秋の虹立つその下を
先輩と並んで歩くのは、今でも恥ずかしい――付き合い始めたばかりの高校生の、じれじれ、むずむずするようなお話。
先輩と並んで歩くのは、今でも恥ずかしい。
心臓がドキドキして、顔が熱くなって、何も話せなくなる。
だけど隣を歩く先輩は、いつだって涼しい顔をしていて、こういうの慣れてるのかな、なんて思う。
そんなこと、怖くて聞けないけど。
わたしはまだ、湊先輩に聞けないことが、たくさんある。
***
「はぁ……」
一年生の教室の、一番窓際の席で、わたしは今日何回目かのため息をつく。
窓の外はひんやりとした雨が降り続いていて、ついこの間まで真夏日だとか熱中症対策だとか騒いでいたのが、まるで嘘のように思えてしまう。
「なにため息なんかついてんのよ、虹子」
のろのろと帰り支度をしていると、芽衣ちゃんにぱしっと背中を叩かれた。
芽衣ちゃんは、小学校からずっと一緒の友達だ。
ちょっと空想癖があって、ぼーっとしていることが多いわたしと違い、明るくて、行動力あふれる芽衣ちゃん。
わたしとは正反対な性格だけど、芽衣ちゃんはいつもさりげなくわたしを助けてくれて、わたしにとって一番安心できる存在だった。
「湊先輩の彼女になれたっていうのに、あんたなにが不満なのよ」
「だってぇ……」
サッカー部の男の子たちが、騒ぎながら教室を出て行く。バスケ部の女の子たちが、「芽衣ー」なんて呼んでいる。
「ほら、ぐずぐずしてないでさっさと帰りな。先輩が待ってるんでしょ?」
芽衣ちゃんは小学生の頃と同じように、わたしを無理やり立ち上がらせ、リュックを背中に背負わせた。
「はい。それじゃあ、また明日。湊先輩によろしくね!」
そう言ってぽんっとリュックを叩くと、芽衣ちゃんはバスケ部の友達と一緒に教室を出て行った。
「はぁ……」
わたしはまた小さく息を吐く。窓の外はまだ、雨が降り続いていた。
芽衣ちゃんの言う通り、なにが不満なのかと思う。
いや、不満なんか全くない。
だってずっと憧れていたバスケ部の湊先輩と、付き合えるようになったんだから。
先輩のことを知ったのは、高校に入学してすぐの頃。
バスケ部の芽衣ちゃんに、「カッコイイ先輩がいるから見においでよ」と誘われて、あまり気が進まないまま、重い足を体育館へ運んだ試合の日だ。
一年生は試合に出られず、わたしと一緒に見学していた芽衣ちゃんは、茶髪でちょっとチャラそうな大地っていう先輩を指さして騒いでいたけど、わたしが目で追っていたのは別の先輩だった。
「え、虹子。湊先輩のこと気に入ったの?」
試合が終わったあと、体育館の外で、芽衣ちゃんが目を丸くしてわたしに言った。
あんまり芽衣ちゃんが大地先輩のことを絶賛するから、「わたしは違う先輩のほうがカッコイイと思う」って言っただけなのに。
「気に入ったとか……そんなんじゃないよ」
「めずらしいね。虹子が男の人のこと、カッコイイって言うなんて。あー、でも確かに、虹子は湊先輩のほうが気に入りそうな気がするわ。大地先輩と違って、大人っぽくて落ち着いてるもんね」
そうひとりで納得したあと、芽衣ちゃんはとんでもないことを口にした。
「話してみる? 湊先輩と。呼んであげるよ?」
「えっ、やだ。冗談でしょ? だってわたし部外者だし」
「大丈夫、大丈夫。うちの先輩たち、みんなフレンドリーだから。わたしの友達って言えば、全然だいじょうぶ」
そう言うと芽衣ちゃんは、さっそく手を高く上げて「湊せんぱーい!」って呼んだ。
少し遠くでバスケ部の人たちと話していた先輩は、その声に振り向いて、真っ赤な顔をしているわたしのことを黙って見た。
その日、芽衣ちゃんに強引に紹介されて、わたしは湊先輩と知り合いになった。
といっても、学年も部活も、先輩とは全く接点のないわたし。
たまに芽衣ちゃんに誘われて、バスケ部の人たちやその友達と、わいわい遊ぶ仲間に入れてもらっても、先輩と話す話題なんて何もない。
わたしは大勢の人たちの中で、遠くから先輩のことをそっと見ているだけだった。
「そんなに好きなら告っちゃえば?」
わたしがいつも先輩のことを目で追っていることに気づいて、芽衣ちゃんがそう言ったのは夏休みの初め。
「えっ、そんなの無理だよ。だいたいわたし、先輩とは、ほとんどしゃべったこともないし……」
「でももしかしたら、うまくいくかもしれないじゃん? 湊先輩って、彼女いないでしょ?」
