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第三章:母国語(ホーム)の不在

 カイは単身私を救出するために敵のアジトへと乗り込んだ。


 そこは国籍も思想もバラバラな傭兵たちが集まる無法地帯だった。廃墟となった工場を改造したアジトには、戦争で行き場を失った様々な国の元兵士たちが身を寄せていた。


 彼はそこで自らの持てる全ての言語能力を駆使した。ロシア語を話す元空挺部隊兵には昔の軍隊仲間だと偽り、ウォッカを酌み交わしながら内部情報を探った。彼のロシア語には軍人特有の粗野な表現と、ソ連時代の古い軍歌の知識が織り込まれていた。


 アラビア語圏の情報屋には莫大なダイヤモンドの情報をちらつかせ取引を持ちかけた。彼は商人のような流暢なアラビア語で相手を魅了し、同時にベドウィンの古い詩を引用して信頼を得た。


 フランス語を話す元外人部隊兵には、レジオンの伝統と名誉について語り合い、「レジオネアの絆」を演出した。彼のフランス語には軍人の誇りと、同時にシニカルなユーモアが込められていた。


 彼の頭脳はフル回転していた。陽菜を救い出す。その一点だけを目指して。


 内部構造を把握し、警備の穴を見つけ、人質交換の可能性を探る。彼の心は冷静だったが、同時に激しく燃えていた。陽菜を失うことは彼にとって耐えられないことだった。いつの間にか彼女は彼にとってかけがえのない存在になっていた。


 彼女の理想主義は彼の冷めた心を温めてくれた。彼女の純粋さは彼の汚れた魂を洗ってくれた。彼女の存在は彼にとって唯一の「故郷」だったのかもしれない。


 そして彼は私が囚われている古い倉庫の一室にたどり着いた。だがそのドアの前に立ちはだかっていたのはイドリス司令官の腹心の部下であり、今回の暴走の首謀者だった。


 名前はムバラク。30代半ばの男で、様々な紛争地を渡り歩いてきた戦争のプロフェッショナルだった。彼は カイの正体に気づいていた。


「黒狐だな。お前の噂は聞いている。だがここまでだ」


 銃口がカイに向けられる。絶体絶命。


 だがムバラクの表情には複雑な感情が浮かんでいた。憎悪だけではない。どこか懐かしむような、悲しいような表情が混じっていた。


 その時、カイの口から自然と溢れ出したのはあの子守唄だった。彼はただ静かにその物悲しいメロディを口ずさんだ。アカ族の古い言葉で歌われる、母から子への最後の愛の歌。


 それを聞いたムバラクの顔が驚愕に歪んだ。なぜなら彼もまたあの滅びた部族の数少ない生き残りだったのだ。


 その歌は彼が幼い頃、母親から歌ってもらった忘れられない記憶の歌だった。炎に包まれる村で、母親が彼を森に逃がす直前に歌ってくれた最後の子守唄。


「お前、まさか…」


 ムバラクの声が震えた。


「アカ族の…血筋か?」


 カイは何者なのか。彼の本当のルーツがこの土地にあったのだ。


 彼は幼い頃、あの虐殺の日に両親を目の前で殺され、人身売買組織によって海外へと売られていった戦争孤児だった。5歳の時のことだった。記憶はほとんど消えていたが、母親の歌声だけは魂の奥底に刻まれていた。


 売られた先は東南アジアの児童労働施設だった。そこで彼は生きるために様々な言語を覚えた。中国語、タイ語、英語。言葉ができれば殴られることが少なくなる。言葉ができれば食べ物がもらえる。彼にとって言語は生存のための道具だった。


 10代になると彼は脱走し、さらに多くの言語を身につけながら世界各地を転々とした。傭兵として、通訳として、情報屋として。彼は生きるために自分の過去も、言葉も、名前さえも全て捨てた。いや、心の奥底に封印してきたのだ。


 だが彼の魂だけが母親が最後に歌ってくれたあの子守唄だけを覚えていたのだ。それが彼の唯一の「故郷」だった。


 ムバラクは静かに銃を下ろした。同族の生き残りを殺すことはできなかった。彼自身も同じような過酷な運命を辿ってきたのだ。


「行け」


 ムバラクは言った。


「女は奥の部屋にいる。だが急げ。他の連中が戻ってくる前に」


 カイは深く頷いた。二人の間に言葉は必要なかった。同じ痛みを背負った者同士の理解があった。


 無事に救出された私。朝日が昇る赤い荒野で私たちは二人きりで向き合っていた。カイのボロボロの戦闘服には銃弾の跡があり、彼の額には血が滲んでいた。


 私は彼の傷を手当てしながら言った。


「カイ。あなたの帰る場所は…ここだよ」


 私はそう言って彼の冷たい手を握った。私の中で確信が生まれていた。彼を愛しているという確信が。それは同情ではない。本当の愛だ。


 カイは初めて私に震える声で日本語を話した。


「俺の…母国語は…もうわからない。声も…忘れてしまった」


 彼の日本語は不自然だった。まるで外国人が話しているかのように。彼にとって日本語すらもう母国語ではなくなっていたのだ。


「でも…俺がこれから…たった一つだけ覚えたい言葉がある」


 彼は私の耳元でそっと囁いた。


「愛してる」


 その言葉は完璧な日本語だった。まるで彼の魂の奥底から湧き出てきたかのような、純粋で美しい日本語だった。


 私は彼を抱きしめた。この男を愛している。彼の孤独も、彼の過去も、彼の痛みも全て受け入れて愛している。


「私も愛してる」


 私は彼の耳元で囁いた。


「私があなたの新しい故郷になる」


 朝日が二人を包んでいた。砂漠の風は穏やかで、遠くから子供たちの歌声が聞こえてきた。それはあの古い子守唄だった。だが歌詞は少し変わっていた。新しい希望の歌になっていた。


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