満水
『満水』
1
初動捜査を担当することになった畠山巡査部長は、被害者のあまりの姿に困惑を隠せないでいた。
「なんで、水が止まんねえんだよ……。もうホトケになってるっていうのに」
リビングルームに戻ってきた彼は額に手を当て、視線を落とす。
浴室の床の上に横たえられた遺体がジッパー付きの収容袋に入れられる間にも、遺体の口、鼻、目、耳など、体中の穴という穴から液体が漏れ出していた。
遺体に目立った外傷はなく、水で満たされた浴槽に浸かった状態で見つかった。検死の結果が出なくても分かる、ただの溺死のはずだ。
「お疲れ様です、畠山さん」
「おう」
ふと、下がっていた視界にビニールで覆われた靴と紺のスーツパンツが現れる。
被害者の身元の精査に当たっていた平塚巡査だ。
畠山と彼は同じ係に所属している。殺人や強盗事件の捜査を主導する警視庁捜査一科の、第一係に。
「マンションの管理人、及び所持品にあった社員証から割り出した同僚と上司への聞き込みは概ね終わりました」
「聞こう」
「はい。ではまず被害者の身元から」
平塚は平板な口調で説明していく。
「ガイシャの名前は水上愛里。29歳。都内の大手印刷会社で事務員をしていました」
「OLか。欠勤で発見につながったパターンだな」
「そうです。今週の月曜日から無断欠勤が相次いでいたため、上司の新井さんが繰り返し被害者に電話をかけました。月曜と火曜に何回かですね、被害者の携帯の履歴は現在解析中です。それでも連絡が取れないので今朝この部屋を訪れ、インターホンを押しても応答がなく、ただならぬ事態だと思い、管理人さんに事情を説明して鍵を開けてもらったそうです」
「ちょっと待った。上司がそこまでするのか?部屋までやってくるのは百歩譲って良いとして、管理人に鍵を開けさせるまでやるか?その、新井さんというのは男か?」
「はい。新井智親は同会社の事務課係長の四十二歳男性。しかも既婚者です。同僚の話によると、新井さんは被害者と親密な関係にあったとか」
「ということは、そういうことか」
「そういうことです。愛人ですね」
畠山は辟易しながら首を振る。平塚は平気な様子だ。
つまり、新井は自分の女が音信不通になったから、心配になって部屋までやってきて管理人に鍵を開けさせたと。
「ガイシャに交際相手はいないのか?夜はお水をやっていたとかはないよな?」
「今のところその可能性は低いと思われます。部屋もこの様子ですし」
そう言い、平塚はざっとリビングを見回した。畠山も真似する。
リビングルームは殺風景だ。物が極力少なく、被害者はミニマリストなのではないかと疑うくらいの、なにもない空間。とても男を連れ込んでいるように思えない。
「それじゃあ、死因は?」
「検死の結果、肺まで水が入り込んだことによる溺死で間違いないそうです。ただ、目や耳、肛門からも水が出てくるのは不自然だと」
「だよなあ……」
畠山は腕を組んだ。
人体の構造の話になるが、頭の内側では口と鼻はもちろん、鼻と耳は耳管という管で、目と鼻は鼻涙管という管でそれぞれつながっているため、口と鼻と耳と目はお互いに通じ合っていると言える。
言えるのだが、普通溺れたからといって耳管や鼻涙管まで水で満たされることなんてない。耳の場合は耳の穴から水が入ることはあるが、涙を流しているかのごとく溺死体の目から水があふれてくるなんてあり得ない。
そう、あり得ないのだ。普通なら。
「まあ、詳しい解剖結果が出たら考えるか」
「餅は餅屋ですね」
「だな。死亡推定時刻は?」
「死後硬直の度合いから、土曜の午前零時から午前六時の間だそうです」
「外傷はなかったんだよな?」
「はい」
「ガイシャは結構な深夜に入浴していたんだな」
「会社の同僚の話によると、五日前の金曜に女子会をして二十二時過ぎまで飲んでいたそうです。女子会を開いた店からこの部屋までは一時間程度ですので、時間の整合性は取れています。寝る前に入浴したんだと思います」
「それじゃあ、ガイシャは酔っぱらった状態で風呂に入っていたのか」
「そうですね。女子会に参加した同僚によると、結構お酒を飲んでいたそうです」
泥酔状態で湯船に浸かり、誤って溺れたのか?
たったそれだけで、目から水を出すほど溺れるのか?亡くなってから四日程度経過してはいるが、おかしくないか?
畠山の脳内に、遺体が運び出される場面がフラッシュバックする。
いや、あり得ない。
「他に、検死で不審な点はなかったか?」
「そうですね、ありま……、あ」
「あるのか?」
「そういえば、鑑識の人が大変そうでした。遺体を浴槽から床まで移動させるときに、とんでもなく重かったそうです」
「重い?遺体がか?」
「はい。被害者は割とスレンダーで、多く見積もっても五十数キロくらいの見た目だったんですが、実際はその倍くらいあるんじゃないかと錯覚するくらい重かったと」
「肺に水が溜まってるから、その分重かっただけじゃないのか?」
「いえ、そんなわずかな増え方じゃなくて、比喩じゃなくて倍くらいだそうです」
そんなにか。畠山は訝しがる。
鑑識は検死のプロだ。今日まで何百何千という遺体を目の当たりにし、検死を行っている。
そのプロが明らかに重すぎると思ったのだから、実際にとんでもなく重かったのだろう。
目から溢れるくらいだから、鼻腔内も水でいっぱいである可能性は高いが……いや、もしそうだとしても重すぎるとまではいかないはずだ。
いや、待てよ?
「肛門からも水が出ていると言っていたな?」
「はい。括約筋が弛緩して腸液が漏れているだけでは片づけられないくらいの量が出ていたそうです」
「もしかして、ガイシャの腸も水で満たされているんじゃないか?」
「そうかもしれませんが、今断定はできません。解剖を待ちましょう」
「……そうだな」
あくまで冷静な部下に窘められ、感情的な上司は口をつぐんだ。
ただ二人とも、思うことは同じだった。
この事件、なにかがおかしい。
「というか、これは事件なのか?争った形跡も外傷もない。酔ったガイシャの不注意が原因の事故という線はないか?」
「ありますね。ただ、第一発見者の新井さんとマンションの管理人さんが見たそうです。被害者が浴槽の底に沈んでいるのを」
「沈んでいただと?」
あり得ない。溺死体は体内に溜まったガスが原因で、浮かぶというのが常識だ。
「沈んでいたために二人は被害者が溺れていると一目で判断し、頭を持ち上げて口と鼻を出して座らせたんです。通常の入浴時の体勢ですね」
「明らかに不自然だな」
一人ならまだしも、二人が口を揃えて遺体が沈んでいたと証言したのなら、実際にそうだったのだろう。
「事件と事故、両方の可能性を追うしかないな。マンションの防犯カメラ映像は?」
「今確認してもらってます」
「そうか。ここの遺留物は鑑識が持っていったよな。容疑者につながるものはあったのか?」
「スマホとノートパソコンがありましたが、どちらもパスワードが設定されているため解析には時間がかかるそうです。財布には社員証くらいしかめぼしいものはありませんでした」
「衣類や靴は?」
「被害者自身のものとみられるものしかありませんでした」
「なるほど。その線も追えないか」
水のことは今考えていても仕方がない。畠山は気を取り直すことにした。
顔を上げ、平塚の方を向く。
「聞き込みはどうだ。流石にまだ終わってないよな」
「はい、まだです」
この事件を担当することになった一係の中で、平塚が一番先に現場入りした。畠山は二番だ。
なのでこうして色々聞いているわけだが、聞き込みは手をつけていなかったようだ。
「じゃあ、俺たちはマンションの住人に話を聞くか」
「はい」
「その前に、部屋を一通り見て周りたい。案内してくれるか?」
「もちろんです」
夜になれば解剖結果が上がってくるはずだ。そして明日の午前中には、捜査本部が置かれた所轄署で行われる捜査会議で共有される。
俺たちはそれまで、俺たちにできることをする。それが無念の死を遂げたガイシャへの弔いになる。
「事件だとしたら、必ず解決してやる」
気がかりなことはあるが、なに、杞憂だろう。
専門家が解剖すれば、遺体の穴という穴から水が漏れていたこと、遺体が異様に重かったこと、発見時に遺体が沈んでいたことへの論理的な説明がなされるに違いない。
そんな張りぼての希望を胸に、畠山巡査部長は平塚巡査を伴ってリビングルームをあとにした。
※※※
翌日。
捜査会議が終わると、畠山は放心状態のまま硬直していた。
「お疲れ様です、畠山さん。衝撃的でしたね」
普段はどんな遺体を見ても冷静さを崩さない平塚も、捜査会議で共有された内容に圧倒されていた。
「まさか鼻腔内も、肺の中も、胃も食道も小腸も大腸の中も、全部水で満たされていたとは……。冗談を言っているのかと思ったぜ」
「でも、解剖結果はそう物語っていたそうなんですよね。もう訳が分かりません」
「確かに体の内側が水で満たされていたとすると、水漏れも異様な重さも遺体が沈んでいたことも説明がつくが……。あり得ない」
事故ではない。浴槽で起こった溺死事故で体の内側全てに水が満ちることなんて、見たことも聞いたこともない。
では事件か?誰かが被害者を溺れさせ、胃や腸にまで水を詰め込んだのか?
