伸び代①
礒谷家を後にして、迎えに来た母の車に乗り込んだ時。窓をノックするコーチに呼び止められた。
「藍斗。ここに書いたタイトルの動画、全て見ておけ。あと、この本も読んでおくといいかもしれん」
窓越しに手渡されたそのメモ用紙、本を見て藍斗は首を傾げた。
「これは?」
「サッカーの戦術系youtuberとか、プロの戦術解説とか……あとは、戦術が上手いこと回っているプロの試合のハイライトとか、だな。そっちの本は、サッカーの戦術入門、て感じの、教科書みたいなもん。特別に貸してやる」
磯谷コーチはにかっと白い歯を見せて、明るく笑って見せる。あべこべに、口調は至って真面目そのものだが。
「藍斗に今必要なのは、戦術眼だと思う。途中出場の短い時間で、試合にスッと馴染み、より効果的な位置取りと駆け引きを行わなくちゃいけない。
今は個の力で立ち向かえているが……お前の身体じゃ、特に中学からは、無駄走りなんてやっちゃったら10分とも保たない」
「なるほどー……?ムダ走りってなんだ?」
「意図なくガムシャラに走っちゃうこと。ま、頑張ってる感は出るんだがな……良くはない。今の藍斗にも、実は無駄走りはある。めっちゃある」
「え、マジ」
「ヒントはあげた。あとは自分で探しなさい」
藍斗は手元にある、読める程度の汚さで書かれたメモ用紙を見る。
(そういえば俺は、サッカーの戦術どうこうとかは知らなかったな)
無駄走りがある……そう言われてもピンとこなかった。自分が無知であることを、少し自覚した気がした。
とりあえず、ここに書かれてある物を、一つずつ知っていくしかないだろう。もっと上を目指すなら、変わっていくしかないのだから。
「コーチ、ありがとう」
自分を案じてくれた礒谷コーチに、藍斗は心からの礼を告げた。
礒谷コーチはなんだか、ここ最近で1番楽しそうに見えた。きっと、気のせいではないだろう。
*
翌日から早速、藍斗は礒谷コーチのメモにある動画を見始めた。
よく分からない箇所は、ネットでの検索や、コーチから借りた本で補填する。
どうにかこうにか、1時間で2本の動画をやっと視聴した。
分からないところが多すぎて、1本あたり10分前後の動画に30分ほどかけていた。
「……知らない事が多すぎる」
サッカーの戦術というものは、藍斗が考えるより何倍も複雑で、奥深いものだった。流石に見たもの全てが頭に入ったわけではないが、十分衝撃的だった。
チーム全体の戦術ではない、個人の技術としては、知らずのうちに藍斗が元々できているようなものがあり、ちょっとだけ自慢げにほおを緩めた。だが、それ以外はからっきしだった。
藍斗の個の力は圧倒的だ。しかしチームプレイヤーとしては、相当に拙かった。
これまで彼は何も考えず、パスをとにかく受けようと、ボールを保持する味方へ近づこうとしていた。持ち前の視野の広さ・空間把握能力で、スペースを見つけ出すことができていたが……。
(俺自身がボールもらうことばかり考えすぎて、本来、味方がパスを受けるはずのスペースを潰してたのか……。
そういや、ポジション被ってドリブルの邪魔!って思う味方がいたのは、実はあれ、俺のせいだったのか……悪いことしちゃってたな……ああ、「どけ!」とか言っちゃってたよ……バカだなぁ)
藍斗は顔を赤くして、頭を抱えた。
ただそれでも、ボールを受ければ、藍斗は持ち前の圧倒的な個の力で状況を打開してしまっていた。戦術を個で打開できていたのだ。──先へ進むためには、それではダメだ。何となく理解したつもりだが、先は長い。
*
甲坂西部少年団は地域密着型のスポーツクラブ。
クラブのテーマは『皆にサッカーの楽しさを伝えたい』だ。
戦術や勝ちよりも、皆が等しくプレータイムを得て、ひたすら交流を深める事に注力している。もちろん、サッカーを楽しむためにも、最低限のルールや戦術は教え込みはするが……。
だから、エースである藍斗も、より専門的な戦術を学ぶ機会はほぼ無かった。
──偽9番システムは、満足に走れない藍斗のためだけに、監督が特別に用意してくれた戦術だ。ただしその実態は、守備放棄を許された自由な選手を、フォワードに置くだけのものであり、実際には戦術と呼べるか怪しい。
小学校の昼休み。藍斗は、空き教室の黒板に甲坂西部少年団の4-2-1陣形を書き、自身の役割である偽9番の本格的な活かし方を探っていた。
ここ数日で戦術を学び理解したのだが、本来、偽9番はめちゃくちゃ難しい。このシステムを採用してしまうと、良くも悪くも、偽9番の選手に攻撃力が依存する。
それに……最も悩ましい点がある。
甲坂の陣形では、偽9番を最大限に活かすために、藍斗の動きをトリガーとして、ポジションの可変(※1)が必要となることが分かってしまった。理解してしまった。
サッカーのスキルに関しては、そこそこな奴から素人に至るまで、玉石混合な甲坂西部少年団では、とても実現可能とは思えなかった。
相手のプレス(※2)にテンパって、ボールをあさっての方向に蹴り飛ばしてしまう仲間がとにかく多い。そういう、戦術遂行以前の問題もある。
かといって、そのポジション可変により、チーム全体が相手に対し優位に立ち回れるとは限らない。相手の陣形に依存する要素だ。しかし、この解決策を『藍斗の個の力』としてしまうと……今、藍斗が勉強している意味がない。
自分の個の力に甘えたい気持ちを一蹴して、藍斗は顎に手を当て熟考し続ける。
そんな藍斗を、教室のドアの影からコソコソ見ている奴がいた。
なにやら、もう一人の仲間と示し合わせているようで………。
そして、突如としてドアを開けて藍斗に向けて、一斉に叫んだ!
「わーーーー!!」
「ぎゃーーーーーーー!???」
藍斗は驚くあまり、その場で仰向けに転倒した。
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【第5話サッカー用語解説】
※1ポジションの可変
藍斗の構想する可変システムについては、のちにストーリーと交え、画像付きで説明します。
今は陣形が2-3-2となる、くらいに捉えてもらえれば。
※2プレス
ボールを保持する相手に近づき、ボール奪取のためにプレッシャーをかけること。