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バスと涙とピンクの傘

私が毎日乗るバスに、雨の日だけ乗ってくる彼。

髪を赤く染めていて、鮮やかなピンク色の傘をさしている彼のことを、私はつい目で追いかけてしまう。

だけどお母さんは言うのだ。知らない男の人を信じては駄目よ、って。

「絵梨子、タオル忘れてるわよ」

 傘を持って外へ出ようとした私に、お母さんの声がかかる。

「塾に着いたら、ちゃんとタオルで服と鞄を拭くのよ」

「うん」

「帰りはいつものバスに乗ること。この前みたいに乗り遅れないように。バス停まで迎えに行くからね」

「はい」

 私はお母さんのほうを向かず、握りしめた傘の柄を見下ろしてうなずく。

 先週バスに乗り遅れ、お母さんにひどく叱られたのを思い出した。

 もっとしっかりしなさい。あなたはいつもぼうっとしているんだから――と。

「いってらっしゃい。気をつけて」

「いってきます」

 お母さんの声を背中に背負い、雨の中に傘を広げる。

 真っ黒な、お父さんがさすような傘。お母さんが私のために選んだ傘だ。

 着ているのは高校のセーラー服。塾に制服で行く必要はないのだけれど、お母さんがそうしなさいと言う。

 服装も傘も地味なほうがいい。派手な格好をしていると「隙がある子」だと思われる。女の子が隙を見せると危険なの。知らない男の人を信じては駄目よ。あなたは特に、ぼうっとしているんだから――

 私はひとつ息を吐き、しとしとと降る雨の中にローファーを履いた足を踏み出す。傘にぼつぼつと響く、鈍い雨の音。

 水たまりをよけながら住宅街を進み、広い国道に出ると、ちょうど私の乗るバスがやってきた。


 私は毎日、このバスに乗って塾へ行く。塾は終点の駅前にあり、ここからバスで三十分くらいかかる。少し遠いけど、お母さんお勧めの塾なのだ。

 バスの中は席がいくつか空いていて、私は真ん中あたりの一人掛けの席に腰かけ、窓の外を見る。

 バスの中は静かだった。次のバス停でバスが停まり、数人のお客さんが乗り込んでくる。そしてまたバスは動きだし、アナウンスが流れた。

「次は南高校前。南高校前――」

 黒い傘の柄をぎゅっと握りしめる。ごくんと唾を飲みこむ音が、なんだかすごく大きく聞こえる。

 バスが速度を落としていく。屋根のないバス停と、傘をさして待っている数人の人の姿。

 私は窓の外をじっと見つめた。黒や透明のビニール傘に混じって、鮮やかなピンク色の傘が見える。

 あの人だ――

 私の心臓が、とくんとかすかな音を立てた。


 バスが停車し、ドアが開く。雨の音と一緒に明るい笑い声が聞こえてくる。

 紺色のブレザーに紺色のネクタイをした、南高校の男子生徒たち。そのグループは、今日もおしゃべりをしながら乗り込んできた。静まり返っていた車内が一気に賑やかになる。

 バスがまた動き出した。私はちらりと声のするほうに視線を向ける。

 この人たちは、雨の日にいつも乗ってくる。晴れた日は乗ってこない。普段は自転車で通っていて、雨の日だけバス通学なのだと、彼らの会話から知った。

 部活は「けいおんぶ」。私の学校にはない部だ。明るい髪色をした人が多く、時々ギターケースを背負ってくる人もいる。

 そんなグループの中、ひときわ目立つ赤色の髪の男子生徒がいた。みんなと同じブレザーの下に真っ赤なパーカーを着て、スニーカーも赤だ。そして持っている傘は派手なピンク色。