いやいや、あり得ない。一切の痕跡もなしに、そんなことができるはずがない。
それに、そんなことをしてなにになるのか。確実に殺すためと強引に解釈しても、しっくりこない。
「これからどうするんですかね。とりあえず、もう一度交友関係を洗うことになりましたが……」
「なあなあにして終わりだろうな。ここまで徹底して初動捜査をしたにもかかわらず第三者の存在を示す証拠がないとなると、これ以上捜査しても実入りは少ない。このままだと、上は事故として処理する可能性が高い」
「捜査してるポーズだけ取って、お宮入りってことですか?」
平塚は明らかに不満そうだった。
「そういきり立つな。末端の俺たちがどうあがこうが、覆らないのが組織の方針というものだ。俺たちは群れの流れに身を任せるしかないんだよ」
畠山は遠い目をして言った。
近隣の住人に聞き込みをしても、防犯カメラ映像を確認しても、勤め先の愛人を問い詰めてみても、溺死事故に関係する手がかりは一切得られなかった。
「でも畠山さん言ってましたよね、必ず解決してやるって。諦めるんですか?」
「事件だとしたら、だよ。ときには諦めも必要なんだ。いい勉強になったな」
「じゃあなんで、そんなに悔しそうな顔してるんですか?」
図星を突かれ、畠山はとっさに顔を逸らした。
刑事のくせに表情に出ていたか。今度は顔に出さないように、苦い思いを噛み締める。
「これは……、事故だ」
「ですが……!」
「試験があるんだろ。きっぱり忘れて、勉強でもしてろ」
平塚はキャリア組だ。畠山と違ってまだ若く将来有望で、近々昇進試験に臨む予定がある。
こんな訳の分からないことで、キャリアを棒にしてはならない。
「……」
「後始末は俺に任せとけ。以上だ」
俺だって納得していない。だが、それでも決断しなくてはならない。
せめて上司らしく今後の方針を言い渡し、畠山は会議室の出口に向かった。
※※※
第二の溺死体が発見されたという報がもたらされたのは、三日後の昼のことだった。
水上愛里の解剖所見があまりにも衝撃的で、担当した鑑識課員が共通点に気づいたのだ。
「一件目と同じく穴という穴から水が出て、遺体が異様に重く、今度は庭の池に沈んでいたそうです」
「まだ関連性があると判断するのは早いぞ。解剖がまだだろ」
「ですが、似ているんですよ。あの”事故”と」
「それは分かってる」
平塚にはそう言ったが、畠山も内心、二件に関連性があると睨んでいる。
こうして現場を見てみると分かる。日本家屋風の屋敷の周りに広がる美しい庭園は手入れがしっかりと行き届いており、第三者が荒らした痕跡は一切ない。
さらに被害者が溺れた庭の三分の一ほどを占める大きな池には、きれいな柄をした錦鯉が何十匹も泳いでいる。ここにも不審なところはない。
他者の存在を示す証拠が一切ないという点でも、水上愛里の事故と共通している。
「状況を教えてくれ」
またしても平塚が一番乗りだった。彼は今日非番だったのだが、住まいが現場の近くだったのだ。
「はい。被害者の名前は湊晋太郎、六十七歳。骨董品を取り扱う古物商で、この家で妻の湊シノ(みなとしの)と二人で住んでいます」
「その奥さんはどこにいるんだ?」
「老人会の集まりで、北海道に旅行している最中です。今大急ぎで戻ってきてもらっています」
「旦那を置いて旅行か……」
ガイシャと妻のシノの夫婦仲は冷え切っていたのかもしれない。畠山はそう心の中でメモをしておく。
「検死段階での死因は?」
「池で溺れたことによる溺死で間違いないかと。今回も、目立った外傷は確認されませんでした」
「被害者は服を着たまま池に落ちたんだよな?転落時にできた傷もなかったのか?」
「それが、ないそうです。それどころか着衣、被害者は甚平を羽織っていたんですが、それの乱れや崩れもごくわずかで、溺れたときに見られる抵抗の痕跡がほとんどないらしいんです」
「飲酒していたんじゃないのか?」
「それが、被害者は普段あまりお酒を飲まないようでして。飲む場合は人と会うときに付き合い程度だだそうで……。昨日は誰とも会う予定がなく、夜二十一時ごろに家政婦が家を出てからの被害者の行動は分かっていないんですが、少なくとも冷蔵庫の酒類は手つかずだそうです」
なら、ガイシャにアルコールが入っていた可能性は低いな。
急に酒が飲みたくなったのなら冷蔵庫から引っ張り出せばいいし、わざわざ外に買いに行く理由もない。というか、深夜だから酒屋は閉まっている。
まあアルコールに限らずだが、解剖で血液を検査すれば一発で分かるか。今は状況から見て、その可能性が低いということが分かればいい。
「家政婦か。こんだけ広い敷地ならいて当たり前か。今どこに?」
「所轄署で任意の取り調べを受けています。ちょうど、畠山さんと入れ違いで向かわれました」
「そうか……」
一足遅かったか。畠山は内心臍をかんだ。
「それで、死亡推定時刻は?」
「昨日の午前零時から六時の間です」
「それって、水上愛里の事故と同じ時間帯じゃないか」
「そうなんです。そこも、どうも引っかかっていて……」
深夜の同じような時間帯に、同じような溺れ方をして二人も亡くなった。これは偶然といえるのだろうか?
「まあ、置いておこう。遺留物はどうだった?」
「特に変わったものはなにも。家政婦さんに確認してもらいましたが、なくなったものもないそうです」
「骨董品はどうだ?ここにはたくさん置いてありそうだが」
畠山が屋敷の方を振り返って尋ねる。
「そちらも異常はなかったそうです。骨董品を収納している部屋は今朝の時点できちんと施錠がされていて、鍵は被害者の甚平の内ポケットから見つかりました。現在、家の玄関の防犯カメラの映像を洗い出していますが、昨夜誰かが窃盗、強盗目的で侵入したという線は薄いと思われます」
「だよなあ。こうもきれいだとなあ……」
畠山と平塚は庭園を臨む。
青々と茂る大きな松のふもとを埋めるかのように、名は知らないが丸っこく刈り取られたいくつもの低木が控えめに存在を主張している。縁側の近くには大小さまざまな盆栽が木の棚に整然と並べられ、地面には大きさの均一な砂利が敷き詰められている。
そして極めつけは、錦鯉が気持ちよさそうに泳ぐあの大きな池。
あまりに庭が風流なので、ここが事件現場だということを忘れてしまいそうになる。
「庭の手入れも家政婦さんがやっているのか?」
「いえ、二週間に一度、贔屓にしている造園会社から庭師を派遣してもらって手入れしているようです。昨日がその日だったそうで、事情聴取のためその庭師も呼んであります」
「そうか。じゃあ来るまで、屋敷と庭を……」
見て周るかと言いかけたところで、庭の入口の方が騒がしくなった。
「すいません、一般の方の出入りは……」
「ですから、招待されて来たんです。ここの主人である湊晋太郎さんに」
「そのような事実はございませんが……」
「警察の方がいらっしゃるということは、なにか事件があったんですか?もしかして晋太郎さんが?」
「詳しいことは申し上げられませんので……」
畠山が平塚を伴って門扉に貼られた規制線をくぐり抜けると、ちょうどインターホンの辺りで見張りの制服警官と言い争っている少女がいた。
「あ、警察の方ですか?」
畠山が自身の存在を誇示する前に、少女の方が先に気づいた。
セミロングの黒髪はポニーテールにして後ろに遊ばせ、少し大きめの麦わら帽子で日差しから守っている。白地に青のチェック柄のワンピースは涼しげで、どこか大人っぽさも感じられる。斜めがけしている大容量のボストンバッグが少しアンバランスだが、そこにさえ目を瞑ればどこにでもいる女子大生か、休日の新米社会人といった風貌だ。
二十歳もいってないくらいの女性が、年老いた古物商になんの用だ?もしかして、愛人か?
刑事という職業柄、そんなことを邪推してしまう。
「刑事さんがいるということは、事件ですか?晋太郎さんの姿が見えないということも加味すると、彼が殺されたんですか?」
「何度も言われたと思いますが、事案についてお話しすることはできません」
「それは関係のない一般人に対しては、ですよね?私は少し、いや大いに関係があると思いますよ。晋太郎さんに起きたなにかに」
可憐に見えた少女は、急に含みを持たせた言い方をして意味深に微笑んだ。
こいつ、水のことを知っているのか?
