二段差の恋
クラスで一番ちっちゃなあの子と、僕の身長差は三十センチ以上。いつも斜め下にいるあの子のことが、僕は気になって仕方ない。
『羽ケ崎こお』は、クラスで一番小さな女の子だ。
身長が低い上に童顔で、声が高い。顔も手も足もすべてミニサイズ。制服の胸元についたリボンが、やけに大きく見えたりする。
だからこおは、高校生なのに中学生、さらには小学生と間違えられたこともあるらしい。最近の女子小学生は、ずいぶん大人びているからな。
そんなこおのことを、「可愛い」っていう男子もけっこういる。実際こおは黙っていれば可愛いし、僕だって初めて彼女を見た時は、「なんて可愛らしい女の子なんだ!」と思ったものだ。
だけどそれはあくまでも、こおが「黙っていれば」の話。
「木下」
僕の背中に、あの高い声がかかる。
教室を出ようとした足を止めて振り返ると、いつものように僕の視線の斜め下にこおがいた。
「な、なんだよ?」
こおが小さな右手を広げ、ずいっとそれを伸ばし、僕のことを上目遣いで見上げる。そう、僕とこおの身長差は三十センチ以上はある。
「お金」
「え?」
「クラTのお金。あんたまだ出してないでしょ?」
ああ、文化祭で着るクラスTシャツの。そういえば今日までに持って来いって言われてたっけ。
僕はお尻のポケットから財布を取り出し、中身をのぞく。だけど中にあるのは数枚の十円玉だけ。
「ごめん。忘れた」
「もうっ! どうしてあんたはいつもそうなのよ! 今日までって言ったでしょ!」
「だから、ごめんって……」
「明日絶対持って来てよ! 忘れたら承知しないからね!」
怒鳴るようにそう言って、こおはぷいっと僕から顔をそむけ去って行く。
そんなに怒鳴られるほど、悪いことはしてないと思うんだけど。
ざわつく教室の中、こおの華奢な背中を目で追いかける。
こおは前の方の席に座る男子生徒のところに行き、さっきと同じように右手を出した。
だけどそいつもお金を忘れたようで、こおに向かって両手を合わせ「悪いっ」なんて、へらへら笑いながら言っている。
するとこおは、「もうっ」と軽く一言言ったあと、なにやらそいつと話し始めた。時々笑顔なんか交えながら。
おいっ、そいつには怒鳴らないのか? ずいぶん対応が違うじゃないか!
そう突っ込みそうになるのをぐっと抑え、代わりに小さなため息をつく。
こおは僕に冷たい。小学校の頃からずっと。
僕がこおに嫌われている理由はわかっている。あれは小学四年生の時、僕はこおと初めて同じクラスになり、席も隣同士だった。
だけど実はその前から、僕はこおのことを知っていた。廊下や校庭でこおのことを見かけるたび、「ちっちゃくて可愛い子だなぁ」なんて、密かに想っていたから。
けれどその頃の男子にありがちな、「気になる子をいじめてしまう」という行動を、僕も彼女に対してしてしまったのである。
「木下。また教科書忘れたの?」
「うるさい、チビ」
「木下。ちゃんと先生の話、聞いてる?」
「うるさいなぁ、チビのくせに」
アホでガキだった僕は、何かにつけてバカの一つ覚えみたいに、こおのことを「チビ」と言った。そのたびに、ぶすっと不満そうに口を尖らせる、こおの顔が可愛かったから。
だけどそのせいで僕はこおに嫌われた。
中学時代は、たまに目が合うたびに顔をそむけられ、完全無視。
偶然同じ高校の同じクラスになってからは、少しは口をきいてくれるようになったけど、僕はいつだって怒鳴られっぱなしだ。
でも仕方がない。こおを怒らせたのは、この僕なんだから。
昼休み、机に座ったまま、ぼんやりとこおの姿を目で追いかける。
数人の女子生徒の輪の中で、楽しそうに笑っているこお。
人の陰に隠れてしまうほど小さなその体を、僕は教室のどこからでも見つけられるようになっていた。
やがてその輪の中に何人かの男子が入り込んできた。クラスの中でも割と目立っている、派手なやつらだ。
その中の一人がこおに話しかけ、何やら笑い合ったあと、その手でこおの頭をぽふぽふとなでた。
「なっ、なんだよっ! あれっ!」
思わず席を立ち、心の叫びを本当に口に出してしまった僕は、傍から見たら十分挙動不審だっただろう。
「どした? 木下?」
隣の席でのんびりと弁当を食べていた拓哉が、箸を口にくわえたまま、不思議そうに僕を見上げている。
「あ、いや。なんでもない」
そうつぶやいて、逃げるように教室を出た。
なんなんだよ、なんなんだよ、あれ。なんであいつあんなふうに馴れ馴れしく、こおの頭触ってんだ?
