序章:バベルの砂塵
神は、きっと、この土地を創る時にほんの少しだけ手元が狂ったのだ。
西アフリカ、リベリアとの国境に近い名もなき難民キャンプ。赤土の乾いた大地に、防水シートとありあわせの木材で組まれた粗末なテントが延々と広がっている。空気は砂塵と絶望の匂いで満ちていた。ここは文字通り「バベルの塔」だった。異なる言語を話す人々が、理解し合うことなく混在し、互いの言葉は空しく宙に舞うだけ。
私の名前は結城陽菜。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のプログラムオフィサー。東京外国語大学で国際関係学を学び、ソルボンヌ大学院で人道支援について研究した。世界の不公正をこの手で正したいという理想に燃えて、この道に進んだ二十八歳。
理想に燃えていたと言えば聞こえはいい。だが、この混沌の最前線で私の「正論」は砂塵のように虚しく舞い上がるだけだった。大学で学んだ国際法も、人権に関する議定書も、目の前の現実の前では何の力も持たない。頭でっかちな理論家。現地スタッフの目には、私はそう映っているのかもしれない。
この土地は呪われている。
ダイヤモンド。
その透明な石ころが何十年もの間、人々を狂わせ血を流させてきた。この地域で産出されるダイヤモンドは「ブラッドダイヤモンド」と呼ばれ、その売買益が武装勢力の資金源となっている悪循環。政府軍、反政府勢力、そして国境を越えて集まる名もなき武装集団。彼らが入り乱れ殺し合う、その狭間で罪のない人々だけが家を、家族を、そして言葉さえも奪われていく。
このキャンプに避難してきている人々もまた様々だった。
マンディンカ語を話す農耕民族。彼らはマリ帝国の末裔を自認し、13世紀から続く口承の歴史を大切にしている。フラニ語を話す遊牧民たち。サハラ砂漠の南縁を何世紀にもわたって移動し続けてきた誇り高き民族。そして隣国からの難民が話すフランス語訛りのクレオール言語。
言葉が違う。文化が違う。神が違う。
マンディンカ族は祖先崇拝とイスラム教が混在した信仰を持ち、フラニ族は厳格なイスラム教徒が多い。一方でクリスチャンの難民たちもいる。昨日まで隣人だったはずの彼らが互いを憎み合い、いがみ合う。
支援物資の配給一つままならない。食料配給の際、マンディンカ族の長老が「年長者から」という伝統を主張すれば、フラニ族の若者たちは「家畜の世話をする者が優先されるべき」と反発する。それぞれに理があり、それぞれに正義がある。だが、その正義同士がぶつかり合う時、誰が仲裁できるというのか。
これが私の赴任して三ヶ月の現実だった。毎日がトラブルの連続。通訳を介しての会話は常に齟齬を生み、誤解が誤解を呼ぶ。私は次第に自分の無力さに押し潰されそうになっていた。
そして今日。
その脆い均衡は、ついに崩壊した。
イドリス司令官と名乗る武装勢力が、キャンプの唯一の水源である井戸を占拠したのだ。彼らは「ウェスト・アフリカン・リベレーション・フロント」を名乗る比較的新しい武装組織で、様々な部族の不満分子が合流して結成された寄せ集め集団だった。
理由は理不尽極まりない。「我々の聖なる土地を汚している」という一方的な言いがかり。しかし彼らの真の目的は明白だった。国際機関からの身代金を狙った誘拐計画の第一段階。
キャンプは完全に包囲され、一触即発の状態に陥った。
本部からの指示は「刺激するな。静観せよ」。だが水がなければ、ここにいる何千もの人々が死ぬ。特に子供たちと高齢者は48時間が限界だ。
「私、行きます」
私は決意した。現地のスタッフが顔を真っ青にして止めるのを振り切り、私は一人武装勢力の陣地へと向かおうとした。
胸の奥で母の声が聞こえる。『陽菜、あなたはいつも無茶をする』。東京の実家で待つ両親の顔が脳裏に浮かぶ。だが、私にはもう引き返せない。この仕事を選んだ時から覚悟していたことだ。
その時だった。
どこからともなく一台の錆びだらけの古いランドクルーザーが砂煙を上げて現れた。運転席から降りてきたのは一人の東洋人の男だった。
日に焼けた精悍な顔つき。黒い戦闘服に身を包み、その瞳はまるで砂漠の狐のように鋭く、そして、どこか寂しげだった。年齢は三十代前半だろうか。体格は中背だが、その身のこなしには只者ではない雰囲気が漂っている。
「君がUNHCRのお嬢さんか」
男は流暢な英語で言った。だが、その英語にはかすかに複数のアクセントが混在していた。アメリカ英語の基調に、イギリス英語の格調高さ、そしてアフリカ系英語の独特のリズムが感じられる。
「話は聞いている。ここからは俺の仕事だ」
「あなたは誰?」
「カイ。ただの交渉官だ」
彼がUNHCRが最後の手段として雇ったという伝説のフリーランス、カイ。コードネームは「黒狐」。
私は彼の無謀を止めようとした。だが彼は私に一瞥もくれず、一人で武装勢力の陣地へと歩いていく。その後ろ姿には迷いがなかった。まるで何度も修羅場をくぐり抜けてきた戦士のような風格がある。
ああ、終わった。私も彼も、ここで死ぬのだ。
私が絶望に打ちひしがれていたその数時間後。信じられない光景が広がった。武装勢力が武器を降ろし、陣地を解いて撤退していくのだ。
何事もなかったかのようにカイが戻ってきた。
「何をしたの?一体どんな魔法を使ったの?」
「魔法じゃない。話をしただけだ。彼らの言葉でな」
カイはこともなげに言った。
「イドリス司令官はゴラ語を話す。ゴラ族の神話では、水は母なる大地の涙だ。それを独占することは母を独占するのと同じ、最も恥ずべき行為だとされている。俺はただ、その古い物語を思い出させてやっただけさ」
ゴラ語。
西アフリカのごく一部の部族しか話さない極めてマイナーな言語。話者数は3万人程度と言われ、現在でも急速に消滅の危機に瀕している。この男は一体何者なんだ。
私は彼のその圧倒的な能力の前に畏怖と、そして、かすかな反発を覚えずにはいられなかった。私の正義は、このバベルの砂塵の中であまりにも無力だった。