畠山は疑問に思ったが、ポーカーフェイスを繕って無言でしのいだ。
だが、部下はそうもいかなかった。
「おや、その反応。晋太郎さんは普通の亡くなり方をされなかったということですか?」
「……平塚ぁ」
「すいません……」
香が平塚の表情を見て笑みを深めたので、畠山は部下の失態に気づいた。
とここで、門の前に一台の軽トラが転がり込んできた。運転席側のドアが開き、いかにも職人気質の男性が降りてくる。
「すいません、韮山造園の沼田ですけど……」
「はい、ご足労頂きありがとうございます。……畠山さん、先ほど話していた庭師の方です」
「ちょうどいい。平塚は沼田さんから事情を聴いておいてくれ」
「え、畠山さんはどうするんですか?」
「俺はこの嬢ちゃんの話を聞く。どうも、一筋縄じゃいかないようだからな」
「……すいません」
「責めてるわけじゃない。頼んだぞ」
畠山は平塚の肩をポンポンと叩き、香に向き直った。
刑事の視線を受け止めた香は麦わら帽子のつばを軽く押さえ、彼女なりの礼儀を示す。
いざ、尋常に。これから始まるのは、舌戦という名の情報の応酬だ。
「それじゃあ嬢ちゃん、立ち話もなんだ。ちょっと場所を移そうか」
「嬢ちゃんではありません。もう二十歳ですし、雛菊香という名前があります」
「そうかい、嬢ちゃん」
相手の神経を逆撫ですることで、あくまで主導権は自分にあると主張する畠山。
その子どもじみた言葉遣いに辟易しながら、香は門の向こう側を指差す。
「その前に、屋敷を見させていただけませんか?」
「駄目だ。いくら参考人でもな。いや、今はまだ”自称”参考人だな」
「……」
嫌味な人だ。警察とはかくも排斥思考が強いのか。
香は了承する代わりに、小さくため息をついた。
「分かりました。ではコーヒーを奢ってください」
「それは情報による」
「……後で泣きついても知りませんよ」
「はっ!」
倍以上の年齢の相手に、ずいぶんいっちょ前なこと言うじゃないか。
畠山はそう思いつつも、水のことが脳裏に浮かび、背中に冷や汗が伝うのだった。
2
畠山と香は、湊邸の近くにある喫茶店に入った。
奥にある二人用のテーブル席を選び、対面に座る。
「アイスコーヒーで」
「同じく」
手早く注文を済ませ、ウェイトレスが離れたところを見計らって、畠山が口を開く。
「で、表で言ってたのはどういうことだ?湊晋太郎に招待されていたというのは?」
「それに応える前に、教えてほしいことがあります。晋太郎さんが亡くなった状況について」
「おい、まだ彼が亡くなったとは……」
「先ほどの部下の方の反応を見れば分かりますよ。いずれ公表されるんですし、今はっきりさせてください。湊晋太郎氏は、自宅で亡くなっていたんですね?」
「……ああ、そうだよ」
この嬢ちゃん、見た目に反して頑固だ。
こちらがいくらか譲歩しなければなにも話すことはないだろうと踏み、畠山は情報を開示する。
「亡くなった状況は?あなたは刑事ですよね?所轄ですか?それとも警視庁の方?捜査一課ですか?」
「一課だよ。警視庁捜査一課の畠山だ。湊晋太郎さんは昨夜未明、自宅の庭にある池で溺れて亡くなったんだ」
畠山は正直に白状した。
香の目を見て、変な嘘は通用しないと判断してのことだった。
「池とは、錦鯉が飼われている池のことですね。では、私のような”自称”参考人の話も聞きたいくらいに、あろうことか捜査一課の刑事さんが切羽詰まっているのはどうしてでしょう?」
「ちょっと待て」
ストローでアイスコーヒーを吸いながら、勝ち誇ったような表情で聞いてくる香。
その顔を睨みつつ、畠山は待ったをかけた。
「なぜ、あの池で錦鯉が飼われていることを知っている?屋敷に行ったことがあるのか?」
香は門の前まで来ていたが、そこからは庭の池は見えない。
にもかかわらず、どうしてこの嬢ちゃんは錦鯉の存在を知っている?
「いえ、晋太郎さんから聞いていたんです。依頼のときに」
「依頼?」
「申し遅れました。私、探偵なんです。探偵らしい普通の依頼も受け付けているんですが、人智の及ばない未知のもの、怪異についての依頼も扱っているんです」
「は?」
絶えず走らせていた思考が中断してしまい、思わず声が出てしまった。
探偵?怪異?なにを言っているんだ?
目の前の少女が途端に胡散臭く思えてくる。
「……馬鹿馬鹿しい。探偵ごっこはいいから、早く招待されたことについて教えてくれ」
「鯉と話ができるようになったと、相談を受けていたんです」
「は?」
畠山の絶句は終わらなかった。
「ですから、湊晋太郎さんから、飼っている鯉たちと話せるようになったという相談を頂いたので、今日会う約束をしていたんです」
「嘘はいい、本当のことを言え」
思わず語気が強くなるが、自分でも無駄な脅し文句だと気づいていた。
この嬢ちゃん、一切嘘をついていない。目も表情も凪いでいる。真実を話す人の態度だ。
「嘘ではありません。私の携帯に依頼文のスクリーンショットが残っています。その文章の発信履歴が、おそらく晋太郎さんの携帯電話かPCにあるでしょう」
「……分かった。依頼についてはいい」
分かった、分かったよ。
目の前の女は高齢者からスピリチュアルな世迷い言を受け取り、依頼として解決してみせて高額の報酬を得ているのは分かった。
そういう詐欺行為は俺の領分じゃないが、後で署に来てもらう必要がありそうだな。
「よくありません。晋太郎さんが亡くなったことと関係があるかもしれないのですから」
「関係はない。いいからその依頼文とやらを……」
「見せる前に、晋太郎さんが亡くなった経緯を教えてください。教えて頂かないのであれば、私はこれ以上協力しません。詐欺師としてしょっ引くなりなんなりしてください」
「……」
思っていたことを当てられ、言葉に詰まる畠山。
この嬢ちゃん、怪しまれ慣れているな。探偵というのも、単なる自称ではないのか?
「煮るなり焼くなりなんなりと。ですが、事件は永久に解決しませんよ」
「嬢ちゃんからもらった情報を踏まえて、俺たち警察が調べる。嬢ちゃんの出る幕はない」
「そうですか?」
ここで香は、不敵な笑みを作った。
「案外この事件、私の領分かもしれませんよ」
「領分?その、怪異だって言いたいのか?」
畠山はなにを寝ぼけたことをと続けたかったが、できなかった。
体の内側全てを満たす、遺体の水のことを思い出したからだ。
「その顔、なにか異常なことがあったんじゃないですか?警察でも手を焼くような、異常なことが」
「……そんなものはない」
「強情ですね」
香は頭を引き、テーブルの下で足を組んだ。
「繰り返します。晋太郎さんの亡くなった経緯を教えてください。そうしたら、依頼文を見せます。被害者が生前来客の予定を入れていたという証拠は、捜査に大いに役立つのではないのですか?」
「……」
確かに、なる。少なくとも、計画的な自殺という線をほぼ消せる。
が、そのために一般人に捜査情報を流していいかと問われれば、否だ。
「捜査情報は漏らせない」
「そうですか。それなら、依頼文は見せません。もう必要ないので、手が滑って消去してしまいそうです」
「俺を脅しているのか?」
「いいえ、そんなつもりはまったくありません」
嘘たっぷりの顔つきをし、香は挑発を続ける。
「あなたから情報を得られなかったからといって、私は諦めませんよ。晋太郎さんが不審死した件は、私なりに徹底的に調べます。答えが出るまで」
「……」
「次は、顔に出たあの若い刑事さんに聞いてみるのもいいですね。あなたよりも事件の解決に前向きそうですし、色仕掛けでもすれば簡単に篭絡できそうです」
「やめろ。平塚は……」
「平塚さんというのですね。彼はまだ屋敷にいますよね?それでは、ごちそうさまで……」
「待てっ!」
握り拳でテーブルを叩き、出ていこうとする香を制止する畠山。
これでは、どちらが刑事か分かったものではない。
「……俺から聞いたことは口外しないか?」
周りの客と店員の注目を集めてしまい、いたたまれなくなって咳払いをしながら尋ねる。
「ええ、もちろん」
香は再び席に着いた。
「怪異を解決する探偵といったな」
「『解決する』ではありません、『扱う』です。私の力量では解決できなかったり、真実を推測するしかない事案もありますから」
「ずいぶん卑屈なんだな」
「救える命が救えなかったときもありました……」
さっきまで余裕そうだった笑顔に、影が差す香。
命の尊さと儚さ、それと自分の無力さを痛感している顔だ。
少しは信用できそうか。畠山は、香を詐欺でしょっ引くという未来の選択肢を消した。
「……まあいい。一度しか言わないからよく聞け」
「教えてくださるのですね」
「教えるんじゃない。参考人に事件の経緯を説明するのは普通のことだ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらの方だ。名乗り出てくれて感謝する」
双方かしこまり、ストローでコーヒーを一口飲む。
「亡くなったのは湊晋太郎、六十七歳の古物商だ。検死の結果、昨夜零時から六時の間に自宅の池で溺死したと考えられている」
「そんな夜更けに池で溺死……。おかしいですね」
「おかしいのはそれだけじゃない。被害者は甚平を着たまま入水しているが、転倒や溺れたときの抵抗の痕が一切なかったそうだ」
「それでは、意識を失った状態で溺れたのではありませんか?薬物を盛られたとか、酔い潰されたとかで」
