雪明かりの夜、君を想う
私の窓から見える景色と、彼の窓から見える景色はもう違う――幼い頃からずっと一緒だった梨乃と光希は恋人同士。社会人になり光希は雪のたくさん降る街へ行ってしまった。そんな光希に梨乃は素直な気持ちを伝えられない。彼は私のことどう思っているの?
『今夜も寒いね』
『こっちは大雪。ヤバいくらい降ってる』
『よかったじゃない。光希は雪が降ると、犬みたいに外走り回ってたもんね』
『いつの話だよ。明日は朝から雪かきなんだぞ。めんどくせー』
私はスマホの画面から視線をはずし、つけっぱなしのテレビを観る。
ちょうど映った週間天気予報は、晴れのマークが並んでいる。
東京の街に、雪はまだ降らない。
『東京はいいよな。俺はもう、雪なんてうんざりだ』
ほんの少しの雪がちらつくだけで、待ちきれないように外へ飛び出していったくせに。
一緒にランドセルを背負って歩いた光希は、少し大人になって、私の知らない街で働いている。
『明日早いから寝るよ』
『おう、またな』
『おやすみ』
メッセージを閉じて、ベッドの中にもぐり込む。
枕を抱えて、毛布をかぶり、今夜も光希のいない部屋で眠りについた。
古い団地の、お隣の部屋に住んでいた光希。
同じ間取りの窓から、同じ景色を眺めながら、私たちはまるできょうだいのように育った。
小学校も中学校も高校も……気づけば光希は私の隣にいた。
「あんたたちって仲いいよね」
「ほんとうに付き合ってないの?」
周りの友達からそうひやかされても、私と光希は変わらなかった。
あまりにも長い間一緒にいすぎて、この生ぬるい関係から、抜け出すきっかけがつかめなかったのかもしれない。
高校を卒業した私たちは、二人一緒に上京したものの、通う大学は別だった。
そこで私は初めて、光希と離れ離れになったのだ。
ずっと憧れていた都会での生活。新しい人間関係。
どれも望んでいたはずのものだったのに、なぜか感じる物足りなさと心細さ。
『梨乃。いま何してる?』
久しぶりに届いた光希からのメッセージに、すがるように飛びついた。
私に足りなかったのは、やっぱり光希だったのだ。
そして光希も、私のことが必要だったのだと思う。
いつしか私たちはお互いのアパートを行き来するようになり、そこで私と光希は結ばれた。
やがて二人とも都内の会社に就職が決まり、四年間の大学生活も終わる頃、光希はほとんど私の部屋で暮らすようになっていた。
「就職したらさ、もう少し広い部屋に引っ越さない?」
二人でそんな話もした。
ところが研修期間が終わった光希の配属先は、ここから遠く離れた寒い街だった。
「梨乃ちゃんの彼氏って幼なじみなんだって?」
会社の同期の女の子が、ランチを食べながら私に聞いた。
「うん。同じ団地の隣同士に住んでたから、気づいたらずっと一緒で」
「うわー。でもさ、そんなに長く一緒にいて、あきない?」
どうだろう。あんまり考えたことない。
でももしかしたら……光希はそう思っているかもしれない、なんて最近思う。
『今夜も寒いね』
部屋に帰って、光希にメッセージを送る。
しかししばらく待っても既読の文字は現れない。
離れて暮らすようになってから、私と光希を繋ぎ止めているのは文字だけの会話。
だけど最近、光希からの返信は遅くなった。
「仕方ないよね……」
慣れない街での生活や仕事。きっと大変なんだろう。
私が重荷になってはいけないって思うから、しつこく返事をせまったり、電話をかけたりはしない。
スマホを握ったまま、布団の中にもぐり込む。
エアコンで温められているはずなのに、ひとりぼっちの部屋はなんだか寒い。
窓の外に今夜も雪は降らない。
だけど光希の見ている窓の外には、雪がたくさん降っているのだろう。
そしてその夜、光希からの返信はこなかった。
『ごめん! 寝落ちした』
朝早く届いたメッセージに、布団の中から返事を返す。
『おはよ。そっちは今日も雪?』
少しの間があって、一枚の画像が届いた。
おそらく光希の住んでいる部屋から見える、一面真っ白な世界。
私の窓から見える景色とはまったく違う。
『すごいね。雪だるま作れるね』
『そんな暇ないわ。じゃあまたな』
消えたスマホの画面を見ていたら、幼い頃の記憶が頭をよぎった。
私たちの住んでいた街に、めずらしく大雪が降った夜。
四階の窓から見える景色が、どんどん白く変わっていった。
きっと隣の部屋に住んでいた光希も、私と同じものを同じ気持ちで眺めていたのだろう。
朝まで待ちきれなかった光希に誘われて、家をこっそり抜け出した。
降り続く雪が、見慣れた景色を幻想的に変えていく。
夜なのにぼんやりと明るい、音の消えた不思議な世界。
その中に立っているのは、私と光希の二人だけ。
光希は嬉しそうに、まっさらな雪の上に小さな足跡をつけた。
「明日の朝じゃ、誰かに足跡つけられちゃうから」
そして二人で雪をかき集め、大きな雪だるまを作ったのだ。
あの夜のこと。光希はまだ覚えているかな。
もしかして、いつまでも過去を思い出して立ち止まっているのは、私だけなのかもしれない。
「年末は彼氏に会えるの?」
