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第一章:黒狐(ブラック・フォックス)の多言語(ポリグロット)

 カイの仕事ぶりはまさに神業だった。


 キャンプの安全が確保されるまでここに留まることになった彼は、次々と難題を解決していった。彼はキャンプ内の異なる部族間のいざこざを、それぞれの言語と文化的な背景を瞬時に理解し、まるで魔法のように仲裁していく。


 マンディンカ族の長老とは、彼らの尊敬する叙事詩人ママドゥ・クヤテの『スンジャータ叙事詩』を引用して心を解きほぐした。この叙事詩は13世紀のマリ帝国建国の物語で、マンディンカ族にとって神聖な歴史書でもある。カイは長老に向かってマンディンカ語でこう語った。


「『強者は弱者を支配するのではなく、守るものである』。スンジャータ王の教えではありませんか」


 長老の目に涙が浮かんだ。異国の若者が自分たちの誇りを理解してくれている。その事実だけで十分だった。


 フラニ族の若者たちとは、彼らの流浪の歴史と誇りを称えることで信頼を勝ち取った。フラニ語で「Pulaaku」という概念について語った時、若者たちの目の色が変わった。「Pulaaku」とは「フラニらしさ」を意味する言葉で、勇気、品位、慎み深さ、そして何より困っている者への思いやりを表す。


「君たちのPulaakuが試されているのは今だ」


 カイの言葉に、若者たちは深く頷いた。


 彼はただ言葉を話せるだけではなかった。彼はその言語が持つ思考のフレームワークそのものに自在にスイッチングしているかのようだった。


 フランス語を話す時は皮肉屋で合理的なフランス人のように。彼の発音は完璧なパリジャンのそれで、語彙選択も知識人のものだった。


 アラビア語を話す時は敬虔でもてなしを重んじる商人のように。「As-salāmu ʿalaykum」の挨拶から始まり、古典アラビア語の引用を交えながら相手の心を掴んでいく。


 英語を話す時でさえ、相手によってアクセントを変えていた。アメリカ人にはアメリカ英語で、イギリス系の援助関係者にはクイーンズイングリッシュで、アフリカ系の人々には彼らの英語のリズムに合わせて。


 私は彼の護衛兼監視役として、その驚異的な能力を目の当たりにしながら、一つの大きな謎に突き当たっていた。


 彼は決して日本語を話そうとしないのだ。


 私が日本語で話しかけても、彼は常に英語かフランス語で返す。しかも、その時の彼の表情には明らかに戸惑いが浮かぶ。まるで日本語という言語に対して何らかのトラウマを抱えているかのように。


 そして彼は自分の過去について一切を語らない。


 夜、テントの外で星空を見上げている彼の横顔には深い孤独の影が差していた。彼は常に誰かの言語を話し、誰かの文化の中で生きているが、彼自身は一体誰なのか。その実体が見えてこない。


「カイの本当の名前は何?」


 ある日、私は彼に尋ねた。


「あなたの母国語は何語なの?」


「俺にそんなものはない」


 彼は寂しそうに笑った。


「俺はただの翻訳機トランスレーターだ。中身は空っぽだよ」


 その横顔に浮かんだ深い孤独の影。私は胸が締め付けられるのを感じた。この強い男が見せる一瞬の脆さ。私はその理由を知りたいと強く思った。


 同時に、私は自分の中に芽生えつつある感情に戸惑っていた。最初は彼の能力への羨望と反発だったものが、いつの間にか別の感情に変わっている。彼の孤独に触れた時、私の心は激しく動いた。これは同情なのか、それとも…。


 その手がかりは意外な形でもたらされた。


 ある夜、キャンプで一人の母親が高熱を出した赤ん坊を抱いて泣いていた。クリオ語という、この地域で話される混合言語の方言を話す女性で、言葉が通じず医療スタッフも手をこまねいていた。


 その時、カイがその赤ん坊をそっと抱き上げ、誰も聞いたことのない優しく、そして、どこか物悲しいメロディの子守唄を口ずさみ始めたのだ。


 不思議なことに赤ん坊はすうっと泣き止み、穏やかな寝息を立て始めた。だが、私が驚いたのは赤ん坊の反応だけではなかった。その子守唄を歌うカイの表情が、まるで別人のように穏やかで、そして深い悲しみに満ちていたからだ。


 歌詞は聞き取れなかったが、メロディには言いようのない郷愁があった。遠い記憶の彼方から響いてくるような、失われた何かへの哀歌のような。


「今の歌…」


 私は尋ねた。


「どこの国の歌なの?」


「さあな」


 カイは言った。


「わからない。ただ昔、誰かに歌ってもらったような気がするだけだ」


 彼はそう言うと赤ん坊を母親に返し、すぐにその場を立ち去ってしまった。まるで自分の無防備な姿を見られたことを恥じるかのように。


 私は確信した。あの子守唄が彼の失われた過去への唯一の鍵なのだと。


 その夜、私は眠れずにテントの中で彼のことを考え続けた。彼の孤独の正体が何となく見えてきた気がした。彼は言語の天才かもしれないが、同時に言語の迷子でもあるのだ。どの言語も完璧に操れるが、どの言語も真の意味での「母国語」にはなり得ない。


 彼は翻訳機だと自分で言った。でも翻訳機にはオリジナルがある。彼のオリジナルは何なのか。あの子守唄の中にその答えがあるのかもしれない。


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