月夜に君とアイスキャンディー
金曜日の夜、十五年ぶりに会ったのは、私の想いにまったく気づかず引っ越してしまった、幼なじみのアイツだった。ちょっぴり大人になった私たちの、変わったもの、変わらないもの。
あ、私と同じだ。
金曜日の夜、駅前のコンビニエンスストア。
残業中、上司から理不尽に怒られた私は、今にも爆発しそうな不満を抱えレジの前に並んでいた。
本当はお弁当を買いに来たのに食べる気にならず、カゴに放り投げたのはピンク色の缶チューハイ。それとお気に入りの、ソーダ味のアイスキャンディー。
かなり遅い時間だったけどレジはけっこう混んでいて、ジリジリ順番を待つ間、私はふと気づいてしまった。
目の前に並んでいる人のカゴにも、私とまったく同じアイスが入っていることに。
ちらりと顔を上げると、スーツを着たサラリーマン風の人の背中が見えた。片手には黒いビジネスバッグ、片手にはビールとアイスの入ったオレンジ色のカゴ。
「あの……」
声をかけられハッとする。前に並んでいる人が振り向いて、こっちを見ている。
「あっ、すみません」
つい謝ってしまった。私がじろじろのぞき見していたのが、バレたんだと思ったから。
「いや……もしかして……菜月じゃない?」
「へ?」
「やっぱり菜月だよな? 俺のこと覚えてない? 昔近所に住んでた……」
私の記憶が超高速で巻戻り、ひとりの男の子の顔が目の前にいる人の顔と重なった。
「え、うそ……陽太?」
「あたり!」
陽太は私の前で目を細めて、昔みたいに笑った。
コンビニを出て、シャッターの閉まった商店街を陽太と歩く。後ろから聞こえてくるのは、小田急線の踏切の音。居酒屋の前だけはまだ明るく、会社帰りのサラリーマンが固まって笑い合っている。
「まさかこんなところで会うとはね」
私は隣を歩く陽太に言った。私と同じくらいだった背がぐんっと伸びて、見上げるほど高くなっている。
「だよな。小四以来だから……十五年ぶり?」
コンビニの袋をぶらぶらと振りながら、陽太が笑う。陽太は仕事の関係で、先月この近所に引っ越してきたそうだ。
ぼうっと光る街灯の下、あらためて陽太の姿を見た。ビシッとスーツを着てネクタイを締め、革靴を履いている陽太を見るのなんてもちろん初めてだ。私の記憶の中の陽太は、外で遊びまわって泥だらけになった服しか着ていない。
「さっきからずっと気になってたんだよ。どこかで見た女がいるなぁって。まさか菜月とは思わなかったけど」
「私も気になってた。私と同じアイス買ってる男がいるなぁって」
陽太が私の隣で声を立てて笑う。春の終わりの夜風が、肩まで伸びた私の髪をさらりと揺らす。
「なんか変わったよな、お前。スカートなんか履いたことなかったのに。髪も短かったしさぁ」
ピアスのついた右側の耳に、陽太の声が聞こえてくる。
「もしかして私を、ナンパしようと思った?」
「まさか。裸で砂浜走りまわってた女を、ナンパなんかするか」
「はぁ? 裸でなんか走ってません。裸足でなら走ったけど」
陽太が笑いながら、懐かしそうに言う。
「砂浜で競争したっけな」
「私が勝ったんだよね」
「俺だろ?」
「私です!」
陽太と話していると、どんどん昔の風景がよみがえってくる。
男の子たちと裸足で走り回っていた砂浜。眩しすぎる太陽。どこまでも続く真っ青な海と空。
私は女の子と遊ぶより、男の子と遊ぶ方が楽しかった。特に家が近所だった陽太とは、毎日のように遊んでいた。私の実家には、男の子同士みたいに肩を組んで笑っている、私と陽太の写真が飾ってある。
私たちは誰よりも気の合う、最高の友達だったのだ。
しゃべっているうちに商店街を過ぎ、人通りが少なくなってきた。私の住むマンションはもう少し先だ。
すると陽太が急に立ち止まって、薄暗い脇道を指さした。
「せっかくだからさ、ちょっと寄ってかない?」
「え?」
まさかいきなり陽太の部屋に? いやいや、いくら幼なじみ同士で懐かしくなったからって、さすがにそれはまずいでしょ?
