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空に吐く

作者: P4rn0s
掲載日:2025/11/16

玄関の扉を閉めた瞬間、家の空気にひそんだ緊張がわずかに揺れた。

冬の夕方特有の冷たさが廊下に淀み、リビングの明かりの向こうで母の声がした。

「ねえ、進路のことでちょっと話せる?」


それだけでわかった。

今日も“選ぶふりだけの相談”が始まるのだ。


鞄を置いてリビングに入ると、テーブルの上に二冊の冊子が置かれていた。

ひとつは大学。

もうひとつは専門学校。

それだけで、話の流れがほとんど見えてしまう。


母は大学のパンフレットを指で軽く押しながら言った。

「大学と専門学校があるけど、あなたはどう思う?」

言葉の表面だけ見れば選択肢を並べているように見えた。

けれど声の温度は、すでに大学のほうに傾いている。


「お母さんはね、大学に進んだほうが将来困らないと思うの」

そう言いながら、大学の冊子だけが母の手元に引き寄せられていく。


僕は専門学校の方の冊子を開いた。

そこには目指してみたい分野があり、実習の写真が並んでいる。

授業の内容も、将来の働き方も、ここで学ぶ気持ちはたしかにあった。

だから正直に言った。


「専門のほうが、自分には向いてる気がするんだよ。技術を身につけたいし」


母はすぐさま言葉をかぶせてきた。

「え?どうして?」

その“なぜ”は理解するためではなく、説き伏せるための“なぜ”だった。


「専門学校って、就職の幅が狭くなるじゃない」

「大学を出ておけば後悔しないし、視野も広がるのよ」

「それに、専門学校って途中で辞めたくなっても選択肢がないじゃない」


僕の言葉は、返される前に方向を修正される。

僕の理由は、反論のための材料になる。


「でも専門はさ」と僕が言うと、母の「でもね」がそれより速く被さる。

僕の意見は母の“正しさ”の前で形を失っていく。


母は話し合いをしているつもりなのだろう。

僕の意見を聞こうとしているつもりなのだろう。

でも、その聞き方は“あなたの考えを尊重するね”ではなく、

“あなたが自分で大学を選んだ形にしてあげるね”に近かった。


母の言葉は止まらない。

「大学を出ておけばね、選べる未来が全然違うのよ」

「就職も待遇も、全部違うの」

「だからあなたのために言ってるのよ」


そのたびに、専門学校という可能性は曖昧な未来の欠片みたいに扱われ、

最初から正解ではなかったみたいに薄れていく。


僕がどれだけ説明しても、母は必ず大学のメリットを重ねていく。

次第に、専門の冊子はテーブルの端で閉じられたまま動かなくなった。


最後には母が静かに、決まったような声で言う。

「やっぱり大学がいいわね。あなたもそのつもりでしょ?」


言ってない。

そんな言葉、一度も言っていない。


けれど母の中では、もう“僕の決定”になっている。

「あなたが決めたことだからね」と念を押される。

僕は口を開こうとして閉じる。

何度繰り返しても、この構図は変わらないのだと思い知らされる。


夜、自分の部屋で天井を見上げながら考えた。

どうして僕の意見は、いつも途中で奪われるのだろう。

どうして母の安心のための選択に、僕が同意したように扱われるのだろう。

どうして“相談”と呼ばれる時間が、こんなにも息苦しいのだろう。


次の日も、母は大学の資料を僕の机に置いた。

「調べておいたわよ」

「ほら、この大学なんてどう?」

「あなたの将来のためだからね」


専門学校の資料は押し出されるように隅へ追いやられ、

まるで最初から存在しなかったかのようになっていく。


そのとき、喉の奥に何か引っかかっているような感情が、はじめて形になった。


「……今日はちゃんと、僕の話も聞いてくれる?」


その言葉を言った瞬間、部屋の空気がふっと静まった。

母がどう返すかは分からない。

でも、長いあいだ飲み込んできた思いが、ようやく言葉になった気がした。


進路そのものよりも、

“自分の意見が存在してもいい”と感じられる時間のほうが、

僕にはずっと必要だったのだ。


そのことに、やっと気づけた気がした。

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