第二章:翻訳されない子守唄
私はあの子守唄の謎を追い始めた。
キャンプ内の様々な部族の長老たちにその メロディを口ずさんで見せた。マンディンカ族の グリオ(語り部)にも、フラニ族の賢者にも、そして隣国から来た様々な部族の人々にも。だが誰もその歌を知らなかった。
調査は難航した。私は言語学的なアプローチも試みた。この地域には300以上の言語が存在し、その多くが未だ十分に研究されていない。多くの言語が口承のみで継承され、文字を持たない。戦争や迫害によって消滅の危機に瀕している言語も数多い。
その間にも私とカイの関係は少しずつ変化していた。
彼は私にこの混沌とした世界での生き残る術を教えてくれた。
「陽菜。あんたのその理想主義は美しい。だがそれだけじゃここでは誰も救えない。時には悪魔と取引することも必要だ」
彼は私を連れてキャンプの外の闇市へと向かった。そこは国境地帯によくある無法地帯で、武器から麻薬、人身売買まであらゆる非合法な取引が行われている場所だった。
昼間の灼熱とは打って変わって、夜の闇市は異様な熱気に包まれていた。ガソリンドラム缶を改造した焚き火の周りに、様々な国籍、様々な言語を話す人々が集まっている。彼らの多くは元兵士、元傭兵、そして戦争で全てを失った人々だった。
カイはそこで武器商人や情報屋と対等に渡り合い、キャンプに不足している医薬品を手に入れてきた。彼の交渉術は見事だった。相手の出身地を瞬時に見抜き、その土地の言葉と文化的背景を駆使して相手の懐に入り込む。
ある武器商人とは東欧の内戦時代の話で盛り上がり、ある情報屋とは中東の宗教的な議論を交わし、また別の商人とは南米の麻薬組織の話で場を和ませた。
彼のやり方は決してクリーンではなかった。グレーゾーンを巧妙に泳ぎ回り、時には嘘も方便として使う。だが彼の行動は確かに目の前の命を救っていた。
私は自分の正義がいかに狭く、そして独善的だったかを思い知らされた。教科書通りの人道支援では救えない命がある。理想だけでは現実は変えられない。でも、だからといって手段を選ばなくていいのか。私は自分の価値観が大きく揺らぐのを感じた。
そして彼もまた私の影響を受けていた。
彼は私の決して諦めないその ひたむきな姿に少しずつ心を動かされていた。ある日、彼はこう言った。
「あんたを見ていると時々思うよ。もしかしたら世界はまだ救えるのかもしれないな、ってな」
彼の瞳に宿った小さな希望の光。普段は感情を表に出さない彼が見せる、わずかな心の動き。私はそれが何よりも愛おしく感じられた。
私たちは次第に良いパートナーシップを築いていった。彼の現実的なアプローチと私の理想主義的な視点が補完し合い、より効果的な支援を提供できるようになった。
夜、同じテントで過ごす時間も増えた。彼は私に様々な言語の美しい詩や歌を教えてくれた。アラビア語の恋歌、フランス語の哲学的な詩、スワヒリ語の自然を歌った民謡。彼の声は意外にも美しく、どの言語で歌ってもその言語の魂を表現していた。
だが、彼は決して日本語では歌わなかった。
私もまた自分の感情の変化に戸惑っていた。最初は仕事上のパートナーとして見ていた彼が、いつの間にか私の心の中で特別な存在になっている。彼の孤独に触れる度に、私はその孤独を癒してあげたいと思うようになった。これは恋なのだろうか。それとも同情なのか。自分でもよくわからない。
ある日、ついにあの子守唄の正体が判明した。
教えてくれたのはキャンプから少し離れた場所に一人で暮らす盲目の老婆だった。彼女は「バアバ・ケマ」と呼ばれ、この地域の生き字引のような存在だった。戦争で家族を全て失い、一人で何十年も生きてきた。
「おお、その歌は…」
私が子守唄のメロディを口ずさんだ瞬間、老婆の顔が驚きに歪んだ。
「もう何十年も前に滅びた部族の歌じゃよ」
彼女が語ったのは悲しい歴史だった。その部族は「アカ族」と呼ばれ、この土地で最も平和を愛する小さな民だった。彼らは森の深くで狩猟採集生活を営み、自然と調和して生きていた。アカ族の言語は音調言語で、音の高低によって意味が変わる美しい言語だった。彼らは文字を持たず、全ての知識と文化を歌と語りで継承していた。
だがダイヤモンド鉱山の利権争いに巻き込まれ、他の大きな部族によって虐殺され、滅ぼされてしまったのだという。
「1980年代の終わり頃じゃった。一晩で村が丸ごと消えたのじゃ」
老婆は涙を流しながら語った。
「その歌は母親が戦場に行く我が子に歌って聞かせる別れの歌じゃよ。『母なる森よ、この子を守り給え。いつの日か故郷に帰れますように』という意味じゃ」
私は愕然とした。カイのルーツはその滅びた部族にあったのか。彼が背負ってきたもののあまりの重さに言葉を失った。
故郷を失い、言語を失い、アイデンティティを失った男。それでも生き延びるために様々な言語を身につけ、様々な仮面を被り続けてきた男。彼の孤独の正体がようやく見えてきた。
その事実を彼にどう伝えればいいのかわからなかった。真実を知ることで彼が救われるのか、それともさらに深い絶望に突き落とされるのか。
だがその猶予は与えられなかった。事態が急変したのだ。
和平交渉が進む中、イドリス司令官の対立派閥が暴走した。彼らは一部の過激な若手メンバーで構成された「聖戦士旅団」を名乗り、キャンプを急襲して私を拉致したのだ。
彼らの目的は私を人質に身代金を要求することだった。UNHCRの職員、しかも日本人という希少価値の高い人質は高額で売れる。私は絶望の淵に突き落とされた。
拉致された私は古い倉庫の一室に監禁された。外では男たちが様々な言語で怒鳴り合っている。アラビア語、フランス語、そして聞いたことのない現地語が混在していた。
私は恐怖に震えながら思った。もう二度とカイに会えないのかもしれない。彼にあの子守唄の真実を伝えることもできない。そして何より、彼への自分の気持ちを伝えることも。