「詳細な血液検査はまだだが、家の酒には手が付けられていなかった。庭も屋敷も荒らされた形跡がなく、第三者が侵入したという線は薄い。夜中に誰かと会っていたというのも今のところ確認できていない」
「他殺ではないということですか。いや、他殺を裏付ける証拠がないという感じですね」
「そうだ」
畠山はもう一度コーヒーを口に含んだ。
「現場を見た感想だが、俺も他殺ではないと思う。嬢ちゃんへの依頼が事実なら、計画的な自殺でもない」
「依頼文はこれです」
唐突に、香がスマホの画面を畠山に向けてきた。
「いいのか?重要な交渉材料だろ」
「畠山さんがそこまで話したのなら、私たちは一蓮托生ですよ。私はあなたを信頼します」
「……そうかい」
勝手に一蓮托生にされてしまったが、今更後悔しても後の祭りだ。
「スマホを預かってもいいか?」
「ええ」
画面にはつらつらと文章が表示されていたが、あまりに長すぎる。着信履歴も調べたいので、スマホの提出を求める。
畠山は背広の内ポケットから透明なビニール袋を取り出し、香のスマホをしまってポケットに収めた。
「ガイシャは妻との二人暮らしだが、事件当夜、妻は旅行で留守にしていた。さっき門の前で会ったのは庭師で、昨日庭の手入れをしていたそうだ」
「奥さんがいなかったのなら、第一発見者は誰なんですか?」
「おそらく家政婦だろう。俺はまだ話を聞けていないが」
「家政婦さんがいたんですね。それでお酒が減ってないことに気づいたと」
「そうだ」
端折ったのによく気づいたな、とは言わないでおく。
つけ上がりそうだからだ。
「なるほど。……晋太郎さんが亡くなった経緯は分かりましたが、今度は畠山さんが私を頼る意味が分かりません。なにか異常なことが、晋太郎さんの身に起きていたんですね?」
「ああ。詳しい解剖がまだだから推測になるが、多分俺たちの推測は当たってる」
「推測、ですか」
「ああ」
畠山の真剣な顔つきを見て、香も態度を改める。
畠山が香を詐欺師扱いしなくなったのと同じく、香の方も畠山が虚偽の情報を言わないだろうという信頼を寄せ始めていた。
「……推測というのは、遺体が、溺死体が水で満たされているというものだ」
「水で満たされている?溺死とはそういうものではないのですか?」
「いや違う。溺死すると普通、肺に相当量の水が溜まるが、おそらく晋太郎さんの遺体は肺も、胃も、腸も、鼻腔も、すべて水で満たされているはずだ」
「ちょっと待ってください。まだ解剖が終わっていないのに、なんでそんなことが分かるんですか?血液の検査もまだなんでしょう?」
当然、突っ込んでくるよな。
畠山は浮かんできた含み笑いを隠そうともせず、香の顔を見つめる。
あーあ、もうどうにでもなれ。刑事としてあるまじき破滅的な思考が、彼の脳内を支配していた。
「俺たちが手を焼いていて、嬢ちゃんの言う異常なことというのが、遺体に満ちた水だ。晋太郎さんと同じように水で満ちた溺死体が、三日前に発見されている」
「三日前……。もしかして、女性が浴槽内で溺死した件ですか?」
「そうだ」
畠山は、水上愛里が溺死した件の経緯も話した。
「水上さんは飲み会の後に溺死したと。お酒のせいで溺れたんでしょうか?」
「と考えているが、それだと遺体が水で満ちていることの説明がつかない。第一発見者によると、ガイシャは浴槽の底に沈んでいたそうだ。だから発見時、遺体が水で満ちていたのは間違いない」
「普通は、溺死体は浮くんですよね」
「ああ。俺も長いこと現場を渡り歩いているが、水に沈む溺死体というのは初めて聞いた。解剖所見で体内が水で満ちていたと聞いて、さらに驚いたよ」
「なるほど。被害者もしくは被害者の遺体が水で満たされていた、と」
「俺がこんなこと言っちゃいけないが、とても人間の所業ではない。人間の体を水で満たすなんて、物理的に不可能だ。たとえ溺れさせた後の遺体であってもな」
畠山からもたらされた夥しい量の情報を、少しずつ噛み砕きながら理解していく香。
ふと、そんな彼女の頭に一つの疑問が湧き上がる。
「胃の内容物はどうでしたか?水上さんは飲んでいたんですよね?」
「俺も解剖所見を何回も確認したが、胃腸は水で満たされていて、消化物や便は一切なかったそうだ。証言ではガイシャは普通に飲み食いしていたらしいから、そこもおかしいんだよ」
「吐いたり、腸を洗浄した痕跡は?」
「ない。少なくとも水上愛里の部屋の中にはなかった。外で胃腸の中身を出したという可能性もあるが、そうだとしても意味が分からない」
「そんなことをする理由がないですよね……」
「ああ。正直、理解不能だ」
遺体が水で満ちる現象。もしくは、体内が水で満ちて溺れ死ぬという現象。
数多の殺人事件や不審死を扱ってきた畠山でも理解のできない現象が、立て続けに二件も起こった。
これは一体どういうことなのだろうか。
「水上さんも晋太郎さんも、深夜に水に浸かって亡くなっていた……。晋太郎さんも池の底に沈んでいたんでしょうか?」
「それはまだ裏が取れていない。明日の捜査会議で聴取を行った刑事から報告があるはずだ」
「そうですか……」
「どうだ、なにか分かったか?」
香は渋い顔のままだが、畠山は一応聞いてみる。
こちとら藁をもすがる思いだ。湊晋太郎と水上愛里の無念を晴らすために、怪異探偵に情報を売ったのだから。
「遺体が水で満ちる現象の原理は、分かりません。私は解剖学者でも物理学者でもないので、超常的な現象を論理的に解明することはできません」
「……そうか」
「ですが、なぜ両名の遺体が水で満ちたのか、については推測できます」
「どういうことだ?」
「水で満ちた原理は分からないですが、理由はこうじゃないかと推測ができるという意味です」
原理は分からないが、理由が推測できる?そんなことがあり得るのか?
「で、その理由はなんだ?」
「現時点では話せません」
「そりゃないぞ、おい……!」
「そもそも根拠が薄すぎて、信憑性に欠けるんです。推測の信憑性を上げるために、調べが必要です」
「……そうなのか?」
「そうです」
鷹揚に頷き、香の口が滑らかに動く。
「まず、水上さんと晋太郎さんの住まいを調べさせてください」
「待った、現場を見たいって?」
「はい」
「無理だ、いくらなんでも……」
「畠山さんの協力があればできますよね?」
食い気味に言われ、圧倒される畠山。
「あのなあ、俺はそんなに偉く……」
「それと、水上さんの交友関係を再度洗い直してください」
「話を聞け!」
「必ず、人間関係の変化があるはずです」
「……人間関係の変化?確かに水上愛里は上司と不倫していたが」
「そこからの変化です。たとえば、その上司に奥さんと別れるように切り出していたとか」
「どうしてそんなことが分かるんだ?」
「まだ申し上げられません。推測に関わることですので」
「……そうかい」
畠山は溜め息を吐き、つうっとコーヒーを吸った。
「私は推測を裏付ける根拠を調べます。そして必ず、畠山さんに全てお教えします。ですのでどうか、現場を見せて頂けないでしょうか?」
香は氷の入ったグラスを脇にどけ、深々と頭を下げた。
ここに来てのしおらしい態度に、畠山は面食らってしまう。
「おいおい、こんなところでやめろ。……分かったよ、湊邸は今は無理だが、水上愛里の部屋なら多分行ける。これから時間空いてるか?」
「ありがとうございます。空いてます」
「なら善は急げだ。行くぞ」
畠山は伝票をひったくり、勢い良く立ち上がった。
「いえ、どちらかというと私たちの行動は悪ですよ」
香も笑いながら腰を浮かせると、ボストンバッグから財布を取り出した。
※※※
「もう引き払いたいんだけどねえ……」
「申し訳ありません。改めて確認したいことがありまして……」
適当に取り繕いながら、畠山は管理人がドアを開錠するのを待った。
ガチャッ、ギイィィ。
少し年季を感じさせる音とともに、水上愛里の部屋の玄関が開放された。
「じゃあ、終わったら声かけてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
畠山は丁寧にマンションの管理人を見送り、その姿が廊下から消えるのを確認する。
よし、もういいな。
念のため十秒ほど待ってから、部屋を出て廊下の手すりから階下を覗き込み、外の駐車場で身を潜めていた香に合図を送る。
「……ありがとうございます」
「嬢ちゃんの格好は目立つからな。こうでもしないと俺が大目玉を食らう」
三十秒後、部屋にやってきた香を出迎えつつ、畠山は愚痴をこぼした。
「これを履け、手袋もしろ。分かってると思うが、むやみにものを動かすなよ」
「心得てます」
「本当かよ」
透明なビニールの靴カバーと手袋を受け取った香は、しっかりと装着してから廊下に足を踏み入れた。
「きれいですね。第三者による侵入はなし、と」
「発見時、部屋には鍵がかかっていたからな。物盗りはないだろう」
「ちょっと待ってください。第一発見者は愛人の上司だったんですよね?」
「ずいぶんな言い方だが、そうだな」
「その方は合鍵を持っていなかったんですか?愛人とはいえ交際相手だったのでしょう?」
「あ」
なんでそんなことに気がつかなかったんだ、とでも言いたげな間抜けな声と顔を晒す畠山。
そうだ、そうだよ。そのはずだよ!愛人なら管理人に言わずに鍵を開けるはずだ!