「ちょうど酒もあるし」
自分のコンビニ袋を指さしたあと、陽太は私の袋を指さして、いたずらっ子のように笑った。
「んじゃ、かんぱーい!」
陽太の買った缶ビールと、私の買った缶チューハイがぶつかってコツンと音を立てる。
通勤で毎日歩いている道路から、ちょっと脇道に入ったところにある児童公園。ブランコや滑り台がある小さな広場を、ぐるりと桜の木が囲んでいる。
陽太はそこに私を案内し、街灯の下のベンチに座らせた。
「かー、にげー! でも残業のあとはやっぱビールだよな!」
喉を鳴らしてビールを飲んだ陽太が、わけのわからないことを言う。私は缶チューハイをちびちび飲みながら、陽太の横顔をちらりと見た。
スーツのジャケットを脱いで、ネクタイを緩めながら缶ビールを飲んでいる陽太。犬みたいに砂浜を走り回っていたあの陽太が……って思うとなんだかすごくヘンな感じだ。
でもちょっとカッコよくなったかも。いや、陽太は昔からカッコよかった。だから女の子にすごくモテた。本人はまったく気づいていないようだったけど。
私はそんな陽太から視線をそむけてつぶやく。
「こんな公園があったなんて知らなかった」
「お前、ここに住んで何年だっけ?」
「二年ちょっと」
大学を卒業し今の会社に入社した年、ここに引っ越してきた。
「どうせマンションと駅の往復しかしてないんだろ? せっかく住んでるんだったら、もっと寄り道してみろよ。おもしろい発見きっとあるから」
たしかに私は毎日、真っ直ぐ駅に向かって、真っ直ぐ家に帰ってくるだけだ。その他の道なんて、知ろうともしなかった。
「俺なんてここに来て一か月半だけどさ。先月はこの公園で満開の桜見たし、本屋の前でいつも寝てる猫には懐かれたし、惣菜屋のおばちゃんとはコロッケ一個おまけしてもらえるほど仲良くなったぞ?」
そうだ。陽太はそういう人だった。
つまらないことも面倒なことも、全部楽しいことに変えて、気づかなかったことにも気づかせてくれる。そんな陽太のまわりには、いつも友達がいっぱいいた。
「あ、月だ」
私の隣で空を見上げた陽太が、ぽつりと言った。私は缶を口から離し、ゆっくりと顔を上げる。
公園の桜の木の上に、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。
「ラッキーだな。今夜は」
「どうして?」
「だってあんな綺麗な月が見えたんだぞ? ラッキーとしか思えない」
「じゃあ月が見えない日は、アンラッキーってこと?」
「そうでもないよ。月が見えない日は星がよく見える」
陽太が満足そうに空を見上げながら、ビールを飲む。結局陽太は月が見えても見えなくても、幸せになれちゃうんだ。
そして私は、そんな陽太のことが好きだった。だから小四の夏休み前、突然陽太が転校するって聞いて、私は真っ暗な部屋にひとり籠って泣いたんだ。
ちょっぴり切ない思い出がよみがえり、それを振り払うようにチューハイを飲んだ。甘くて苦い液体が熱い喉を通り過ぎ、空っぽの胃の中に溜まっていく。
「あっ、やば、早くアイス食べないと」
陽太の声で思い出す。
「そうだった。溶けちゃう」
ふたりで慌てて、袋の中からアイスキャンディーを取り出した。子どもの頃から好きだったソーダ味のアイス。陽太のもまったく同じだ。
シャクっとアイスをひと口食べたら、またひとつ遠い記憶がよみがえった。
あれは小学三年生くらいの頃。お母さんに怒られて家を飛び出した私は、公園のブランコにひとり座っていじけていた。するとそこに陽太がやってきて、私にアイスを差し出してきたんだ。
「これ、やる」
「え……」
ぼうっとしている私の手に、陽太はアイスの棒を持たせて言った。
「これ食うと頭キーンってして、嫌なこと忘れられるから。食ってみ?」
私は陽太の言うとおりに、ソーダ味のアイスを歯でかじった。
「つめたっ」
顔をしかめた私を見て、陽太が笑った。そしてもうひとつ持っていた自分の分を開けて、それを同じようにかじる。
「つめてー!」
空を見上げて叫ぶ陽太を見たら何だかおかしくなって、いつの間にか気分も晴れていた。
あれから悲しい時や、悔しい時、私はこっそりアイスを食べる。あの日陽太がくれたのと同じ、空の色をしたアイスキャンディーを。
シャクっとアイスをかじる音がする。陽太が顔をしかめて「つめてー」と言う。私の頬が自然とゆるむ。
「やっと笑った」
陽太が私を見てそう言った。
「え?」
「コンビニで見かけた時さ、ものすごく怖い顔してたから」
そう言えば私、あのバカ上司にものすごく腹が立っていたんだ。だから今夜はさっさと家に帰って、アイスを食べて忘れようと思っていた。
「怖い顔にもなるよ。毎日遊ぶことしか考えてなかった、あの頃とは違うんだから」
私の声に陽太は一瞬動きを止め、すぐに小さく笑ってつぶやく。
「……そっか。そうだよな」
陽太が私から視線をそらして前を向く。またアイスをかじる音がする。
そんな陽太の隣で私もアイスを食べた。冷たくて頭がキンッと痛む。
