三年後も、四年後も
「ねぇ、先生。俺と付き合ってよ」私の教え子は、何度もその言葉を繰り返す。やがて卒業の日。別れを告げた私に彼は――。男子高校生×女教師 叶わない恋の行方は?
「ねぇ、先生。俺と付き合ってよ」
三年間、何度も聞いた台詞を今日も聞く。
「無理です」
けれど何度聞いても、私の返事は変わらない。
数時間前のざわめきが、嘘のように静まり返った教室。窓の外は、しとしとと冷たい雨が降り続いている。
窓際に立ち、少し開いていた窓を閉めると、大げさなため息とふざけたような声が背中に聞こえた。
「なーんでだよぉ、香子ちゃん。俺、今日、高校卒業したんですけどー」
一年間使った教室の、最後の点検に来た私。生徒はもう、一人残らず帰ったはずだと思っていた。それなのに――。
窓の鍵をきちんと閉め、私はゆっくりと振り返る。
机に腰かけ、そばにある椅子をガタガタと蹴飛ばしている生徒は、藤野直斗。この教室で私が受け持っていた生徒だ。
「藤野くん。ふざけてないで、早く家に帰りなさい。それから椅子は蹴飛ばさない」
私はそう言うと、机の上に無造作に置かれている筒を手に取り、彼の胸元に押し付ける。
「大事な卒業証書。忘れないでね」
足を止めた彼が、むすっとした顔でそれを受け取る。私は表情を変えないまま、そっと視線をはずす。
雨の雫が流れる窓の外に、桜の木が見えた。この学校で一番大きなその木に、まだ花は咲いていない。
「じゃあ、いつになったら付き合ってくれるんだよ? 香子先生」
顔をそむけたまま、小さく息を吐く。
「無理です」
「その返事は聞き飽きた」
「いつになっても無理です」
「彼氏いないくせに」
顔を向け、彼のことを睨みつける。そんな私を面白がるように、にやっと笑う私の教え子。腹が立つ。
「そうね。私に彼氏はいないけど、藤野くんには彼女が大勢いるんでしょうね」
ちょっと意地悪く言ってやる。
「は? 彼女なんかいないって」
「あら、いつも女の子に囲まれてるから、彼女のひとりやふたり、いるのかと思ってたわ」
教室でも、廊下でも、校舎の外でも。女子生徒と一緒にいる彼の姿を、私は何度も見ていたから。
またむっとした顔つきになった彼が、机から降りて私に近づく。
「先生。もしかして妬いてんの?」
「ばっ、そんなわけないでしょ!」
「あ、赤くなった」
私を見下ろすようにして、ははっと笑う彼。コロコロと変わるその表情に、振り回されているのは私のほうだ。
「とにかくさっさと帰りなさい。こんな時間まで残ってる生徒は、あなたくらいよ」
そう言って、一歩踏み出した私の行き先を、彼がふさぐ。
「いつになったら付き合ってくれるか、ちゃんと返事してくれるまで帰らない」
「いい加減にしなさい」
「香子先生」
甘ったるい声でそう呼ばれ、条件反射のように顔を上げる。目の前に立つ彼と視線がぶつかり、あわててまた外を見る。
「俺、三年間ずっと、先生のこと想ってるんだけど?」
知ってる。うんざりするほど、その言葉を聞いてきたから。
春。満開の桜の木。
新学期早々遅刻しそうになって、焦って登校してきた私は、ちょうどあの木の下でつまずいた。
「大丈夫?」
倒れそうになった私の体を、とっさに受け止めてくれた男子生徒。一瞬触れた、あたたかいぬくもりに驚いて、私はあわてて体を離す。
そんな私を見て、目の前の生徒が口元をゆるませた。私よりずっと背が高いけど、どこか幼さの残る顔は、新一年生だろうか。
「何組?」
「え?」
「俺、一年三組。あんたは?」
制服のない学校だから。小柄で童顔な私は、生徒に見えたのかもしれない。これでも教員二年目なんだけど。
「一年三組……の担任です」
は? という顔をした彼が、吹き出すように笑い出した。
その顔が、無邪気な子どもみたいに可愛くて。
春風の吹く木の下で、私はただぼんやりと彼の顔を見ていた。
「先生? あんたが? マジか、ウケる」
「ふざけないで」
「先生、なんて名前?」
「安住……香子」
「香子ちゃんかー」