なんでそんなことに気がつかなかったんだ!
「……そこも含めて、上司の方を詰めてみてください。きっと、被害者との関係の変化があるはずです」
「分かりました……」
もはや、完全に力関係が逆転していた。
「バスルームはこちらですね。遺留物は当時のままですか?」
「事件に関係ないものは手つかずのはずだ」
「了解です。わ、すごいですねえ……」
洗面台に対面した香は思わず、感嘆の声を上げた。
流しの横の収納棚には粉末状や固形状の多種多様な入浴剤が収められており、奥には未開封のシャンプーやボディソープのボトルがいくつも立ち並んでいる。
流しの縁に置かれている普段使いの化粧水や乳液の種類も豊富で、とても一人で使っているとは思えないほどの量がある。
「身だしなみに、特に入浴関係にお金をかけるタイプですね。こちらはどうでしょう」
「うっ」
流しの下の戸を開けると、むせかえるような芳香が二人の鼻を襲う。
そこにはバスソルトや手のひら大のバスボム、バラの花びらといったリッチな入浴グッズが所狭しと詰められていた。
「贅沢品はここに置いとくんですね。おそらく、愛人が勝手に使わないように隠していたんでしょう」
「そこまで分かるのか……」
香の即興のプロファイリングに、感心する畠山。
捜査のプロが呆気に取られてどうする。
「浴槽は、水は抜いてありますね」
「検査用にサンプリングして、あとは排水してある」
「発見時、遺体が沈んでいたのを目視で確認したと言っていましたが、入浴剤は使用されていたんですか?」
「いや、なにも入れていない普通のお湯だったそうだ。目視でも無色透明だったし、成分検査でも入浴剤の添加は認められなかった」
「そうですか」
「多分、酔っていて入浴剤を入れるのを忘れていたか、酔った体に入浴剤は刺激が強いと思ってなにも入れなかったんだろう」
「ふむ……」
畠山は自分の見解を述べたが、香は納得がいっていないようだった。
「あるいは、入浴という儀式自体を重んじたか……」
「なんだって?」
「いえ、なんでもありません」
香は思案顔を解消すると、踵を返して畠山の前を通り過ぎた。
「こちらがリビングですね」
「ああ。今はないが、テーブルの上にノートパソコンが置いてあった。パスワードを解析して中身を精査したが、特にめぼしい情報はなかった」
「そうですか」
正面の窓を覆うカーテン、中央のローテーブルと床のカーペット、向かって右側の壁掛け時計を順に一瞥した後、香は興味なさそうな生返事をする。
「キッチンも、至って普通ですね」
香は次に、廊下から見て手前にある台所に足を運んだ。
冷蔵庫の扉を開けて中身を確認し、隅に置かれたゴミ箱を覗き込んでから、満足げな表情で畠山の下へ戻る。
「部屋は以上ですか?」
「ああ。実は二部屋あるとか、そんなからくりはない」
「そうですか。では出ましょうか」
雛菊香に皮肉は通用しなかった。
香と畠山はいそいそと、水上愛里の部屋をあとにする。
「私のスマホの鑑定が済んだら、この番号にかけてください。昼間だったらつながると思います」
「分かった」
「では」
「期待してるぜ、探偵さんよ」
「多分畠山さんの望む結果ではないので、期待しないでください。それでは」
「そうかい」
かわいくないな。世辞は素直に受け取っておけっての。
だが、信頼はできそうだ。
畠山巡査部長は不思議な信頼感を込めて後ろ手を振り、別れのあいさつを交わした。
3
しかし、事件は終わらなかった。
畠山が香と邂逅した翌日、三人目の犠牲者が出たのだ。
畠山は平塚と現場である私立高校のプールの入口に向かうと、ちょうど鑑識課員が遺体を運び出すところだった。
「捜査一課の畠山だ。ちょっといいか?」
「はい、お疲れ様です」
鑑識課員は担架をその場に置き、遺体の袋のジッパーを開ける。
畠山と平塚は、赤い水泳帽と青い水泳用ゴーグルを頭につけ、目、口、鼻、耳から水が漏れ出ている遺体の顔を確認することができた。
「学生か……。気の毒に」
「被害者の担任と第一発見者の生徒は会議室で事情聴取を受けています。現場をご覧になったらいらしてください」
「はい、ありがとうございます」
一足先に現場に到着していた所轄の刑事と平塚が情報交換している間にも、畠山は遺体の観察を続けていた。
競泳水着の端をめくると、肛門から水が流れ出てくる。
「水が止まらないな。遺体は重いんだよな?」
「え、ええ。百キロはあるんじゃないかと思います。ここまで運ぶのが大変で……」
「そうか、ありがとう。もう大丈夫だ」
「はい」
鑑識課員に運搬を再開させ、畠山はプールを見てみることにした。
右が男性用、左が女性用の更衣室だったので、右から入る。
「……」
塩素臭く湿った更衣室の中には、なにもなかった。ガイシャの遺留物はすでに持ち運ばれた後なのだろう。
畠山はビニールの靴カバーを足にはめ、プールへの出口へと足を運ぶ。
数歩すると塩素の臭いがより強くなり、きれいな水色をした水面が見えた。
「普通のプールだな」
長辺が二十五メートルの一般的な学校用のプールと、深緑色のゴム材が張られたプールサイド。プールの横五メートル間隔にはコースロープが浮いている。
風が吹いておらず、プールの水面は不気味なほどに平らだった。
ここで、ガイシャの男子高校生が溺れ死んだ。水上愛里や湊晋太郎と同じように、体の内側が水で満ちた状態で。
「……」
なだらかな水面を睨みつつ、畠山は思考する。
きっと、あの男子高生もプールの底に沈んでいたんだろう。そしておそらく、昨夜の深夜に溺れた。
プールは至って普通だ。実際に浸かるわけにはいかないので目視した感想になるが、水深は百二十から百四十センチメートルほどだろう。平均的な身長の高校生なら顔を空気中に出したまま足がつくはず。
担架に横たわるガイシャは背が低いという風ではなかった。むしろ、結構高い方だった。
遺体は競泳水着を着用していたから、事故が起きたとき、ガイシャは泳いでいたと考えられる。夜中の学校に忍び込んで泳ぐくらいだ、水泳に並々ならぬ熱意があったのだろう。
そんな彼が夜中で暗いとはいえ、不注意で溺れたとは考えにくい。
となると、第三者による他殺か?ガイシャの他にも夜のプールに忍び込んだ誰かがいて、その誰かが彼を手にかけたのか?
いや、それも考えづらい。遺体は不自然なほどきれいだった。前の二件同様、溺れたときに抵抗してできるあざや自傷の痕が一切なかった。
現場もこの通り、異常はなにもない。
「なんにせよ、事情聴取だな」
現場の状態は分かった。水上愛里と湊晋太郎の件同様、第三者による痕跡はなし。
これでますます、畠山はあの怪異探偵とやらを頼らざるを得ない状況になった。
「畠山さん、どうです?」
追いついてきた平塚が尋ねる。
「どうもこうもない。なんの変哲もないただのプールだ」
「前の二件と同じですね」
「ああ」
今朝上がってきた湊晋太郎の解剖結果は、水上愛里と同様に遺体が水で満ちていたことを報告した。
捜査会議に出席していた刑事たちはもはや驚かなかった。ただ粛々と、溺死体が水で満ちているという事実を受け止めるしかなかった。
「本当に、どうしてなんですかね。どうして水が……」
「分からん。俺たちはただ捜査するだけだ」
平塚には、香のことはただの参考人としてしか伝えていなかった。部下を危険な捜査に巻き込むわけにはいかないという、畠山なりの気遣いだった。
「関係者に聞き込みをしてくる。平塚はプールと更衣室を改めて調べておいてくれ」
「……分かりました」
暗についてくるなという畠山の意図を汲んで、平塚は了解してプールサイドを歩き始めた。
「一時間後に校門で集合で」
「はい」
畠山はそう言い残すと踵を返し、プールを出た。
※※※
正面玄関から校舎に入ると、畠山はすぐさまトイレに駆け込んだ。
一番奥の個室に入り、昨日香からもらった番号に通話をかける。
「もしもし」
「お電話ありがとうございます。こちら明和大学の春道研究室でございます」
明和大学?あの探偵、女子大生だったのか。
畠山は意外な通話先に若干驚きながらも、次の言葉を探す。
「私、警視庁捜査一課の畠山といいます。そちらの研究室にいらっしゃる雛菊香さんにつないで頂きたいのですが」
「雛菊ですね。かしこまりました」
丁寧な返事とともに、留守番電話のメロディが流れる。
数秒経たずして、音楽は止んだ。
「はい。こちら雛菊香です」
「昨日ぶりだな、探偵さん」
「畠山さんですか。スマホを返して頂けるんですか?」
「それはまだだ。今時間空いているか?」
「あー……、空いてます」
本当か?