 とにかく目立つし、誰よりも楽しそうに笑う。きっと悩みなんか、なんにもないのだろう。

「ふざけんなよ、リョウ!」

 リョウと呼ばれた赤い髪の人が、隣の生徒に背中を叩かれ笑っている。私はその人の顔をちらちらと盗み見する。

 あんな髪の色にして、先生に怒られないのだろうか。うちの学校では許されない。というか、そもそも髪を染めようとする人なんていないけど。

 それにあんな派手な色の傘、私のお母さんは絶対買ってくれない。


 雨の降る街をバスは走り、いくつかのバス停に停まる。紺色のブレザーの生徒が、徐々に減っていく。

 そして老人ホームの前でまたひとりいなくなり、最後に赤い髪の人だけが残った。

「じゃあな、リョウ」

「おう、またな」

 軽く手を振った生徒が降りていき、車内に静けさが戻った。

 バスが再び走りはじめる。残った彼は立ったまま、ポケットから白いイヤホンを取り出し耳につけた。いつもと同じだ。そしてここから二つ目の、終点の手前で降りるのだ。

 そのときふっと、彼の視線がこっちに動いた。一瞬目が合い、私はあわてて膝の上のスクールバッグに視線を落とす。

 次のバス停に着き、バスが停まる。何人かの乗客が降りていく。私はおそるおそる顔を上げてみる。

 赤い髪の人は、白いイヤホンを耳につけ、じっと窓ガラスに流れる雨を見つめていた。



「最近英語の成績がよくないわね」

 模試の結果を見ながらお母さんが言う。

「毎日塾に通っているのにどうしてかしら。こんな簡単な問題でつまずくなんて、私はなかったわよ」

 お母さんはいつも自分と私を比べる。お母さんは頭がよかったけど、私はそんなによくない。お母さんにはどうして私が問題を間違えるのか理解できないようだ。

「次からは気をつける」

「この前もそう言ったわよね? 絵梨子は集中力が欠けているのよ。しっかりしなさい」

 私は黙ってうなずいた。

「じゃあ気をつけていってらっしゃい。帰りはバス停まで迎えに行くからね」

 スクールバッグを肩に掛け、セーラー服で外へ出る。

 昨日の雨はやんでしまった。今度雨が降るのはいつだろう。


 バスに乗って席に座ると、私は単語帳を取り出した。バスの中でひとつでも多く英単語を覚えよう。もっともっと頑張らないと。お母さんのようにならないと。

 バスが停まる。お客さんが降りて、また乗り込んでくる。

「次は南高校前――」

 私は顔を上げ、窓の外を見る。

 バス停には紺色のブレザーを着た女子生徒が数人立っていた。もちろんあのグループはいない。

 私は小さく息を吐き、また単語を見つめる。

 集中しなくちゃ。ひとつでも多く覚えなきゃ。そう思うのに――

 私はもう一度、窓の外を見た。

 歩道を走っている自転車。私は窓に張り付くようにして、自転車をこいでいる人の顔を見る。そしてまた、小さく息を吐く。

 なにしてるんだろう、私。

 会えるわけないのに。雨が降らなきゃ、あの人に会えるわけはないのに。



 三日後、雨が降った。今日もお母さんの声を背中に背負い、黒い傘を開く。

 バスに乗り、単語帳を開いたけれど落ち着かない。

 雨は朝から降っていたから、今日は自転車ではないはず。きっとあの人はこのバスに乗ってくる。

 どうしてだかわからないけど、心臓がテスト前のようにどきどきした。