「そ、その呼び方……やめなさい!」
必死になればなるほど、おかしそうに笑った彼。
そのあと桜の下で撮った集合写真では、真ん中に座る私の隣でやっぱり彼が笑っている。
あれからもう、三年が経ってしまった。
「こんなに想われてるんだからさぁ。いい加減素直になりなよ」
私は窓辺を見ながら、もう一度ため息を吐く。
「藤野くん」
「はい?」
かすかに聞こえる雨の音。
「あなたはまだ、狭い世界しか知らないの。大学に行ったら……東京に行ったら、もっと広い世界を知ることになる。いろんなものを見て、いろんなことを聞いて、いろんな人と出会って。そうしたらきっと、私のことなんか忘れられる」
そう。彼は四月から東京の大学生。この狭い町を出て、もっとたくさんの人と出会う。
希望に満ちた彼の未来に、八歳も年上の女なんて必要ない。
「きっと素敵な彼女もできるわよ。楽しみね」
窓の外を見たまま告げる。私の教え子に。教師として。
「卒業……おめでとう」
雨の中、寒さをこらえるように立つ桜の木。あの桜が満開になるのはいつだろう。
学校中で、桜が一番綺麗に見えるのは、私たちのこの教室だった。そして次に桜を見る頃、彼はもうここにはいない。
「さよなら」
顔を上げて前を向く。目の前に立つ彼は、何も言わずにうつむいている。
そんな彼を追い越すように、もう一度足を踏み出したとき――彼の伸ばした手が、私の体を窓に押し付けた。
「ふっ……藤野くん?」
名前を呼んで視線を上げたら、いつになく真剣な顔つきの彼の顔が、すぐ近くに見えた。
「……忘れなかったら?」
彼の声は少しかすれていた。
「東京行っても忘れなかったら?」
「え……」
「四年経っても忘れなかったら……香子、俺と付き合って」
背中に当たるガラス窓が冷たい。私の脇に置かれた、卒業証書を持つ彼の手が、かすかに震えている。
彼は私に顔を近づけ、耳元でささやくようにこう言った。
「四年後。桜が満開になったら……あの木の下で待ってる」
カタンと机に何かが当たる音がした。教室を出て行く彼の背中。私はガラス窓に体を預けたまま、ただその姿を見送る。
――四年後。あの木の下で待ってる。
ありえない。そんなの。絶対ありえない。
「あ……」
そばにあった机の上に手を伸ばす。彼の卒業証書の入った筒が、そこに置かれている。
「忘れるに……決まってる」
筒を手に取り、それを胸に抱きしめた。
私の気持ちをこんなにかき乱して。そんな台詞を残していくなんて……ずるい。
***
「お母さん。今日はいい天気だよ。お散歩でもしてみない?」
窓から射し込む春の陽射し。ベッドの上の母が微笑む。
「そうね。少し外へ出てみようかしら。桜も咲いてるみたいだし」
その声に、かすかな痛みが胸の奥を走る。
テレビの画面には、桜の満開を知らせるアナウンサーが、満面の笑みで映っていた。
母と一緒に近所を歩く。その腕を支えて、ゆっくりと。
二年前に大病を患った母は、今、自宅でリハビリを続けている。
「公園の桜が満開ね」
母が空を仰ぐようにして、咲き乱れる桜の花を見つめる。
やわらかく吹く春の風。ふわりと舞う淡い色の花びら。誰もがその木を見上げ、笑顔になっているというのに、私の心はくすぶり続ける。
「ごめんね……香子」
公園の桜を見上げたまま、母が突然つぶやく。
「私の病気のせいで、仕事を辞めさせちゃって……ほんとにごめんね?」
「なに言ってるの? お母さん」
母が倒れたあと、私は母の看病をするため、去年の年度末で高校教師を辞めた。
正直、迷ったことは確かだ。仕事はちょうどやりがいが出てきた頃で、寂しがってくれる生徒もいてくれた。だけどそれは私が決めたこと。
「仕事はまたいつだってできるもの。今はお母さんのそばにいたいの。早く元気になって。そうしたらまた、私も学校に戻るから」
「香子……」
母が目を潤ませながら、私に微笑む。
「でもね、あんたはすぐ我慢する子だから。たまには自分の気持ちに素直になってもいいのよ?」
自分の気持ちに素直に……?