畠山は訝しんだが、気にしないことにした。本人が空いてると言うのなら空いているのだろう。
「簡潔に言う。二件目のガイシャも体内が水で満ちていたという解剖結果が出た。そして、おそらく昨夜、三件目の事件が起きた」
「……どこですか」
「私立、日の出高校だ。なるべく急いで来てくれ」
「分かりました。それでは」
「ああ」
通話を切ると、マップのアプリを開く。
明和大学から日の出高校までの距離は……。
「げっ、タクシーでも三十分かよ……」
トイレに閉じこもる時間が確定し、畠山は嘆息をこぼすのだった。
※※※
三十分後。
謎の腹痛によりトイレにこもっていた畠山と、タクシーをかっ飛ばして日の出高校にやってきた香が合流した。
「意外と早かったな。どうやって学校の敷地内に入った?」
「事件が気になって早退の迎えに来た保護者、という体で入れてもらいました」
「大した口八丁だな」
「褒めてもなにも出ません」
褒めてないんだが……。
畠山は気を取り直して、会議室を探し始める。
幸い、会議室は畠山の立てこもっていたトイレの近くにあった。
「ここだな。ちょっと待ってろ。……失礼します」
コンコンとノックをし、引き戸を少し開けて中に誰かいるかを確認する。
担任の女性と女子生徒だけか。警察はいないな。
畠山は安全を確認すると、親指を立てたグーサインで香に合図をし、入室する。
「失礼します」
「お待たせしてしまい申し訳ありません。少々体調が優れず……」
揉み手をしながら言い訳し、担任らしき女性の前の椅子に着席する畠山。
香は第一発見者とみられる女子生徒の前に座った。
「改めまして、私は警視庁捜査一課の畠山といいます」
「同じく、雛菊です」
なにが同じく、だ。
と思ったが、スルーする。
「浅田の担任の、白戸です」
「第一発見者の、二年一組の天ヶ崎です」
ガイシャは浅田というのか。周辺情報を仕入れた平塚を置いてきてしまったので、畠山は経緯を知らずじまいでいる。
「重ね重ねで申し訳ないのですが、いくつかお伺いしたいことがありまして……。もう少々お時間頂けますか?」
「はい、大丈夫です」
「私も、大丈夫です……」
白戸という教師はまだ余裕がありそうだが、天ヶ崎と名乗った女子生徒は顔色が悪い。
香が見つかったらとんでもないことになるので、畠山としても時間はかけたくなかった。
「それではお聞きします。まずはガイシャ、浅田くんのご遺体を発見された経緯について、お話し頂けますか?」
畠山は努めて優しく、天ヶ崎に話を振った。
「はい……。今日、私のクラスは一限が体育で、プールで水泳をする予定だったんです。それで、水着に着替え終わって点呼が終わって、プールに入りました」
「そこまでは、いつも通りの授業を受けるときの流れでしたか?」
「はい……、変なところはなかったと思います。その後は水の中で体操するので、私は他の人の邪魔にならないように、プールの真ん中まで軽く泳いでいたんですけど、そのとき……」
「プールの底に沈んでいる、浅田くんのご遺体を発見した?」
肯定の代わりに、天ヶ崎は苦渋の表情を作って何度も頷いた。
「私は訳が分からなくて、誰かが潜ってるのかと思って……。『ふざけるのやめなよ』って言って、無理やり体を持ち上げたんです。でも、重くて……」
「水の中にもかかわらず、異常な重さを感じたんですね?」
「はい……。それで、それでなにかおかしいなって思って顔を見てみたら、とても生きている表情じゃなくて……」
「そこで初めて、浅田くんという男子生徒が亡くなっていることに気づいた?」
「はい……」
天ヶ崎は話すことは話したとばかりに、俯いてしまった。
「天ヶ崎さんが叫んで、授業を担当していた私も異変に気づきました。すぐに彼をプールサイドに引き上げ、蘇生の処置を試みたのですが……、息を吹き返すことはありませんでした」
「なるほど。白戸先生は浅田くんのクラスの担任でありながら、プールを担当する体育教師でもあったのですね」
「はい。ですが、まさか浅田くんが溺れているとは思いませんでした。天ヶ崎さんのクラスとは学年が違うので」
学年が違う生徒がプールから上がってきたら、誰だって驚くだろうな。
畠山は納得しつつ、質問を続ける。
「参考までに、白戸さんの担当クラスをお聞きしても?」
「三年二組です」
「つかぬことをお伺いしますが、浅田くんは水泳部に所属しているのではないですか?」
「はい。かなり打ち込んでいたようで、先月あった最後の大会で準優勝だったのが悔しくて、部活を卒業したくないと言っていました」
「部活を卒業というのは、受験に専念するためですか?」
「はい。近頃の子たちはほとんどが大学進学を志望するので、夏までに部活を終わらせて、それからは勉学に励むようなカリキュラムを組んでいます」
「でも、浅田さんはそれに納得していなかった?」
「はい。体育大学にはスポーツ推薦の枠があるので、本人は水泳の腕を磨いてそちらに挑戦したかったみたいなんですが、親御さんが厳しい方々でして……。偏差値の高い有名大学に一般入試で受験させたがっていて、度々揉めていました」
「白戸先生も感知するほど揉めていたんですね」
「まあ、はい。よくあることといえばよくあることなので、私は特に違和感とかは感じなかったんですけど、浅田くんにとっては大きなストレスだったんでしょうね……」
「先生が気に病むことはありません。教師として、やるべきことをやっていたんですから」
本人が希望する進路と親が希望する進路の食い違いは、誰が悪いという話ではない。ましてやガイシャが自殺したという明確な証拠がない今の段階で、担任が責任を感じる必要はない。
そう思った畠山は精一杯、白戸先生を励ました。
「浅田さんは水泳が大好きだったのですね。では進路のこと以外で、浅田さんの周りでおかしなことはありませんでしたか?」
畠山の質問の手が緩んだところで、香が口を挟んだ。
「特に、なかったと思います。勉強は優秀というわけではありませんでしたが、彼なりにがんばっていました」
「そうですか。異性との交際はありましたか?」
「……わ、私は把握していません。水泳一筋でしたし、いなかったんじゃないでしょうか」
教師に生徒の交際関係について聞くやつがいるか。
畠山は横の香を睨みつけ、黙らせる。
「質問を変えます。浅田さんは昨日の深夜、プールに忍び込んで泳いでいた最中に溺れたと思われます。これを聞いて、どう思われましたか?」
「どう、ですか……」
香の攻めた質問に、白戸先生が黙り込む。
「私は仕事で夜遅くまで残ることはありますが、深夜までいたことはありません。宿直は警備の方に任せていますので……」
「いえ、深夜に忍び込んだことではなく、浅田さんは深夜に忍び込むほど水泳が好きだったのかについてお聞きしたいのです」
「それは、彼ならやりかねないと思います」
「ほう。それくらい、彼は水泳を愛していたのですね?」
「はい。きっとそうです」
体育を担当する担任が断言するくらいだ。ガイシャの水泳好きは筋金入りだったんだろうな。
なんで、そんな人が溺れ死ななきゃならないんだ。
畠山は誰にも気づかれないように唇を噛んだ。
「……それでは最後に、浅田さん以外のことについてお聞きします。ここ最近で、なにか変わったことはありませんでしたか?不審者を見かけたとか」
「特にありません。もうすぐ夏休みなので皆気が緩みがちではありますけど、それもおかしいって程では」
「そうですか、ありがとうございます」
香は丁寧に腰を折り、白戸教師に礼をする。
畠山はそれを、聞きたいことはもうない、というサインとして受け取った。
「それでは、ありがとうございました。聞きたいことは聞けましたので、自由になさって頂いて結構です」
「ありがとうございました」
半ば一方的に感謝を述べ、畠山と香は会議室をあとにした。
「ガイシャの浅田さんは無類の水泳好きってことと、深夜に警備の目を盗んでプールに侵入したらしいってことは分かったが、探偵さんはどうだ?」
「それさえ分かれば十分です。あとは、少し調べれば」
香は手応えを感じているようだった。
「遺体が水で満ちたことの原理は説明できないが、理由は推測できる、だったか。ちょっとヒントをくれないか?」
廊下の行く手を塞ぎ、畠山が高圧的に問う。
「ヒントですか」
対して香は顎に手を当て、考えるような素振りをした。
「浅田さんと彼の両親との軋轢が、ヒントと言えるでしょうか」
「両親だな。早速当たってみる」
とここで、畠山の携帯が着信を知らせてきた。
「スマホ、早く返してくださいね」
「また連絡する。……はいもしもし」
ぶっきらぼうに言い渡し、畠山は香と別れた。
※※※
電話をよこしてきたのは平塚だった。
「湊氏の奥さんが戻ってきたそうです。今所轄署に出頭してもらっています」
「ああ、北海道に旅行していたっていう、シノさんか。至急向かう」
携帯を切り、畠山は校舎を出て校門に向かう。今さっき別れたはずの、香の姿はどこにもなかった。
「調べることが多すぎるな……」
それが刑事の本懐ではあるんだが、いかんせん三つの事件をつないでいる遺体に満ちた水のことが不可解すぎる。
つい、俺たちのような凡庸な捜査官がいくら調べても、答えにたどり着かないのではないかという不安が過ってしまう。
まあ、そのためのリーサルウェポンだ。俺はあの探偵さんに期待するしかない。
そんなことを思いつつも所轄署に急行し、取調室に入る。
「お疲れ様です」
平塚は隅の机の上にノートパソコンを広げ、記録係としてスタンバイしていた。
部屋の中央にいる、派手な装飾品とブランド物の洋服に身を包んだこの女性が湊夫人だろう。
湊シノは、署の備品であるパイプ椅子の上に居心地悪そうに座っていた。
「これじゃあ、まるで犯人みたい」
開口一番、冷ややかにあてこすってきたが、畠山は無言でスルーした。
「あくまで任意の聴取ですので、答えたくない場合は拒否して頂いても構いません。また、途中でご退席したい場合は……」
「いつでも退席していいって言うんでしょ。刑事ドラマで見たわ」
「……それでは、聴取に入ります」
どうも、気が狂う。
旦那が不審死したというのに、この落ち着きようはどういうことだ?