同期の声に私は答える。
「わかんない。忙しいみたいだから」
「年末年始も? ほんとうに仕事?」
私が顔を上げたら、同期の子はいたずらっぽく笑った。
「ウソウソ、冗談。ずっと梨乃ちゃん一筋だった彼氏が、今さら浮気なんてするはずないもんねぇ」
彼女の声を聞きながら思う。
そんなことはわからない。
スマホの画面に映る文字では、光希の本当の気持ちはわからない。
その夜私は、光希にメッセージを送らなかった。
スマホの電源も切り、バッグにしまい込んで眠った。
朝起きて電源を入れたら、光希からのメッセージが入っていた。
『年末、そっちに帰れそうにない』
私はそれに返信せず、そのままバッグの中へしまい込んだ。
どうしてこんな気持ちになるんだろう。
光希はなにも悪いことはしていない。
ただ離れ離れになっただけ。
我慢しなくちゃ。わがまま言わないように。迷惑かけないように。
私はもう大人なんだから――そう思うのに。
なんだかすごく疲れてしまった。
それきり光希にメッセージを送らなかった。
光希からは何度かメッセージがきたけれど、返事を返すことができなかった。
返事をしたら……きっと私は、すごくわがままになってしまいそうだったから――。
その日は残業があって、いつもより帰りが遅くなった。
疲れた体を引きずるように、ため息をつきながら電車に乗る。
つり革をつかんで窓の外を眺めれば、流れてくるのは見慣れた都会の風景。
そこに光希はいなくて、光希の見ている景色の中にも私はいなくて、そんなことを考えると、心の距離まで離れてしまった気がする。
気づくと目の前の景色がにじんで見えた。私の目には涙がたまっていた。
恥ずかしい。電車の中で泣くなんて、馬鹿みたいだ。
涙をこすって前を向く。車内のアナウンスが私の降りる駅名を告げた。
帰り道、雪がちらちらと降ってきた。
東京に降る、この冬初めての雪。
街灯に照らされた雪を見上げたら、また涙があふれてきた。
そのとき突然バッグの中が震えた。スマホを取り出すと着信中だった。
――光希だ。
どうしよう。きっと光希は怒ってる。私がずっと無視してたから。
迷っているうちに電話が切れた。私は白い息を吐く。
立ち止まったまま雪を見上げると、またスマホが震えた。
『作ったよ』
文字と一緒に送られてきた画像。
「雪だるま……」
なにしてるのよ。仕事、忙しいんでしょう? そんな暇ないんでしょう? なにしてるのよ。
『梨乃と一緒に作った雪だるま、覚えてる?』
私が返事をしないのに、光希からのメッセージは続く。
『雪の降った夜に部屋抜け出したよな。親にめちゃくちゃ怒られたっけ』
うん、そうだね。懐かしい。
『なんでかなぁ。雪を見るとあの夜のこと思い出しちゃうんだよ』
ああ、光希も覚えていたんだ。
『だから俺、こっちにきてから毎晩思い出す』
私は画面に浮かび上がる文字をじっと見つめる。
『梨乃のこと』
雪が空から舞い落ちる。淡くて儚い東京の雪。
だけど今夜は少しだけ、光希の住む場所に近づいた気がする。
また着信が入った。私は思わず通話を押す。
「はい」
電話の向こうから聞こえてくるのは懐かしい声。
「見てるなら電話出ろよ。俺にばっか恥ずかしいこと言わせやがって」
光希の声が、すぐそばから聞こえる気がする。
「聞いてんの? 俺の話」
「……聞いてるよ」
耳元がふんわり暖かくなって、私は口元をゆるませる。
「ごめんね。返事しないで」
少しの間黙った光希が、私に言う。
「俺もごめん。年末も仕事が入った」
私は小さく息を吐き、電話につぶやく。
「じゃあ私がそっちに行こうかな」
「え?」
「忙しいのに、迷惑かな」
「まさか! 全然迷惑なんかじゃない!」
光希の少しうわずった声を聞いていたら、胸の奥につかえていたものがすうっと溶けていった。
「あ、でもすっげー寒いよ? 雪積もってるし」
「うん。こっちもね」
私は空を見上げてつぶやく。
「今夜は雪が降ってるんだよ」
なんだか繋がっている気がした。
光希の住む街と私の住む街が、なんだか繋がっている気がしたのだ。
「俺の窓からも雪が見えるよ」
同じだ。私たちはいま、同じものを見てるんだ。
「積もるかな?」
「まさか。すぐやんじゃうよ。東京の雪なんて」
「梨乃、雪好きなのにな」
「え、そんなことないよ?」
「雪降るとすげーはしゃいでたじゃん」
「いつの話よ。それ」
電話の向こうで光希が笑う。その声を聞いていたら、私も嬉しくなった。
なんだ。簡単なことだったんだ。
素直に気持ちを伝えるだけで、こんなに楽になれたんだ。
「年末会えるの、楽しみにしてる」
光希の声に私は答える。
「うん。私も」
「一緒に雪だるま作ろうか?」
「光希はいつまでも子どもだね」
でも少し、楽しみだ。
その夜の雪は、やっぱりすぐにやんでしまった。
窓の外に見えるのは、いつもと同じ東京の街。
だけどもう寂しくはなかった。
見える景色は違っても、私たちはちゃんと繋がっている。
光希のいない部屋で、今夜も私は眠る。
いつかまた二人、同じ景色を眺められる日が来ることを夢に見ながら――。