「次は南高校前――」

 私は窓から外を見る。近づいてくるバス停。傘をさして並んでいる人の影。その中に見える鮮やかな傘の色。

 ――いた。

 私は誰にも気づかれないよう、小さく小さく息を吐く。


 赤い髪の人は隣に立つ男子とスマホを見て、くすくす笑っていた。耳にはイヤホンがついている。

 なにを見ているんだろう。なにを聞いているんだろう。きっとあのスマホの中には、私の知らない世界が広がっている。

「じゃあなー」

 男子生徒が少しずつ減り、老人ホーム前で最後の友だちが降りていく。それと同時におばさんの集団が乗り込んできた。赤い髪の人が、スマホを持ったまま奥につめてくる。

 え……

 その人が私の席のすぐそばで足を止めた。私はあわてて単語帳に視線を落とす。心臓がどきどきして、握った手に汗が出る。

 ほんの少し顔を上げると、ピンク色の傘を持った手が見えた。私とは違う、大きくてごつごつした手。傘から流れる雨の雫が、バスの床に小さな水たまりを作る。

 私はまた単語を見つめた。なんだかうまく呼吸ができない。

 だけどすぐそばにいるこの人は、私のことなんか気にしていないだろう。きっとスマホを見つめて、イヤホンから流れる音に集中しているだけだ。

 やがてバスが停まり、降りた彼が雨の中にピンク色の傘を開いた。



 翌日も雨が降っていた。どうやら梅雨入りしたらしいとお母さんが言う。

「ああ、そうそう。もうすぐバスに乗らなくてすむから」

「え?」

 私は雨の中に黒い傘を開いた状態で振り向いた。お母さんは機嫌良さそうに私に伝える。

「もうすぐ免許取れるからね、お母さん。そうしたら毎日塾まで送ってあげる」

 お母さんは私の送り迎えをするために、教習所へ通っているのだ。

「これからもっと帰りが遅くなるかもしれないし。バスはやっぱり危ないわ。絵梨子は私と違ってぼうっとしているし」

 肩に掛けたスクールバッグをぎゅっと握りしめる。

「タオル持ったわね。帰りのバス、乗り遅れないように。いってらっしゃい」

「……いってきます」

 小さくつぶやいて、足元の水たまりを見下ろした。


 バスの中はいつもより少し混んでいて、蒸し暑かった。私は後ろのほうのふたり掛けの席に座った。窓側には買い物帰りのおばさんが座っている。

 ここからだと窓の外がよく見えない。だけどもういい。もうすぐ私はこのバスに乗らなくなる。そうしたらもうあの人に会うこともない。

 私はバッグから単語帳を取り出し、暗記に集中する。

「次は南高校前、南高校前――」

 ドアが開き、制服を着た生徒たちが乗り込んできた。バスの中が賑やかになる。

 私は必死に目の前の単語に集中した。それなのに心の中で想像してしまう。

 赤い髪の毛。スマホを見ながら笑っている横顔。友だちに話しかける低い声。濡れた傘を持つごつごつした手。

 そのとき、ぽたりと雨の雫のようなものが単語帳のページに落ちた。私はあわてて自分の顔をこする。

 落ちたのは私の涙だった。どうしてかわからないけど、私は泣いていた。


「降ります」

 はっと顔を上げると、隣のおばさんが立ち上がっていた。いつの間にか老人ホーム前まで来ていた。私が急いで席を立つと、おばさんは「ありがとう」と微笑んでバスを降りていった。