「あなたは晋太郎さんが亡くなる二日前から、老人会の集まりで北海道に旅行していたとのことですが、旅行前、晋太郎さんになにか変わったことはありませんでしたか?」
「ありませんよ。いつもと変わらず鯉と話してばっかり」
「鯉と、ですか?」
「日が出てから沈むまで、池の縁に立って鯉の相手ばっかり。もう何年もそうですのよ。しまいにゃ『鯉と話せるようになった』とか、『鯉の気持ちが分かるようになった』とかぬかし始めたもんだから、私は愛想尽かしました」
昨日、畠山は香のスマホにあった晋太郎の依頼文を読んでいたので、話に置いていかれることはなかった。
依頼文の内容は、晋太郎が自宅で飼っている鯉を溺愛するあまり、鯉と話せるようになり、一匹一匹の気持ちを理解できるようになった。鯉との意思疎通が本当にできているのかを確かめるために、怪異探偵である香の力を借りたい、というものだった。
「晋太郎さんの鯉への愛情は、相当なものだったんでしょうね」
「はっきり言って、頭がおかしくなったんだと思いました。いや、今も思っています。池で溺れ死んだって聞いても、ちっとも驚きませんでしたわ」
ガイシャと奥さんの間の仲は、やっぱり冷め切っていたか。
旦那が死んだと聞いて一切悲しむ様子のないシノに畠山は動揺することなく、聴取を続けていく。
「晋太郎さんが鯉を飼い始めたのは、いつ頃からですか?」
「そうねえ、十年前に今の屋敷を建てて、それから七年くらい経った後だから、大体三年前ね。知り合いから安く譲ってもらったと喜んでましたわ。あんな鯉狂いになるんだったら、そのとき止めればよかった」
「……落ち着いてください」
ほっといたら延々と旦那の愚痴を言いそうだ。
畠山は呆れつつも、妙な違和感を覚える。
晋太郎氏は、鯉に並々ならぬ愛情を注いでいた。浅田くんは、水泳を生き甲斐にしていた。そして水上愛里は、高級グッズを揃えるくらいの風呂好き……。
三人とも、水にまつわるなにかを愛していた……?
畠山の頭の中で、なにかが弾けた。
「平塚、後は任せた」
「え?なに言ってるんで……」
「行かなきゃならないところができた!行ってくる!」
畠山は取調室を飛び出した。
※※※
そのままの勢いで所轄署も飛び出した畠山は、日の出高校に舞い戻った。
階段を駆け上がって二階の職員室に飛び込み、弁当をぱくついていた白戸先生に詰め寄る。
「け、刑事さん!?」
「浅田くんの、ご両親の連絡先を教えて頂けませんか!?至急、確認したいことがあります!」
「分かりました……」
周りの職員の目も厭わず、用件だけ伝えた畠山は白戸から連絡先の書かれたメモを受け取った。
職員室を飛び出し、廊下を走りながら携帯で番号にかける。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴り、昼休みになった。教室から生徒たちがはちきれんばかりになだれ込んでくる。
「くそ、」
今ばかりは止めてくれるな!
畠山は生徒と衝突しないようにしながら、なるべく急いで校舎を出た。
「お電話ありがとうございます、九十九商事でございます」
「警視庁捜査一課の畠山といいます!そちらの浅田さんを出してくれ!大至急だ!」
「た、ただいまお待ちください……」
まくしたてるような怒声で電話係を委縮させてしまったが、四の五の言ってられない。確かめなくてはならないのだ。
「お電話変わりました。浅田です」
「息子が亡くなったのに仕事の手は止めないんですか!……いや、そんなことを言いに電話したんじゃないっ!あなた息子さんに、水泳をやめるよう迫っていたそうですね!」
「……な、なんですか急に!」
急に責められ、電話越しの声が色めき立つ。
畠山は浅田との通話を維持しながら、マップアプリを開いて水上愛里の勤め先、鳳凰印刷株式会社の住所を検索する。
「あなたは息子さんを偏差値の良い大学に行かせるために、彼が好きで好きでたまらなかった水泳をやめさせたんですね!部活も卒業させ、水泳を断つように強制した!」
もはや糾弾だった。息子を頭の良い大学に進学させるのは親として真っ当な判断なのに、畠山にはそれが許せなかった。
「そうです、それが悪いんですか。私は親として、勝紀のことを思って最善の判断をしただけです!」
しょうき。亡くなった浅田くんは、勝紀っていうのか。
鳳凰印刷の住所は分かった。あとは急ぐだけだ。
畠山は最寄りの駅へ向かって全力でダッシュした。
「特に最近、勝紀くんに強く迫ったんじゃないですか!?水泳をやめろ、水泳のことは忘れろ、水泳なんかできたってなんの役にも立たない。そんなことを言って、勝紀くんを追い詰めませんでしたか!?」
「そんなことはしていない!私はただ……」
「ただ、なんですか!?」
「後生だから水泳をやめて勉強してくれと、頼み込んだだけだ。勝紀もそれで納得してくれた」
「馬鹿野郎!」
畠山は電話に向かって怒鳴った。
「それが一番勝紀くんを傷つけてたって、どうして気づかないんだよ!親にへりくだって頼まれたら、子は飲むしかねえんだよ!どんなにやりたくないことでも、やるって言っちまうんだよ!」
「……」
「……分かってねえみてえだからはっきり言うぞ。勝紀くんは自ら命を絶った。進路に悩んで、自殺したんだ」
まだ立証もされていないのに、遺族にとって最も残酷な宣告をする畠山。
今した行動とこれからする行動に対して、どんな責任も負う覚悟が、彼の中では既にできていた。
駅に着いた。利用客の迷惑にならないように迅速に走り、改札を抜けて準急電車に乗り込む。
「どうか母親と一緒に、悔いてくれ」
最後はぽつりと呟いて、乱暴に通話を切った。
電車が発車し、がたんごとんという規則的な揺れが畠山の気分を鎮めていく。
あとは、あの新井とかいう浮気上司に話を聞くだけだ。
電車は停車と発車を繰り返し、ついに鳳凰印刷の最寄り駅に到着した。
畠山は素早く電車を降り、改札を出て会社に向かう。
自動ドアをこじ開けて会社の建物に入り、『インフォメーションカウンター』という看板がぶら下がっている窓口めがけて走る。
「危ないですので……」
「警視庁捜査一課の畠山だ。至急新井智親を呼んでくれ!」
「アポイントメントは……」
「いいから速く!」
警察だと名乗っているのに杓子定規な対応しかしない窓口係にいらつきながら、畠山は新井が降りてくるのを待った。
数分後、明らかに困惑した様子の新井がカウンターに向かってくる。
「あなたが新井さんですね?亡くなった水上さんの上司で、浮気相手の」
「い、いきなりなんですか浮気って!やめてくだ……」
「いいから答えてくれ!あなたは浮気がばれたかばれそうになったかして、水上愛里に交際を解消するよう迫ったんじゃないのか?違うか?」
「……そ、そんなことしてませんよ!そもそも浮気なんて……」
「本当にしていないのか?ごまかすと後々不利になりますよ?」
怒りと焦りで口調が不安定になっていると自覚しつつも、追及の手を止めない畠山。
「交際を一方的に解消したか、解消するよう迫った。根拠は遺体を発見するときにあなたが合鍵を使えなかったこと!違いますか!?」
「……そうです」
誘導尋問だと非難されようが、はっきりさせたかった。
水上愛里もまた、浅田勝紀と同じく、どうしようもない現実に打ちのめされていたのだと、はっきりさせたかった。
「これで分かったよ。……水上愛里は自殺だ。愛するあなたに見放され、死を選んだんだ」
「そんな……!」
「そんなことないと、言えますか?水上さんはあなたを、かけがえのない存在として愛していたんじゃないですか?」
「……」
新井はなにも答えなかった。
「精々、悔いてくれ。俺が言えるのはそれだけだ」
最後にぽつりと言い残すと、畠山は鳳凰印刷株式会社を飛び出した。
来た道を引き返し、走りながら平塚に電話をかける。
「畠山さん、一体どうしたん……」
「シノさんはまだ署にいるか!?」
「え、先ほど帰られましたけど……」
「ちょうどいい!あの屋敷まで送って差し上げろ!俺から話があると伝えてな!」
「っはい!分かりました!」
まったく、平塚は最高の部下だ。
畠山はしみじみ思いつつ、湊邸方面に向かう電車に飛び乗った。
「俺だ!開けてくれ!」
「今開けます」
畠山が湊邸のインターホンを鳴らしたのは、それから三十分後のことだった。
なぜか平塚の声で応対が返ってきて、自動で門扉が開く。
畠山は敷地内を走り、屋敷の玄関から中に入った。
「そんなに急いで、どうしたんですか?」
剥き出しになった木目に暖色のライトが照らされた瀟洒な作りの壁に囲まれたリビングルームのほぼ中央に、安楽椅子に腰かけた湊シノがいた。
傍らにはまるで執事のように、平塚が控えている。
「畠山さん、まずは落ち着いてください」
「おお、ありがとう」
平塚がコップに麦茶のようなものを注ぎ、畠山に手渡した。
なんで家政婦みたいなことしてるんだ?
