退院前
「今日は付き合ってくれてありがとう。お兄さんのおかげで、久々に楽しかった」
帽子と黒いサングラス姿の栗原舞優は、こちらを振り返ってニッコリと微笑んだ。
人気アイドルグループ「クリスタル☆ドール」で、柚希と人気を二分していた舞優にとって、柚希の卒業は人気の独占なんかより、グループの人気を落とさないための重圧の方が、はるかに重いのだろう。
その責任は僕にもあるわけで、水族館に連れて行くくらいの罪滅ぼしはお安い御用だ。
それどころか、彼女の笑顔を独占できてるなんて、こんな役得はない。ファンに知られたら、裁判を待たずに極刑だろうけどね。オレだったらそうするし。
「舞優に笑顔が戻ってよかったよ。イルカに水をかけられたかいがあったてものだな」
すると、舞優がプッと吹き出した。
「あの時の、お兄さんの顔はホントよかったですよ。写真取ってありますから、私のSNSに上げちゃいますね」
「お願いだから止めて。色々と死んでしまうから。だいたい、あの席は水のかからないはずの席だったんだからの、かかるのがおかしんだよ。あのイルカ、絶対に舞優のファンだぞ。オレに向ける確かな殺意を感じたからな」
「殺意を持ったイルカなんていませんよ。あぁ、可笑しい」
舞優はサングラスを上げて、目の端に浮かんだ涙を拭った。それから、綺麗な瞳で僕を見つめると、
「・・・でも、私が濡れないようにかばってくれたのはうれしかったかな」
「舞優を傷物にでもしたら、柚希になに言われるか分かったもんじゃないからな」
僕はそう言いながら、チラッと後ろを窺った。
黄色とピンク色のストライプ柄の派手な帽子を深くかぶって、水槽の影からこちらを覗いている柚希が見える。
「舞優が心配なら、こんなこと計画しなければいいのにな」
「多分、心配してるのは私のことじゃないと思うな・・・」
「うん? なんか言った?」
小声でよく聞こえなかったから聞き返すと、舞優は僕の腕をグイッと引っ張った。
「ねぇ、お腹すいた。何か食べて帰ろうよ」
「あぁ、もちろですとも」
家族のことに巻き込んでしまって、舞優にはほんとに申し訳ない。何でも、ご馳走させて頂きますとも。
僕は引っ張られるまま、小走りでついて行こうとすると、「キャッ」と後ろの方で柚希の短い悲鳴が聞こえた。
僕は慌てて振り返ると、尻もちをつく柚希の姿があった。どうやら、僕らを追いかけようとして、ひとにぶつかったようだった。
「ちょっと、見てくる」
僕は舞優の手を解くと、柚希の方に駆け出した。
ぶつかった相手は、若い男性のようだった。複数人の男女のグループのようで、柚希を囲むような形になってしまっている。
「あれ? もしかして、滝川美咲じゃないッ」
グループの1人が、興奮した声を上げた。
まずいな、気付かれた。
「マジで!? オレ、ファンなんだけど」
さらに囲みが狭まるなかを、僕は強引に割って入った。
「すいません。妹がぶつかったみたいで」
僕は作り笑いを浮かべて頭を下げると、柚希をゆっくり立たせた。
「別にいいけどさ、せっかくだから、写真だけ撮らせてよ」
僕の服を掴む柚希の手に力がこもる。例の、アイドル時代のトラウマが蘇ってるのかもしれない。
「すいません。妹はもうアイドルではないので、そういうは・・・」
「なんだよ、写真くらいいいだろ。自分のにアップする用だけだって」
男がそう言って、携帯電話を取り出すと、つられるように仲間たちも携帯電話を取り出そうとする。
「ですから、妹は一般人なんだから、本人が嫌がってるのに、無断で撮るのは駄目でしょうッ」
「はぁッ? 一般人なら普通に撮るじゃん。なんで断る流れなの?」
ダメだ、話が通じない。いや、このチャンスを逃したくなくて、必死なのかもしれない。
「どうしましたッ。何かありましたか?」
大学生の向こうから、警備員のおじさんが走ってくるのが見える。その後ろには、舞優が心配そうにこちらを見ていた。
「柚希、行こうッ」
「うん」
大学生達の視線が、警備員に向いているうちに、僕は柚希の手をつかんで走り出した。
「お、おいッ」
大学生が慌てて声をかけてきたが、追いかけてこようとはしなかった。
警備員のおじさんとすれ違う時に、
「すいません」
と頭を下げると、おじさんは微かに笑みを浮かべて通り過ぎていった。
「ゆず、大丈夫?」
舞優が近づいてきて、心配そうに柚希に触れた。
「・・・うん、大丈夫。ありがとう」
「舞優が、警備員さんを呼んでくれたのか」
僕が尋ねると、舞優は柚希の肩を擦りながら頷いた。
「近くにいるのが見えたから。私が柚希の所に行ったら、もっと混乱すると思って」
「ナイス判断だよ」
僕はそう言いながら、2人に歩くように促した。
「このまま、水族館を出よう。他の人にまで広まっていったらまずいし、舞優までバレたら、2人の間にいるオレの命が1番危ない」
真剣に僕がそう言うと、2人は顔を見合わせて笑ったようだった。
「どうですか?」
イスに座って天使の微笑みを讃えながら、さっき送ったばかりの話を読む菅原さんに、僕は色々と緊張しながら尋ねた。
「とても面白いです。特に、柚希のいじらしさが堪らないですね。お父さんやお母さんのことで苦しい事が続きましたから、こう言う明るい話が入るとホッとします」
純粋に小説を楽しんでくれている感想に、僕は嬉しくなった。
「そうですね。主人公にとって、1番辛い出来事がこれから起こりますからね。楽しみにしていて下さい」
「それは、読みたいような読みたくないようなですね」
菅原さんは、眉根を寄せて悩むような表情を作った。
そんな1つ1つの仕草に、僕は見入ってしまう。でも、その度に麗奈の言った言葉が引っかかって、僕は無意識に視線を逸らしてしまった。
「お話も、入院の間に大分進みましたね」
「菅原さんには止められてましたが、何せやることないですからね」
僕が曖昧に笑うと、菅原さんは「もうッ」と怒ったような表情を作って見せた。
「退院は明日で、変更はなかったですか?」
「あ、はい。背中の腫れもだいぶ引きましたし、後は通院でいいみたいです」
実際、痛み止めが効いている間は、力さえ入れなければ痛みもほとんど感じず、動けるようになっていた。
「仕事はどうするんですか?」
「まだ、直ぐに仕事で動ける自信はないので、1週間ほどは休んで、実家で療養しようと思っています」
「そうですね。その方がいいと思います」
そう言いながら、菅原さんは思案げに視線を泳がせた。
「どうしたんですか?」
僕が尋ねると、菅原さんは真っ直ぐ僕の目を見つめてきた。
「お休みの間に、ネット書籍部の編集長に会ってくれないかしら。本当は、先週辺りに話そうと思ってたんだけど、こういうことになってしまったから言い出せなかっの。どうですか?」
「え? でもまだ、小説が書き終わってもいないのに・・・完成しなかったらどうするんですか」
僕が心配を口にすると、菅原さんはニコッと不敵な笑みを浮かべた。
「大丈夫。私が必ず完成させますから」
何それ、かっこいいんですけど。
「・・・頑張ります」
「はい、期待してます」
僕と菅原さんは、お互いの顔を見合わせて笑い合った。
僕は今まで感じたことのない、幸福感に包まれていた。
でもこれが、単なる僕の独りよがりな幻想でしかないことは分かっていたけど、今だけは忘れていたかった。