 私はもう一度顔をこすり、おばさんのいなくなった席に腰かける。するとすぐに私の隣に誰かが座った。なにげなく隣を見ると、赤い色の髪が見えた。

「えっ……」

 思わず声が漏れて、息が止まる。隣に座った彼が、私の顔を見つめて言う。

「なんで泣いてんの?」

 私は咄嗟に顔をそむけ、手で口元を覆った。お風呂でのぼせたように、顔も頭も熱くなる。

 黙ったまま、単語帳をバッグの中にしまった。指先が、すごく震えていた。

 女の子が隙を見せると危険なの。知らない男の人を信じては駄目よ。あなたは特に、ぼうっとしているんだから――

 お母さんの声が頭の中でぐるぐるまわる。私は「隙」があったのだろうか。隙があったから、男の人に声をかけられてしまったのだろうか。

「あのさぁ」

 私の耳に低い声が聞こえる。心臓がものすごく速く動いている。

「降りない?」

「え?」

 つい隣を見た私の目に彼の顔が映った。いつも遠くから見ていたその顔だ。車内に流れるアナウンスが、終点のひとつ手前のバス停名を告げる。

 赤い髪の人が降車ボタンを押し、私の手首をつかんで立ち上がった。私も引きずられるように席を立つ。

 立っている人の間をすり抜け、バスの前に来た。私はあわててICカードを手に持ち、それをかざす。そして男の人に手を引かれたまま、開いたドアから外へ出た。


 降りたことのないバス停だった。雨はまだ降り続いている。

「あ……」

 そこで私は傘を持っていないことに気がついた。バスの中に置いてきてしまったのだ。

 どうしよう……お母さんにまた怒られる。

 戸惑う私の隣で男の人が傘を開いた。綺麗なピンク色が私の目の前に広がる。

「深呼吸したら?」

 その声が聞こえて、私は言うとおりに何回か息を吸って吐いてを繰り返した。

 男の人はそんな私に傘をさしかけてくれた。つかまれていた手は、いつの間にか離れていた。

「落ち着いた?」

 私は首を横に振る。落ち着いてなんかいない。心臓はずっとどきどきしている。そんな私を見て、男の人がいつも友だちといるときのように笑った。

「でも涙は止まったじゃん」

 私はおそるおそる顔を上げ、傘の中でその人の顔を見る。

「いつも窒息しそうな顔してるよな」

「え……私……?」

「うん。大丈夫かな、この子って、ずっと心配だった」

 男の人が私の知っているごつごつした手で、ピンク色の傘を揺らす。この人は気づいていたのだ。いつも私がバスに乗っていたこと。

「少し歩こうよ」

 私は戸惑った。

「どうして……」

 私なんかと? 言いかけて言葉を止める。

 赤い髪の人が私を見下ろしていた。近くで見ると背が高い。

 私はかすかにうなずいた。心臓は壊れそうなほど速く動いていて、手もさっきから震えていたけど……私はきっとこれを望んでいたのだ。

 いつもバスから見下ろしていたピンク色の傘に、雨の音がぽつぽつと響く。

 目の前にいる人が小さく笑った。そして濡れた歩道に足を踏み出す。私はそれを見下ろしながら、同じように足を動かした。


 知らない道を知らない人と歩く。もちろんこんなことをするのは初めてだ。しかもこのままでは塾に遅刻してしまう。

 塾に着くと自動的に、お母さんのスマホに連絡が入るようになっているから、遅刻したらすぐにばれるだろう。お母さんにばれたら……考えようとしたけど、それもやめた。

 街が濡れる。雨で濡れる。光に反射した水滴がキラキラ輝く。赤いスニーカーが水たまりを踏みつける。ぱしゃりと水が跳ねて、私のローファーが濡れる。

「俺、雨の日に外歩くの、けっこう好きなんだ」

 ピンク色の傘の中でその声を聞く。

「小学生のころはわざと水たまりに飛び込んで、服も靴もびしょびしょにしてさぁ。母さんに『あんたなにやってんのー! アホかー!』って追いかけられて。今はさすがにそこまでしないけど」

 楽しそうに笑う赤い髪の人。もしかしてこの人は慰めようとしてくれているのだろうか。バスで泣いていた私を見かけて。

 私は少し顔を上げ、隣の人の服を見る。今日は紺色のブレザーを着ないで、赤いパーカーだけ着ている。

 そういえば私も小さいころ、水たまりを踏みながら歩いたことがある。思いきり水を踏む感覚が気持ちよくて、水たまりから水たまりへ飛びまわった。

 だけどお母さんに見つかって叱られた。

 やめなさい。どうしてそんなことをするの? 靴やお洋服が濡れちゃうでしょう?