「本題に入ります。湊晋太郎さんは確かに鯉に盲目でしたが……」
「『鯉に盲目』ですって、おもしろい!」
「おもしろくありません!」
ハハハと笑うシノに、畠山は一喝する。
「……そんなに怒ることはないでしょう?」
「確かに彼は鯉にのめり込んでいましたが、だからといって愛想を尽かすなんてかわいそうではありませんか?」
「かわいそう?かわいそうなのは私の方よ。何年も放っておかれて……!」
「そう!あなたは自分で放っておかれたと思い込んで、歩み寄ろうとしなかった。『鯉狂い』なんて冷やかして、旦那さんと向き合おうとしなかったんです!」
「あなたに、なにが分かるっていうの!!」
シノが激昂し、立ち上がった。
弾みで指輪やブレスレットどうしが擦れ、鈍く不快な音を発する。
「あの人がおかしかったの!私は悪くない!北海道の旅行だって、鯉の面倒を見ないとって、断ったのは主人の方だった!」
「晋太郎さんは、あなたと鯉と一緒に、この家で静かに過ごしたかったんじゃないですか?」
「……!」
シノが息を飲む。
「晋太郎さんはここ数年、古物商としての仕事を極力減らし、この家に居るようにしていました。もちろん、鯉の世話をするようになったのも理由として考えられますが、あなたとも暮らしたかったのだと思いますよ」
「嘘!そんなの噓よ!私にはちっとも……!」
「晋太郎自身も、あなたの存在に甘えていたんでしょう。いつも必ずいてくれる存在だと思ってしまって、ついついないがしろにしてしまった」
「……」
「大切な家族の存在は、いるときには気づきにくいものです。失って初めて、その大切さに気づくんです」
「それじゃあ、主人は……」
「あなたの心が自分から離れていることに気づき、鯉に依存するようになっていったんでしょう。ただの私の推測ですが」
怒りと憎しみをたたえた老婆の顔に、悲しそうな後悔の色が混ざり始めた。
「鯉に執着するようになり、ますますあなたは晋太郎さんを避けた。その結果、晋太郎さんは鯉と意思疎通できるようになったと、妄言を漏らすようになってしまった」
「全て、私のせいなの……?」
「真実は誰にも分かりません。私の推測ですので、責めるならせめて、晋太郎さんではなく私を責めてください」
「責めるだなんて、そんな……」
一瞬にして全身から生気がなくなり、湊シノはくずおれた。
「私にあなたを責める資格なんて、ありませんよ……」
塞ぎ込んだ腕の間からかろうじて聞こえた最後の一言の後、老婆のすすり泣くような嗚咽が広い屋敷に木霊した。
4
水上愛里も湊晋太郎も浅田勝紀も、人間関係の重大な悩みを抱えており、それが爆発寸前だった。
なおかつ、水上愛里は入浴、湊晋太郎は鯉、浅田勝紀は水泳という、水にまつわる物事を愛していた。
悩みが解決不能なことを悟った三人は死を決意し、最期の夜に好きなことにまつわる行動をした。水上愛里は入浴。湊晋太郎は鯉の餌やり。浅田勝紀は水泳。
そしてその結果、彼らの遺体は水で満ちた。
これが、彼らの遺体が水で満ちた理由ではないか。畠山はそう確信していた。
「うーん、半分正解ですね」
スマホを返すため、明和大学の春道研究室を訪れた畠山に突きつけられた正誤判定は、なんとも微妙なものだった。
「被害者の背景と行動原理は合っていると思います。決死の体当たりが功を奏しましたね」
「……やめろ」
香はなぜか、畠山が職権乱用の限りを尽くして浅田、新井、シノを歴訪していたことを知っていた。
「ですが、肝心の水で満ちた理由。これの説明ができていません」
「説明しただろ。水にまつわる物事が好きだから……」
「それが、少し弱いんです」
香は人差し指をぴんと立てた。
「畠山さんは結婚されていないようですから、婚活で例えましょう」
「うるさい」
左手の薬指になにもはまっていないことを盗み見られ、噛みつく畠山。
「畠山さんは、いくら自分を好いていたとしても、自分のタイプではない女性と添い遂げようとは思いませんよね?一般的に考えて、です」
「ま、まあ普通はそうだな」
「それと同じことです」
「はあ?」
説明になっていないぞ。意味が分からない。
畠山は首を捻り、答えをせがんだ。
「ここからは、いささかぶっ飛んだ話になります。それでもよろしいですか?」
「ああ。答えが分かればなんだっていい」
どうせ俺がいくら考えても、答えは分かりそうにない。
早く、遺体が水で満ちた理由を教えてくれ。
「では、遺体を水で満たすという奇跡を起こす存在、ここでは水の神としましょう。この水の神なる存在は、一体誰に微笑みますかね?」
「水の神ぃ?まあいい。……誰に、か。水上愛里や湊晋太郎といった、水関係のことを愛している人じゃないのか?」
「半分正解です。それでは、対象が広すぎませんか?種類や程度は違えど、水や水にまつわるものを愛している人なんて日本にはごまんといますよ」
「深夜に特定の行動をした人なら、絞り込めるんじゃないか?三人とも、深夜に溺れて亡くなっている」
「確かに、時間というのも重要なファクターです。水の神が奇跡を施す対象を絞り込む、要素の一つになっていると思います。ですが、まだ候補が多すぎる。水への愛はある。満水の奇跡を起こすにふさわしい深夜に人気のない場所で、水に触れている。ここにあと一つ絞り込む要素を加えるとしたら、畠山さんはなにを選びますか?」
「うーん、年齢や性別はバラバラだから違うよな……」
「ヒントは、水上、湊、浅田です」
「……あ、名前!」
「そうです。もっと正確に言うと、血統ですね」
香は出来の良い子を褒めるように、優しく付け足した。
「血統?」
「日本人の名字にはは、先祖が成していた家業や住んでいた地形の特徴が反映されます。水上、湊という名字の並びを見て、私は彼らの血統を調べることを思いつきました」
調べ物というのは、血統のことだったのか。
畠山は一人腑に落ちた。
「色々伝手を使って調べたところ、水上愛里さんの祖先は湧き水が豊富な水源を含む山間部一帯を管理する、地主だったそうです。水上愛里さん自身が水を愛していたことに加えて、彼女の先祖も水を愛していたんです」
「先祖も?それが、満水の対象となる条件なのか……?」
「そうです。湊晋太郎さんは、船を利用した貿易を盛んに行っていた裕福な商家の末裔でした。彼もまた、彼自身が水を愛しているのと同時に、彼の祖先も水を愛していたのです」
「じゃあ、浅田くんも?」
「はい。浅田さんの母方の実家は代々続くコメ農家でした。田んぼには水が不可欠ですから、彼のご先祖様も水を愛していたのだと思いますよ」
「満水は、血統と水への愛で起きていたのか……」
畠山は崩れ落ちそうになった。
真相は、ずいぶん呆気ないものだった。
ただ、香が言っていることは事実をいいように解釈した推測でしかない。満水の原理は、人間には理解できない現象として片づけるしかない。
明らかになったことは到底、真相とは呼べないかもしれない。
だが、人間はそれで納得するしかない。
不可思議な現象、異常な存在が関わってしまえば、人間の理解の範疇を越えた結果がもたらされることもある。
満水という不可思議な現象、それと水の神と呼んだ異常な存在は、一個人の人間風情が理解できる代物ではないのだ。
「……なんにせよありがとう。納得できたよ」
「私も清々しました。まさか自殺したと直接伝えるなんて」
「まだ言うか……」
「でも、私はあなたの行動に賛同しますよ。あなたはあなたなりの行動で、被害者の無念を晴らした」
「よせ。俺に待ってるのは、何枚もの始末書だけだ」
「ふふ、そうですね」
香は笑顔で締め括り、ゆっくりと立ち上がった。
「またどこかで会ったらそのときは、協力してください」
「もう勘弁だ。じゃあな」
畠山は鼻で笑って一蹴し、今度はちゃんと礼を言って香と別れるのだった。