その言葉を頭の中で繰り返しながら、階段を降り、一階の渡り廊下にある自動販売機の前に立つ。
湧き上がる怒りを鎮めるため、ジュースでも買おうと財布の中をのぞいたけれど、中に入っているのは十円玉だけ。
「なんなんだよっ!」
財布をひっくり返したら、十円玉がチャリンと落ちて、その脇を通り過ぎる二人組の女子が、不審者でも見るような目つきで僕のことを見た。
「はぁっ……」
足元に落ちた十円玉をこそこそと拾い、そばにあったベンチに一人で腰かける。
もう一度大きく息を吐き、頭の中を整理する。
どうしてこんなにイライラするのか。その理由はわかっている。
僕もあんなふうにしたいのだ。
こおと普通に話して、笑い合って、そばに寄って、この手であの柔らかそうな髪をなでて……。
そんなこと、できるはずもないのに。
昼休み終了のチャイムが鳴った。
だけど僕はその場に座ったままだった。
こんなにも情けない自分が、許せなかったから。
結局渡り廊下のベンチに座ったまま、五時間目が過ぎた。
再び休み時間になって、僕はやっと立ち上がる。
ざわつく校舎に入り、自分の教室へ戻ろうと階段をのぼっていたその時、僕の頭の上から、聞き慣れた声が降ってきた。
「木下!」
階段をのぼる足を止め、うつむいていた顔を上げる。
「えっ」
こおの顔が僕の目の前に見えて、ばっちり視線が合う。こおは僕より二段上に立っていた。
「五時間目さぼって、どこ行ってたのよ?」
こおが怒ったような声で言う。
「あ、えっと、渡り廊下で座ってた」
「もうっ。あんたってどうしていつもそうなの?」
そう言ったこおが、僕の前でため息をつく。
「どうしていつもあたしに、心配かけるのよ? 体ばっかり大きくなっても、中身全然変わってないね?」
心配? こおは僕のことを、心配してくれていたのか?
こおがすっと僕から視線をそらす。せっかく合った視線が、僕からまた離れていく。
だめだ。だめだ。このままじゃ、だめなんだ。
「こおっ、あのさっ」
ざわざわとした話し声や、笑い声が聞こえてくる。休み時間はもうすぐ終わる。
「す、好きなんだ!」
僕の声と重なるチャイムの音。聞こえたかな? 今の言葉。もし聞こえていなかったら……もう一度言う勇気は僕にはない。
顔をそむけていたこおが、ゆっくりと僕を見る。僕もそんなこおのことを、黙って見る。
見上げるのでも、見下ろすのでもなく。僕たちの視線が、真っ直ぐ重なり合う。
バタバタと何人かの生徒が階段を駆け上ってきた。
僕とこおの視線がはずれ、さりげなく生徒をよけたら、壁に背中をつけるように二人が並んだ。階段の二段差は変わらないまま。
ああ、なんだろう、この距離感。
そうか、小学生の頃、机をくっつけ合って座っていた、あの時の距離感だ。
「今の……聞こえた?」
壁際に立ったまま、勇気を振り絞って、隣に立つこおに聞く。だけどこおは何も答えない。
お願いだから、何か言ってくれよ。いつもみたいに怒鳴ってくれよ。心臓が、今にも張り裂けそうに痛い。
「……たしも」
生徒たちの声が遠ざかり、階段がしんと静まり返った頃、やっとこおの声が聞こえた。
「あたしも……木下のこと、好きだよ」
僕は驚いてこおを見る。そんな答え、想像もしていなかったから。
こおはほんのり頬を赤くして、隣に立つ僕だけを見て、恥ずかしそうに微笑んだ。
教室へ戻ると、僕とこおは何事もなかったかのように席に着いて授業を受けた。
教壇に立つ先生の声を聞き流しながら、僕は窓際の席に座るこおの横顔を眺める。
小学生の頃、わざといじめて、口を尖らせたこおも可愛かったけど、さっき見た控え目な笑顔はもっと可愛かった。
僕はずっと、こおのあんな笑顔が見たかったんだ。僕だけに向けられる、こおのあんな笑顔を。
「木下!」
翌朝、教室に入った僕に、いつもの高い声がかかる。
「持ってきた?」
「え、何を?」
「クラTのお金!」
「あっ」
目の前に立ったこおが、あきれた顔で僕のことを見上げている。
昨日はずっと、君のことを考えていて、それどころじゃなかったんだ、なんてまさか言えない。
「もうっ、いい加減にしてよね! あんただけだから、まだ持って来てないの」
「ごめん」
こおがぷいっと僕から顔をそむけ去って行く。ああ、またこおを怒らせてしまった。
あんなことがあっても、僕とこおは何も変わらない。
昨日はちらちらとお互いを気にしつつも、別々に帰ったし、僕はこおのアドレスも電話番号も知らない。
お互いの気持ちを伝え合っても、その次に何をしたらいいのか、わからないのだ。情けないことに。
「なーんかさ、小学生に怒られてるみたいだな? お前」
しょぼんとしている僕を拓哉がからかう。
するとそんな僕の前に、再びやってきたこおが、財布からお札を取り出しながら言った。
「しょうがない。あたしが木下の分、立て替えといてあげるから」
「え? そんな、悪いだろ?」
「大丈夫。その代わり今度、駅前のアイス屋さんでアイスおごって。ダブルでね?」
なんだそれ。でもそれって……まさかデートってやつなのか?
「わ、わかった。明日必ず金返す。そんでアイスもおごる」
こおが僕を見上げて、にこっと笑い、自分の席に帰って行く。
この笑顔はもう、僕だけのものだと思っていいんだよな?
窓際の席に座る、こおの小さな背中を目で追った。
「お前ら、付き合ってんの?」
拓哉が不思議そうな顔で聞く。
「よくわかんないけど……そうかもしれない」
「はぁ?」
明日こそはちゃんとお金を持って来よう。そしてこおとアイスを食べに行こう。
またあの笑顔が見られるのなら、僕はアイスをいくらでもおごってあげる。
なんて、お金もないのに考えている僕は、きっと今、クラスで一番の幸せ者に違いない。