 またお母さんの顔が浮かぶ。そんな私の足に水がかかった。


「えっ……」

 横を見ると、いたずらっ子のような顔をした隣の彼が、わざと水たまりを踏みつけ、私の足に水しぶきをかけた。

「あんたもやれば?」

 そんなことできるわけない……いつもの私だったらそう思う。だけど今日の私はそっと足を前に出し、水たまりを踏みつけた。

 ぱしゃっと跳ねた水が、制服のズボンにかかる。

「あっ、ごめんなさい!」

「全然へーき。濡れたら乾かせばいいじゃん」

 隣の人がおかしそうに笑う。私はその笑顔に向かってつぶやく。

「でもうちは……お母さんが許してくれないから」

 ひゅっと息が詰まりそうになり、深呼吸して言葉をつなげる。

「バスも……もう乗れなくなっちゃう。私はお母さんに、言いたいことが言えないの」

 立ち止まってうつむいた。また涙が出そうになる。

 隣の人も足を止めた。そして私に向かって言う。


「俺も……母さんには言いたいこと言えないよ」

「え?」

 そんなの嘘だ。だってこの人は私と違う。私みたいに言いたいことも言えず、不満を胸の中で燻らせているような人間とは違う。

「だってうちの母親、もう死んじゃったし」

 その声が胸に刺さった。頭が真っ白になり、どうしたらいいのかわからなくなる。

 けれど隣の人は、いつもみたいに明るく笑う。

「あ、ごめん、ごめん。深刻な顔しないで。俺、全然なんとも思ってないから……って言ったら怒られるけど、もうずいぶん前のことで、慣れちゃったっていうか」

 そう言って赤い髪をかく。

「でもまぁ、生きてる人とは喧嘩したほうがいいよ。あとで後悔しないように、さ」

 そしてまた赤いスニーカーを雨の中に踏み出す。私はその背中につぶやく。

「できるかな……私」

 ピンク色の傘の中で、男の人が振り返る。

「喧嘩できるかな……お母さんと」

 車のヘッドライトが、薄暗くなった歩道を照らした。私たちの間に降る雨が、キラキラと輝く。

「できるよ。きっと」

 一歩私に近づいて、その人が傘をさしかける。そしてにっと笑いかけた。

 ピンク色の傘を雨が叩く。ぽつぽつぽつぽつ、リズミカルに。私たちは向かい合って、同じ音を聞く。

 なんだか不思議。今日はスマホの画面でもイヤホンの音でもなく、この人も今、私と同じものを見て聞いているんだ。

 絶対変わらないと思っていた関係が変わった。だったら私とお母さんも、変わることができるかもしれない。


「俺が降りたあと、いつも終点まで乗ってくよな?」

 雨の中を歩きながら、隣の人が言う。彼のスニーカーも私のローファーも濡れている。

「はい。駅前の塾に通っているので」

「え、塾? じゃあこれから塾に行くの? てか、もしかして遅刻?」

 私はちょっと戸惑ってから、小さくうなずいた。

「マジかー。ごめん。へんなところで降ろしちゃって。今から走って行く?」

「いえ……もう……」

 もう……そんな気にはなれない。

「もう、いいです。今日は」

 肩に掛けたバッグを、ぎゅっと強く握りしめ、私を見ている人の顔を見た。するとその人が、またいたずらっぽく笑う。

「そうだな。今日は許してくれるよ。神様が」

 神様か。お母さんが許してくれなくても、神様が許してくれるならいい。

 私はほんの少し微笑んで、一番聞きたかったことを聞いてみた。

「どうして……傘……ピンクなの?」

「ああ、これ?」

 隣の人は傘を高く上げ、くるんと一回まわす。雨の雫が周りに飛び散っていく。

「自分の傘なくしちゃって、姉ちゃんの借りたまま俺のものになった」

 お姉さんの傘……だったのか。もしかしたらお母さんの形見の大切な傘なのかなとか、深く考えてしまったけど……違った。全然違った。

「そっか……」

 私はふっと息を吐く。

「そうなんだ」

「なんだと思ったんだよ?」

 顔をのぞきこまれ、私はあわてて視線をそらす。心臓がまたどきどきしてきた。

「なんでもない」

 そんな私の隣で声がする。

「まぁ、いっか。元気出たみたいだし」

 その声を聞きながら私は歩いた。そして傘の中で思う。

 このままずっと、雨がやまなければいいのに。ずっと雨の中を、歩いていければいいのに。

 だけど私たちの目の前に、明るく輝く駅のロータリーが見えてきた。


 駅のバス停から家へ帰るバスに乗る。今夜塾へは行かなかった。きっとお母さんは心配している。バッグの中のスマホに、着信がたくさん入っているだろう。

「これ持っていきなよ」

 バスに乗る前、ピンク色の傘が差し出された。

「バス降りたあと、濡れるだろ?」

「え、でも……」

「俺は大丈夫。雨の中歩くの好きだから」

 一瞬手と手が触れ合って、ピンク色の傘を持たされる。

「じゃあ」

「あ、あの……」

 私は思い切って声を出す。

「名前……聞いてもいいですか?」

 友だちから「リョウ」と呼ばれているのは知っていたけど、その口から聞きたかった。

 赤い髪の人は私を見て、笑って答えた。

「リョウ。新山凌。南高の二年」

「私は……絵梨子です。安藤絵梨子。高校一年生」

 教えてしまった。私の名前と学年を。だけどこの人はもう「知らない男の人」じゃない。私はこの人のことを知っている。

「傘、返します。今度……雨が降った日に」

 私の前で「凌くん」が笑った。

「うん。じゃあまた会おう。今度、雨が降った日に、あのバスで」

 私は強くうなずいた。凌くんは軽く手を振って、雨の中を走り出す。

 ああ、濡れてしまう。私のせいで。そういえば家はどこだろう。私を送って駅まで来てくれたけど。


 赤いパーカーが見えなくなると、私はバスに乗り込んだ。

 ゆっくり走り出したバスの中、お母さんに「今から帰る」とメッセージを送り、再びスマホをバッグにしまう。

 雨の流れる窓ガラスに、こつんとおでこをつけた。

 つめたい。でも気持ちいい。

 私は深呼吸をしてから、目を閉じる。帰ったらお母さんに叱られる。だけど今日は言おう。私が今思っていること。ずっと思っていたこと。きっとお母さんはわかってくれないだろうけど。それでもまた、このバスに乗りたいから。

 バスに揺られながら、私はピンク色の傘の柄をぎゅっと握りしめた。

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