「俺さ、落ち込んだ時とか、時々ここに来るんだ」
突然響いた陽太の声に、私は「えっ」と声を上げてしまった。
「陽太でも……落ち込んだりするの?」
「あたりまえだろ。俺が何にも感じないヤツだと思ってたか」
「思ってた」
陽太が飲みかけのビール缶で、コツンと私の頭を叩いた。
「俺だって落ち込むことあるんだよ。仕事で怒られたり、ミスったり……」
意外だった。私の知っている陽太はいつもへらへら笑っていて、落ち込んでいるところなんて見せたことがなかったから。
私はここでひとり、夜空を見上げて月を探している陽太の姿を想像する。そうしたら昔聞いた陽太の言葉と、陽太のカゴに入っていたアイスを思い出した。
『これ食うと頭キーンってして、嫌なこと忘れられるから』
陽太も嫌なことを忘れたくて、今夜このアイスを買ったのだろうか。
私は隣の陽太に向かって聞く。
「もしかして今夜も……落ち込んでたとか?」
陽太はアイスを片手で持ったまま、もう片方の手でビールを飲んでつぶやく。
「ちょっとだけな」
「なんかあったの?」
少し考えてから、陽太が答えた。
「元カノが……俺の友達と結婚することになった」
私は黙って陽太の顔を見ていた。陽太の口から「元カノ」とか「結婚」とかいう言葉が出ることが、信じられなかったのだ。
陽太は照れくさそうに顔をそむけて、頭をくしゃくしゃとかいた。
「俺が悪いんだ。向こうから告白されてつき合ってみたけど、俺、女の子の言って欲しい言葉とか、してもらいたいこととか、よくわかんなくて……思ってた感じと違うって言われてフラれた」
見た目はいいのに、女の子に関しては鈍かった陽太。陽太を好きだった女の子たちの気持ち全然わかってなかったし、私の想いにもまったく気づかず引っ越してしまった。
あの頃流行っていたカードゲームの、陽太が一番大事にしていたレアカードを私にくれて。
陽太のそんなところ、大人になった今でも変わってないんだ。
「ま、俺の友達いいヤツだからさ。俺といるより、きっと彼女幸せになれるよ」
そう言って「ははっ」と乾いた声で笑う陽太を見たら、胸がちくんと痛んだ。
「陽太だって……いいヤツだよ」
私はチューハイの缶を握りしめてつぶやいた。本当はもっと気のきいたことを言えればよかったんだけど、何も出てこなかった。
「陽太といると、気づかなかったことに気づくことができるんだ。今日だって綺麗な月が出てること、陽太が教えてくれたし。陽太に会わなかったら私、真っ直ぐ家に帰って、嫌なこと忘れるためにアイス食べて寝るだけだもん」
「嫌なこと?」
陽太がこっちを見て聞いた。私は慌てて、笑ってごまかす。
「ああ、私もね、いろいろあって……ムカつく上司とかさ、まぁいろいろ」
そして陽太の持っているアイスを指さす。
「ほら、早く食べないと溶けちゃうよ」
「ああ……そうだな」
私と陽太はアイスをかじる。溶けかけたアイスはべちょっとしていて、なんだかちょっと切なかった。
「あっ!」
その時突然、陽太が声を上げた。
「な、なに?」
「見ろよ、これ! 『一本あたり』だって!」
なんだ、びっくりさせないでよ。
「やっぱ今日はラッキーな日だ」
私は隣の陽太を見る。陽太は私を見て、嬉しそうに目を細める。私はちょっとあきれて、でもちょっと幸せな気持ちになる。
「よかったね。陽太」
私たちのまわりの桜の木に、やわらかな月明かりが差していた。陽太はすっと立ち上がると、公園の隅にある水道に行き蛇口をひねった。そこで何かを洗って、また私の前に戻ってくる。
「これ、菜月にやるよ」
私の前に差し出された、『あたり』の棒。
「え、なんで?」
「菜月のおかげで元気出たから」
私は何にもしてないのに……そう思いながら、陽太からあたり棒を受け取る。
「ねぇ、陽太」
ベンチから立ち上がり、私は聞いた。
「ご飯は食べたの?」
「ん? まだだけど。なんとなく食欲ないから、今夜はこれだけでいいかなって……」
私はそんな陽太の前で笑顔を見せる。
「ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ。そうだ、今から一緒にご飯食べに行こう! 明日は休みでしょ?」
そう言って陽太の胸をポンッと叩く。陽太はちょっと戸惑ったあと、すぐに笑って言った。
「しょうがねぇなぁ。つきあってやるか」
私の大好きだった陽太の笑顔が、目の前に見える。
あの日、泣きながら机の引き出しにしまった、陽太からもらったレアカード。そのカードと一緒に閉じ込めた、陽太への想い。今夜その引き出しを、少しだけ開けてみようか。
「お前の『いろいろあって』も聞いてやるよ」
「十五年分、聞いてもらうからね」
そう、陽太に聞いて欲しいこと、聞きたいこと、たくさんあるんだ。
明日は土曜日。仕事はお休み。今夜は十五年分、話そうよ。
空き缶の入ったコンビニ袋をぶら下げて、私たちは歩き出す。
空の上には明るい月。並んで歩く私たちを照らしている。
やっぱり今日はラッキーだ。
お月様を見上げて、私は心の中でつぶやいた。




