戦場(グレイス視点)
轟音。大地が揺れる。空気が悲鳴を上げる。眼前に聳える漆黒の鎧。
いや、それは鎧ではない。生物の一部──鍛え抜かれた巨体そのものが鋼のように硬化し、太陽の光すら鈍く吸い込む漆黒の筋肉の塊となっていた。
アイアンオーガの希少種。全長五メートル超。通常種ですら大人三人分の膂力を持つ巨漢が群れを形成する中で、こいつは明らかに別格だった。
兜のような顔面には血走った巨大な眼球が埋め込まれ、鼻腔からは蒸気のような息が吹き出している。
右手には棍棒などではなく、金属製の巨大な戦鎚。叩き潰すことを前提とした凶器だ。
「気を抜くな! このまま押し切れ!」
グレイスの怒号が戦場を切り裂く。第三師団が正面から怒涛の勢いで突撃していた。斧や槍が唸りを上げ、盾を構えた騎士たちが分厚い肉の壁を作り出す。
彼らの任務は時間稼ぎ──指揮官たる希少種を他の集団の包囲網に誘い込むことだった。
「グレイス団長! ここは俺たちに!」
副官ガロウの銀狼の如き鋭い眼光がグレイスの背を押す。
冒険者ギルドから選抜された先鋭と思われるメンバーが希少種に向かっていくのが見えた。
「あとは任せる!」
巨漢の熊獣人が咆哮と共に駆け出す。彼の巨躯が風を切る音が戦場に響いた。目指すは一点──希少種の側面。
(……なぜだ。嫌な予感が消えん。)
作戦立案時から抱えていた胸騒ぎ。レンの幼い横顔が脳裏を掠める。村の裏手に設置した急造の簡易治療所。そこにいるはずのレンとギリギリで配達替えをしたアーサーたち。戦いの喧騒から切り離された安全圏のはずだ。
だが──グレイスの背筋を冷たいものが這い上がってくる。
(レンは無事か……?)
心配を振り払うようにグレイスは己を鼓舞した。今は戦いに集中するしかない。グレイスは大槌を構え、戦列に加わる。
「ウオオオオオオオオオッ!」
巨漢の雄叫びと共に繰り出される戦鎚の一撃が大地を抉る。騎士たちの盾が粉々に砕け、肉片と血飛沫が飛散する。
「怪我人は下がれ!」
希少種の足が地を蹴った。その巨体が信じられない速さで陣形を突き崩す。グレイスは自ら壁となり、その突撃を受け止めた。
「ぐぉっ……!」
両足を地面にめり込ませながら衝撃を殺す。彼の大槌が希少種の脇腹を捉えた。鈍い音が響くも、相手の動きは止まらない。即座に繰り出される反撃の拳がグレイスの肩を襲った。
(硬い……!)
まるで鉄の塊に殴られたような衝撃が走る。しかし──『守護者』のスキルが、彼を愛する者の危機を察知してか?──驚異的な防御力が衝撃を吸収する。戦闘本能が研ぎ澄まされる。グレイスの視界が狭まり、相手の動きがまるでスローモーションのように見える。『心眼』が冴え渡る。弱点を探る。どこかにあるはずの脆弱な一点を──
その時希少種の巨大な尾が鞭のようにしなりながら襲いかかる。グレイスは咄嗟に跳躍して躱す。尾が地面に叩きつけられ、石畳が砕け散った。間合いを取り直す。呼吸を整える。
しかしグレイスは戦いの中でふと感じる。希少種の攻撃が読めるようになってきたのだ。心眼が鋭敏に相手の動作を捉える。守護者の発動によって研ぎ澄まされた集中力は周囲の雑音すら掻き消し、彼の感覚だけが戦場に満ちていく。彼の動きは精確さを増し、相手の攻撃を次第に避けられるようになる。
冒険者たちの援護射撃が希少種の背中に炸裂する。矢が鋼のような肌に刺さり、炎が皮膚を焼く。それでも希少種は止まらない。怒りに任せて周囲を蹂躙する。
「クソ……! こいつ思った以上にタフだ!」
冒険者の一人が呻いた。疲労が滲む。騎士たちの表情にも焦りの色が浮かび始めた。膠着状態──いや、ジリ貧だ。長期戦は不利を招く。
(まずい……!)
その瞬間だった。
「ガァアアアァァッ!!」
戦場の端で、治療所の方角から響き渡る絶叫。人の声ではない。猛獣の咆哮か?
同時に轟音。建物が崩れ落ちるような音。グレイスの脳裏に閃光が走る。
(レン……!?)
嫌な予感は的中したのか。レンの身に何かあったのか?
全身の血液が逆流するような衝撃が走る。戦闘中の仲間たちの怒号も遠くなる。
その刹那──グレイスの内で何かが爆ぜた。
守護者が最大級の力を発揮する。それは彼にとって初めての感覚だった。まるで体内に熱湯の奔流が渦巻くような感覚。四肢の隅々まで力が漲る。視界がクリアになり、時間が引き延ばされたように感じる。希少種の次の動きが、完璧に読めた。
「オオォォッ!」
咆哮と共にグレイスは地面を蹴った。弾丸のように飛び出し、希少種の死角を突く。戦鎚を構える相手の懐深くへ。巨獣が警戒し、迎撃しようと腕を振り下ろす。
それが──グレイスにとっては遅すぎた。心眼が導く最適解の軌道。守護者が付与する超人的な速度。
大槌が唸りを上げて閃く。狙うは一点──鎧のように硬化した胸部と首の付け根の僅かな隙間。
「潰れろ!!」
渾身の一撃がその弱点を捉える。骨の砕ける鈍い音。希少種の巨大な眼球が一瞬白目を剥く。巨体が大きく仰け反り──そのまま地響きとともに地面に崩れ落ちた。大地が再び震動する。
「やったぞ!」
「倒した!」
歓声が上がる。戦場の一角が沸騰した。しかし──グレイスにはその歓喜の声すら届かない。彼の巨躯が既に戦場を離脱していた。疾風のように。目指すは治療所。
(レン……! 無事でいてくれ……!)
脳裏を占めるのは幼い人間の少年の顔。駆けるグレイスの耳に、不吉な咆哮と崩壊の音が再び響く。
彼の脚力が極限まで引き出されていた。まるで地面を滑るようにして治療所へと向かう。
煙と土埃が立ち込める現場が視界に入った時──グレイスの目に飛び込んできたのは、何か禍々しい生き物の死骸と…
「レン……!」
グレイスの巨躯が飛び込むようにしてレンを抱きかかえる。温もりを確かめるように。
「大丈夫か!? レン!」
「グレイス団長……?」
「よくやってくれた……よくぞ生き延びた……」
それは神への祈りか、それともただの呟きか。
グレイスの双眸に涙が溢れる。安堵と怒りと無力感が入り混じった複雑な感情が渦巻いた。レンを強く、けれど優しく抱きしめる腕に力が入る。レンの意識は朦朧としていたが、確かにグレイスの腕の中にいた。