それは知っていた。
バスケの試合中はしつこいくらい攻めていくくせに、普段は口数が少なくておとなしいことも。
それなのに男友達も女友達もたくさんいて、いつも誰かに声をかけられていることも。
その中でも幼なじみの大地先輩と、一番仲がいいことも。
クールなのに、時々くしゃっと笑った顔がカワイイことも。
「今度みんなで海行くんだ。虹子もおいでよ」
「えっ、でも……」
「チャンスがあったら告っちゃいな、湊先輩に。ねっ?」
そんなこと、できるわけないと思っていた。
告白どころか、先輩とは話をすることさえできなかったのに。
ただ、もしわたしが告白したらどうなるのかな、なんて、夜寝る前に想像したりはしたけれど……。
海で一日中遊んだあと、みんなでバス停へ向かう途中、偶然先輩とふたりきりになった。
荷物を片づけていたら遅くなってしまって、慌てて芽衣ちゃんたちを追いかけようとしたら、先輩が待っていてくれたのだ。
「すみません! 遅くなって」
「いいよ」
ひとことだけそう言うと、先輩はわたしが持っていた荷物をちらりと見た。
「持つよ。それ」
「えっ」
中に入っていたのは、みんなで使った浮き輪やレジャーシートなんかで、たいして重くはなかったんだけど、小柄なわたしが持つと大荷物に見えたのかもしれない。
「だ、だいじょうぶ……」
そう言いかけたわたしの腕から、先輩は荷物を奪って肩にかけると、何も言わずに歩き出した。
「あ、ありがとうございます」
消えそうな声でそれだけつぶやいて、わたしは先輩のあとを追いかける。
前のほうを歩く、みんなの笑い声が遠く響く。
空は夕焼け色で、海も同じ色に染まっていて。どこか物悲しいのに、肌にまとわりつく空気はじっとりと湿っていて。
少し前を歩く先輩の背が、すごく高いことにいまさら気づいて。
でもわたしとの距離が開かないように、ゆっくり歩いてくれているのもわかって。
どうしてだかわからないけど――すごく泣きたくなった。
「湊……先輩」
目の前の背中に声をかける。
「わたしと……付き合ってくれませんか?」
そんなこと、言うつもりはなかったのに。言う勇気も、なかったはずなのに。
ああでも、何度か空想していたシチュエーションと、いまここにある現実が微妙にクロスして、わたしの頭の中がごちゃまぜになってしまったのかもしれない。
立ち止まった先輩が、ゆっくりと振り返ってわたしを見た。
その時の先輩の驚いた顔を見て、わたしはすぐに我に返った。
「ご、ごめんなさい! なんでもないです! いまの聞かなかったことにしてください!」
慌てて頭を下げたわたしの耳に、低い声が聞こえた。
「……いいよ」
下げた頭を、静かに持ち上げる。
「いいよ。付き合っても」
夕陽に染まった先輩の表情がどんなだったか、わたしは今でも思い出せない。
雨で濡れた窓を横目に廊下を歩き、数人の生徒とすれ違いながら階段を降りると、昇降口が見えた。
その隅に立っている男の人に、ふたりの女の人たちが話しかけている。バスケ部の三年生の先輩たちだ。少し何か話して、笑い合ったあと、女の人たちがわたしに気づき、手を振って去って行った。
わたしはまた小さく息を吐く。そして何事もなかったような顔をして、靴を履きかえる。
外は細かい雨が降っていた。
なんでだろう、気が重い。二学期が始まってから、特に。
熱に浮かれていたような暑い夏は、もう終わってしまったのだ。
「ごめんなさい。遅くなって」
先輩の前に立ってそう言った。
「おれも、今来たところだから」
先輩はいつもそう言ってくれる。
「帰ろうか」
「……はい」
ふたり並んで、雨の中に傘を広げる。わたしの水色の傘と、先輩の黒い傘。
夏に部活を引退した先輩と、帰宅部のわたしは、二学期になってからこうやって毎日駅まで歩く。
びしゃびしゃと水たまりを踏みつけた。
ちらりと視線を斜め上に向けると、先輩は前をまっすぐ見つめていた。
こんな雨の日。わたしたちの並ぶ距離は、いつもより少し遠い。
けれどわたしはそれに、なぜかほっとしている。
先輩と話をするのも、こうやってふたりだけで歩くのも――うれしくて幸せなはずなのに。
あの海のあと、いつものメンバーで集まって、何度も遊んだ。みんなにひやかされて、わたしたちは『公認カップル』なんて言われるようになった。
