌悪そうに教室を出て行ってしまった。
「なに、あれ」
「感じわる」
女の子たちの声を聞きながら立ち上がる。そして私は生野くんのあとを追うように、教室を飛び出していた。
教室を出てあたりを見回す。廊下の端を曲がった生野くんの背中が見える。
私はそれを追いかけて、生野くんに続いて階段をのぼった。
「生野くんっ」
教室のある四階の上。屋上へ続くドアに手をかけた生野くんが振り返る。
「萩原さん……」
階段の途中で立ち止まる。生野くんがじっと私のことを見ている。
「なに?」
「あ、あのっ……」
どうしよう。どうして私、こんな所までついてきちゃったんだろう。
生野くんが私を見ている。心臓がドキドキして、涙が出そうになる。
「俺、次の授業出ないけど」
そんな私の耳に生野くんの声が聞こえた。
「萩原さんも一緒に行く?」
校舎に響くチャイムの音。もうすぐ午後の授業が始まる。
今日の五時間目は、涼子先生の英語の授業だった。
立入禁止と書かれたドアを開け、生野くんのあとについて屋上へ出る。
こんな場所へ来たのも、授業をさぼったのも、生まれて初めてだ。
薄暗い校舎から一歩を踏み出すと、私たちの上に青い空が広がった。
「いいの? ほんとに」
屋上へ出た生野くんが振り返る。私は少し体をこわばらせ、こくんとうなずく。そんな私を見て、生野くんは小さく笑った。
英語の授業をさぼって、生野くんと一緒に遠くを眺めた。
一つ上の階にのぼっただけなのに、いつも見ている景色とは全然違う。
吹く風と、心地よい日差しのせいなのだろうか。
「本当にここ、気持ちいいね」
思わずつぶやくと、私の隣で手すりにもたれて、生野くんがうなずいた。
そして私から目をそらし、ずっと遠くを見つめる。
いつも一人でここへ来て、お弁当を食べていた生野くん。
生野くんは、一年前からずっと、誰にも気持ちを打ち明けることなく、涼子先生のことを想っていたんだろうか。
「萩原さんはさ」
しばらく黙りこんでいた生野くんがつぶやいた。
「好きな人、いるの?」
私は少し考えてから、生野くんの横顔に答える。
「うん。いるよ。片思いだけど」
私の声に、生野くんが前を見たまま小さく笑う。
「俺と同じだ」
うん、そうだね。
「つらいよなぁ、片思いって」
柔らかな風を受けながら、生野くんの声を聞く。
生野くんの想いも、私の想いも、届くことはない。
こんなに近くにいても、決して届くことはない。
そして、私が生野くんと屋上へ行ったのは、その日が最初で最後だった。
それからあとの毎日は、いつもと変わらず過ぎていった。
私は生野くんの隣の席で授業を受ける。
時々前の席の菊池くんを交えて、三人で笑い合ったりする。
昼休みになると、生野くんは一人で教室を出ていく。
私は黙ってその背中を見送って、女の子たちとお弁当を食べる。
大学受験をするからと、生野くんは授業中に寝ることが少なくなった。
予備校にも通い始めたという。
やがて、席替えの日が来て、私は生野くんと離れた席になり、話すこともなくなった。
秋風が吹き始めた頃、涼子先生が結婚式を挙げた。
式のあとも、変わらず教壇に立って、英語の教科書を読む先生。
そんな先生の声を黙って聞いている、生野くんの横顔を遠くから見つめる。
生野くんに、まだ彼女はいない。
私の気持ちも生野くんの気持ちも、今はまだ変わらない。
だけど数ヶ月後には、私たちはこの教室から旅立ち、新しい生活を始めなければならないのだ。
その時、私は、生野くんは、誰を想っているんだろう。
誰かの隣に立つ生野くんは、私の大好きな笑顔で笑ってくれているだろうか。
生野くんの横顔を見るたび、私の身体の左側は、今でもまだ少し痛い。




