空に吐く
玄関の扉を閉めた瞬間、家の空気にひそんだ緊張がわずかに揺れた。
冬の夕方特有の冷たさが廊下に淀み、リビングの明かりの向こうで母の声がした。
「ねえ、進路のことでちょっと話せる?」
それだけでわかった。
今日も“選ぶふりだけの相談”が始まるのだ。
鞄を置いてリビングに入ると、テーブルの上に二冊の冊子が置かれていた。
ひとつは大学。
もうひとつは専門学校。
それだけで、話の流れがほとんど見えてしまう。
母は大学のパンフレットを指で軽く押しながら言った。
「大学と専門学校があるけど、あなたはどう思う?」
言葉の表面だけ見れば選択肢を並べているように見えた。
けれど声の温度は、すでに大学のほうに傾いている。
「お母さんはね、大学に進んだほうが将来困らないと思うの」
そう言いながら、大学の冊子だけが母の手元に引き寄せられていく。
僕は専門学校の方の冊子を開いた。
そこには目指してみたい分野があり、実習の写真が並んでいる。
授業の内容も、将来の働き方も、ここで学ぶ気持ちはたしかにあった。
だから正直に言った。
「専門のほうが、自分には向いてる気がするんだよ。技術を身につけたいし」
母はすぐさま言葉をかぶせてきた。
「え?どうして?」
その“なぜ”は理解するためではなく、説き伏せるための“なぜ”だった。
「専門学校って、就職の幅が狭くなるじゃない」
「大学を出ておけば後悔しないし、視野も広がるのよ」
「それに、専門学校って途中で辞めたくなっても選択肢がないじゃない」
僕の言葉は、返される前に方向を修正される。
僕の理由は、反論のための材料になる。
「でも専門はさ」と僕が言うと、母の「でもね」がそれより速く被さる。
僕の意見は母の“正しさ”の前で形を失っていく。
母は話し合いをしているつもりなのだろう。
僕の意見を聞こうとしているつもりなのだろう。
でも、その聞き方は“あなたの考えを尊重するね”ではなく、
“あなたが自分で大学を選んだ形にしてあげるね”に近かった。
母の言葉は止まらない。
「大学を出ておけばね、選べる未来が全然違うのよ」
「就職も待遇も、全部違うの」
「だからあなたのために言ってるのよ」
そのたびに、専門学校という可能性は曖昧な未来の欠片みたいに扱われ、
最初から正解ではなかったみたいに薄れていく。
僕がどれだけ説明しても、母は必ず大学のメリットを重ねていく。
次第に、専門の冊子はテーブルの端で閉じられたまま動かなくなった。
最後には母が静かに、決まったような声で言う。
「やっぱり大学がいいわね。あなたもそのつもりでしょ?」
言ってない。
そんな言葉、一度も言っていない。
けれど母の中では、もう“僕の決定”になっている。
「あなたが決めたことだからね」と念を押される。
僕は口を開こうとして閉じる。
何度繰り返しても、この構図は変わらないのだと思い知らされる。
夜、自分の部屋で天井を見上げながら考えた。
どうして僕の意見は、いつも途中で奪われるのだろう。
どうして母の安心のための選択に、僕が同意したように扱われるのだろう。
どうして“相談”と呼ばれる時間が、こんなにも息苦しいのだろう。
次の日も、母は大学の資料を僕の机に置いた。
「調べておいたわよ」
「ほら、この大学なんてどう?」
「あなたの将来のためだからね」
専門学校の資料は押し出されるように隅へ追いやられ、
まるで最初から存在しなかったかのようになっていく。
そのとき、喉の奥に何か引っかかっているような感情が、はじめて形になった。
「……今日はちゃんと、僕の話も聞いてくれる?」
その言葉を言った瞬間、部屋の空気がふっと静まった。
母がどう返すかは分からない。
でも、長いあいだ飲み込んできた思いが、ようやく言葉になった気がした。
進路そのものよりも、
“自分の意見が存在してもいい”と感じられる時間のほうが、
僕にはずっと必要だったのだ。
そのことに、やっと気づけた気がした。