だけど先輩に近づけば近づくほど、恥ずかしくてドキドキして。でもふたつ年上の先輩にとっては、何でもないことのような気がして。こんなわたしは、いつか嫌われてしまうんじゃないかって……わけもなく怖くなってしまうのだ。
降り続く雨の音のせいか、ふたりの間を遮る傘のせいか、いつもよりもさらに先輩と話せないまま駅に着いた。
この駅の改札で、先輩と別れる。先輩とわたしは、反対方向の電車に乗るから。
「日曜日」
別れ際に、突然先輩が言った。
「行く?」
そう言えば芽衣ちゃんから、日曜日にみんなで遊園地に行かないかと誘われていたことを思い出す。
「あ、えっと、遊園地ですよね……どうしよう……」
実は遊園地の絶叫マシンが、わたしはめちゃくちゃ苦手なのだ。
「おいでよ。大地がきっと喜ぶよ」
その言葉に、なんだか複雑な気持ちになる。
「じゃあまた明日」
「はい」
先輩が軽く手を上げて、わたしも小さく手を振る。
ホームに向かって歩きながら、一度だけ振り返ると、人ごみの中に消えていく先輩の背中が見えて、なんだかちょっと寂しくなった。
「虹子!」
気持ちのいい、秋晴れの日曜日。遊園地のベンチに座るわたしの肩を、芽衣ちゃんがぽんっと叩く。
「またひとりでぼーっとしてる」
「え、そんなことないよ?」
「もっと湊先輩とべたべたしちゃいなよ。あんたたち付き合ってるんだからさぁ」
芽衣ちゃんの声を聞きながら、わたしは先輩の姿を目で追いかける。
先輩は他の人たちとしゃべっていた。わたしは朝から一度も先輩としゃべっていない。
「だいじょうぶ。他のみんなと楽しんでるのに、わたしが邪魔しちゃ悪いもん」
「邪魔って……あんた彼女でしょ? 遠慮することないって」
彼女――なのかな……。
海に行ったあの日。成り行きでそうなってしまったけれど、先輩は後悔していないだろうか。わたしがあんなことを言ったから、わたしに悪いと思って、先輩は「いいよ」なんて答えてしまったんじゃないだろうか。
胸の奥がもやもやする。もやもやするのに、わたしはそれを口に出せない。
それを口に出したら……きっとわたしは嫌われてしまう。
「芽衣ー、あれ乗らね?」
芽衣ちゃんとベンチに座っていたら、大地先輩が一番怖そうなジェットコースターを指さしながら声をかけてきた。
「乗るっ! 乗りたいっ!」
「じゃあ他のヤツらも呼んで来い! みんなで乗るぞ!」
「了解ですっ」
すくっと立ち上がり、あっという間に走って行ってしまう芽衣ちゃん。芽衣ちゃんは絶叫系が大好きなんだ。
「虹子ちゃんも乗ろうよ」
「いえっ、わたしは……」
「大丈夫、みんなで乗れば怖くない。行こう、行こう」
大地先輩がわたしの手をつかんで、立ち上がらせた。わたしはその手に、引きずられるように歩き出す。
「あのっ、でもわたし……」
あせるわたしに背中を向けたまま、大地先輩がつぶやく。
「なぁ、虹子ちゃんと湊って、どこまでいったの?」
「えっ」
思わず足を止めると、大地先輩も立ち止まって振り返った。
「キスぐらいはした?」
途端に顔が熱くなって、わたしは首を思いっきり横に振る。
「じゃあ手をつなぐくらいはした?」
もう一度首を振ると、大地先輩があきれたように空を仰いだ。
「マジかー。いや、湊ってさ。意外とモテるくせに、ものすごく奥手っていうか。だいたい今まで女と付き合ったことないし、虹子ちゃんとデートしてる気配もないし。だいじょうぶなのかなーって、幼なじみのおれとしては心配になっちゃったわけで」
大地先輩に手を握られたまま、わたしは呆然としていた。
だって湊先輩は、わたしと違うと思っていたから。誰かと付き合うのだって、わたしと違って、はじめてじゃないって思っていたから。
ただそれは、湊先輩に聞いたわけじゃなくて、わたしの勝手な思い込みなんだけど。
「なにやってんだよ」
そんなことを思っていたわたしの耳に、もう聞き慣れた声が聞こえた。
「なにやってんだよ、大地」
目の前に立つ湊先輩は、怒った顔をしていた。
「あれ、湊いたの? 今、虹子ちゃんとジェットコースター乗ろうと思ってさ」
「おれたちは乗らない」
そう言って、湊先輩の手がわたしの手をつかんだ。そしてわたしを大地先輩から引き離すと、その手を引っ張るようにして歩き出した。
「先輩……」
先輩がどんどん歩いて行く。ジェットコースターとは反対方向へ。わたしの手を強く握ったまま。わたしはその速度について行くのがやっとだ。
わたし、先輩のこと怒らせちゃった? わたしがぐずぐずしていたから?