ぼんやりと立ちつくす私の脇を、高校の制服を着た生徒と母親が通り過ぎた。
ああ、そうか。今日は入学式だったんだ。
晴れやかな顔つきの親子を見送りながら、教師として過ごした学校生活を思い出す。
「そろそろ帰りましょう。少し疲れたわ」
「うん……」
母と一緒に歩き始める。はらりと肩に落ちる一枚の花びら。
忘れよう忘れようと思っていた声が、風に乗って聞こえてくる。
――四年後。桜が満開になったら……あの木の下で待ってる。
まさか。ありえない。そんなことは絶対ありえない。
「香子? どうしたの?」
母の心配そうな声で気がついた。
私は桜の木の下で立ち止まり、涙をこぼしていた。
「お母さん、私……忘れ物を届けに行かなきゃ……」
家に母を送り届けると、私はもう一度外へ駆け出した。
何人かの学生たちとすれ違いながら、息を切らして走る。
なにを必死になっているんだろう。いい歳して……馬鹿みたいだ、私。
やがて見えてきた見慣れた校門。私は迷わずその中へ駆け込む。
校舎から出てくる人影はなく、グラウンドでも部活動をやっている気配はない。
いるわけない。いるわけない。誰もそんなところに――。
空からふわりと花びらが舞う。目の前に見える満開の桜の木。あの教室の窓から見た桜の木。その木の下に立つ、スーツ姿の男のひと。
「あっ……」
勢い余って転びそうになった私の体が、大きな手で受け止められる。
「大丈夫?」
聞き覚えのある声。ううん、毎日たしかに聞いていた声。
「大丈夫? 香子先生」
顔を上げると、懐かしい笑顔が私の前に広がった。
「忘れ物を……届けに……」
息を切らしながら体を離し、卒業証書の筒を無理やり押し付ける。
「それにもう……私は先生じゃないから……」
私から筒を受け取った彼が、少し照れくさそうに言う。
「俺は先生になったよ。この学校の」
「うそ……」
「うそじゃないって」
ネクタイをゆるめながら、彼は笑う。
「それに四年経っても忘れなかった」
私も……私も忘れなかった。
「忘れなかったら、俺と付き合ってくれる約束だったよな?」
四年前より大人びた顔でのぞきこまれて、どうしたらいいのかわからなくなる。
「そんな約束……してないわ」
「あー、変わってねーなー。素直じゃないとこ」
むっとした顔で彼を見上げたら、彼は嬉しそうに笑った。
「付き合ってよ。香子ちゃん」
「無理です」
「付き合って」
「無理」
「香子。好きだ」
桜の花びらがはらはらと舞う。まるで私たちを祝福している、フラワーシャワーのように。
ああ、もうだめ。もう降参だ。
必死に固めていたガードが崩れ、花びらみたいにふわりと心が軽くなる。
「……私も、好き」
幸せそうに微笑んだ藤野くんが、私の体をぎゅっと強く抱きしめた。
「やっと、つかまえた」
胸の中でその声を聞く。
あたたかい風と、あたたかいぬくもりに包まれて、私はそっと目を閉じた。
はじめて私たちが出会った日。私がすとんと恋に落ちてしまった、彼の笑顔を思い出しながら――。