「先輩っ」
もう一度わたしがそう呼んで、先輩が立ち止まったのは、さっきいた場所からかなり離れた、丘の上の観覧車の前だった。
「嫌なら断れよ」
「え……」
「怖いの嫌なら、ちゃんと断れよ」
ぼそっとそう言った先輩が、ゆっくりとわたしに振り返った。先輩はもう、怒った顔をしていなかったけど、なんだか困ったような顔をしていた。
「あ、ご、ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃなくて。ちゃんと言いたいことは言ったほうがいいってこと」
そう言ったあと、先輩は気まずそうに下を向いた。その視線の先には、しっかりとつながったわたしと先輩の手。
いまさらながらそれに気づいて、わたしはどうしようもなく恥ずかしくなる。
「ごめん」
先輩がぱっと手を離した。行き場のなくなった手に、まだぬくもりが残っている。
――じゃあ手をつなぐくらいはした?
さっき大地先輩から聞いた言葉を思い出す。
――湊ってさ。意外とモテるくせに、ものすごく奥手っていうか。
もしかして先輩も、恥ずかしいと思っているの? 嫌われるのが怖いと、思っているの?
「あの……」
顔をそむけてしまった先輩に伝える。
「嫌じゃないです」
ゆっくりと先輩がわたしの顔を見る。
「わたしはこういうの……嫌じゃないです」
かすかに震える手を伸ばした。わたしから握った先輩の手は、大きくてあたたかい。
「あー!」
突然先輩が声を上げた。びっくりして離そうとした手を、ぎゅっとつかまれる。
「ダメだ。おれ。また先越された」
「な、なにをですか?」
わけがわからなくて先輩を見上げる。先輩は片手で頭をくしゃくしゃとかき回している。
「ダメだな。言いたいことはちゃんと言えなんて、偉そうなこと言っといて。言えないのはいつもおれのほうなんだから」
「先輩?」
気まずそうな表情の先輩がわたしを見る。握った手はそのままで。
「海に行ったあの日」
わたしは心臓をドキドキさせながら、先輩の声を聞く。
「ほんとうは言おうと思ってた」
「なにを……ですか?」
夕陽色の空。それを映した海。少し前を歩く先輩の背中。思い出すと胸が苦しくなる。
「おれと付き合ってって、言おうと思ってたんだ」
風が吹いて、わたしの髪を揺らした。夏とは違う、乾いた風。空もあの頃よりも高くて、季節は確実に移り変わっている。
そしてわたしと湊先輩も――その日から少しずつ、変わりはじめた。
「もー、虹子ってば。昨日どこに行っちゃったのよ?」
翌朝、いつもの教室のいつもの席で、芽衣ちゃんに声をかけられた。
昨日の秋晴れは一転して、今日は朝から曇り空だ。
「あ、ごめんね。湊先輩と観覧車乗ってるうちに、みんなとはぐれちゃって……」
「まぁ、そんなこととは思ってたけど。先輩と消えるなら、一言くらい言ってってよね」
「ごめん」
「いいよ。実はわたしもあのあと、大地先輩とジェットコースター乗っちゃったし」
芽衣ちゃんがそう言ってにやっと笑う。
「え、ほんと? よかったね!」
「まあねー。わたしも虹子を見習って、勇気を出して告ってみようかなぁ」
教室が少しずつ騒がしくなる。今日も普段と変わらない一日がはじまる。
窓の外は白く霞んでいて、重苦しい雲から、雨がぽつりと落ちてくるのが見えた。
放課後。わたしは帰り支度をして教室を出る。朝から降り出した細い雨は、まだしとしとと降っている。
早足で廊下を歩き、階段を駆け下りると、昇降口に立つ湊先輩の姿が見えた。
先輩は大地先輩と話していた。わたしが黙って靴を履き替えようとしたら、耳に先輩の声が聞こえた。
「虹子!」
名前を呼ばれて、心臓がドキンと音を立てる。息を深く吸ってそれを吐いて、ゆっくりと顔を上げる。
湊先輩はニヤニヤしている大地先輩に、「じゃあな」って手を振って、わたしのそばに駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、先輩。遅くなって」
「おれも今来たとこ」
そう言って先輩が、わたしの前でほっとしたように笑った。それを見たら、わたしもやっぱりほっとした。
「帰ろうか」
「はい」
わたしたちは並んで傘を開く。大地先輩の、ひやかすような声を背中に聞きながら。
昨日、観覧車の中で、先輩はわたしにたくさん話してくれた。
はじめて会った日から、わたしのことが気になっていたこと。
告白しようと思っていたのに、わたしに先を越されて戸惑ったこと。
だけどすごく嬉しくて、でもそれを上手く伝えられなかったこと。
わたしといると緊張してしまって、全然話せなかったこと。
嫌われたらどうしようと思って、いつも怖かったこと。
「わたしと……同じだ」
思わずつぶやいてしまったわたしの前で、先輩は照れくさそうに笑った。
止みそうで止まない雨の中を、先輩と並んで歩く。
それは今でも恥ずかしくて、ドキドキしてしまうけど、先輩も同じなんだってわかったから、少しだけ心が軽くなった。
「あのさ」
そんなわたしの隣で先輩がつぶやく。
「昨日約束したよね」
「え?」
「敬語やめるのと、お互い名前で呼び合おうって」
「あ……」
途端にまた恥ずかしくなる。そう言えばさっき、先輩はわたしの名前を呼んでくれたっけ。
「呼んでみてくれないかな。おれの名前」
「そんなこと、急に言われても……」
「おれもがんばったんだからさ」
傘の陰から、ちらりと斜め上を見上げると、わたしを見ている先輩が、恥ずかしそうに視線をそらした。
「じゃあわたしも……がんばってみます……」
立ち止まり、すうっと深呼吸をする。その隣で、先輩が待っている。
男の子と付き合うって、こんなに緊張するものなのかな? 付き合ったことがないから、わからないけど。
「湊……くん」
消えそうな声でつぶやいて、恐る恐る顔を上げた。湊……くんは、ちょっと驚いた表情をしたあと、くしゃっとわたしの前で笑った。
「すっげぇ、うれしい」
「ほんとに?」
「うん!」
湊くんが笑っている。それが嬉しくてわたしも笑う。
こんなふうに笑い合ったのなんて、はじめてだ。
こうやってわたしたちのはじめてが、きっと少しずつ増えていく。
「あれ」
ひとしきり笑ったあと、湊くんが傘をどかして空を見上げた。
「雨、止んでる」
わたしも傘を下ろして、空を見る。
いつの間にか明るくなった空から、淡い日差しが降り注いでくる。
「あ、見て。あれ!」
空を見上げて指を指す。濡れた校舎の向こうに、うっすらと儚げな虹が架かっている。
「虹だぁ」
傘を閉じ、ふたり並んで空を見上げた。
そう言えば小さい頃、お母さんから聞いたことがある。夏の虹はくっきりと大きく空に架かるけど、秋の虹は色も薄くて消えやすいんだって。
その話を聞いた時、なんだか寂しくなったことを思い出して、またちょっと寂しくなる。
「おれさ」
だけどそんなわたしの隣で湊くんが言う。
「はじめて会った時から思ってたんだよね。『虹子』ってきれいな名前だなぁって」
わたしはゆっくり隣を見る。空を見ていた湊くんは、わたしに視線を下ろし、恥ずかしそうにつぶやく。
「『虹子』って、きれいな名前だね」
じわじわと込み上げてくる、このうれしさは何なんだろう。
ああ、そうか。わたし湊くんのこと、好きなんだ。
「ありがとう。すごくうれしい」
わたしの隣で湊くんも、うれしそうに笑った。
「ん」
わたしの前に差し出された手。わたしはちょっと戸惑いながら、そっとその手に触れる。
すると湊くんの大きな手が、わたしの手をふんわりと包み込んだ。
「今度さ」
手をつないだ湊くんが、歩き始める。わたしのペースに合わせて、ゆっくりと。
「ふたりだけでどこか行こうか」
「うん」
つながった手があたたかい。
「虹子は……どこに行きたい?」
少し考えてわたしは答える。
「海がいい」
キラキラした夏は、もう終わってしまったけれど。少しだけ変わったわたしと湊くんで、澄んだ秋空の下を歩いてみたい。
「いいね。今度行こう」
雨上がりの道をふたりで歩く。
並んで歩くのはまだ恥ずかしいけど、もう怖くはない。
こうやって少しずつ進んでいければいいと思う。
真夏のキラキラとした太陽の下も。
しとしとと降り続く雨の中も。
儚げに架かる虹の下も。
わたしの隣を歩く、湊くんと一緒に。