航空戦艦の在る風景 第5話「空戦」
局地戦闘機「疾風11型」シブヤン海上空高度5000m
1944年12月7日
菅野直海軍大尉は上機嫌だった。
何故か?彼は今、3機の列機を率いて、シブヤン海上空5000mを飛んでいるからだ。それだけで彼はご機嫌だった。彼を喜ばせるにはそれだけ十分だった。如何なる美食も美酒も美女も無用だった。菅野直海軍大尉とはそういう人間だった。
しかも、今日の彼は、上官から空対空戦闘の許可を与えられている。半月以上続いた出撃禁止命令で菅野は腐りきっていた。戦力温存のために戦闘機は全て燃料を抜かれ、ジャングルに隠された。敵機に何をされても指を咥えて見ているしかなかった。撃たれれば、地面に這い蹲るしかない。屈辱の日々は続いた。
しかし、今日は違う。猛犬は鎖から解き放たれた。しかも今日の天気は快晴。絶好の空戦日和だった。
空戦。空中戦闘。空対空戦闘。エアコンバット。ルフトシュラハト。ボイヴヴーズドゥヘ。どんな言葉でもいい。菅野はそういうものが大好きな男だった。
そういうことをするために生まれてきたような男なのだった。
「いい天気だ・・・」
菅野はつぶやくように言った。上空はいつでも晴れている。
スコールの雨も、ここには降らない。積乱雲は危険だが、背の低い雲があるばかりだった。それもかなり下方にある。菅野の周りには何もない。密度の低い、冷たい大気があるばかりだ。ただ、エンジンだけが轟々と鳴っている。
「なんかこう・・・一句詠みたくなるような雰囲気だよなぁ・・・」
菅野デストロイヤーなどと、あまり有難くない仇名を頂戴している菅野だったが、実は文学をこよなく愛する詩人だった。あまりにも軟派青年だったため、親や教師に海軍兵学校への入学を考え直すように言われたこともある。
全て昔の話だ。今の菅野は菅野デストロイヤーだった。本物の海軍航空隊の戦闘機パイロットだった。熟練した、闘将の名を冠するエース・パイロットなのだ。
今の菅野は、エース・パイロットのとしての部分で空を見ていた。茫漠な、水色の空だった。そのどこかに敵機が潜んでいる。
「哨戒21番より、201へ。敵機は同高度。正面にあり。注意せよ」
地上から邀撃管制。レーダーで敵機を捕捉。同時に菅野達を誘導していた。
分かっている、と菅野。ぞんざいに返答する。集中を邪魔されて不機嫌になる。
昔はこんなややこしいことはなかった。菅野は昔を懐かしむ。昔というほど、昔ではない過去の話だ。
その頃の空戦は地上とは無縁に推移した。地上から戦闘機にあれこれ指示することもなかった。指示されるのは離陸する前で、離陸した後は何も言われなかった。一度飛び立てば機は空の彼方にある。地上からあれこれ注文をつけるには遠すぎた。
しかし、今はレーダーのような無粋な代物がある。レーダーを使えば、地上にいながら、空の彼方のことを知ることができる。無線機も高性能になった。それらを使って地上からあれこれ口出しするようになってきた。
お陰で空中戦のやり方は随分と変わってしまった。
「201から、哨戒21番へ。敵機発見。これより攻撃に移る」
水色の空の中に墨を吹いたような、小さな点が見える。敵機だ。戦爆連合の大編隊。情報によれば、総数は170機以上。
菅野は敵機の発見を編隊に知らせた。加速しつつ、編隊の前に出てバンクする。敵機発見のサイン。20機におよぶ疾風の編隊の先頭に出るのは、いい気分だった。
セブ島の秘密基地から離陸して36分。ついに日本軍邀撃機部隊は、第58任務部隊から発進した第1次攻撃隊と会敵した。
20機の疾風は加速、戦闘上昇を開始した。
疾風(Shippuu)11型と呼ばれる戦闘機が帝国海軍に採用された背景には、海軍の航空行政の失敗が存在した。
端的に表現すれば、海軍は零戦以降の戦闘機開発に失敗したと言える。
十二試艦上戦闘機と呼ばれた零戦が完成、制式化されたのが昭和15年。その1年前に海軍は日華事変の戦訓から対爆撃機迎撃用の14試局地戦闘機の開発をスタートさせた。1939年、第二次世界大戦が始まった年のことだ。そして、3年後。昭和18年に入っても14試局戦は量産に入ることができていなかった。
昭和18年といえば、前線にF6FやP-47など2000馬力級戦闘機が大量投入される頃だった。14試局戦はとっくの昔に量産配備されてなければならなかった。F6Fなどは14試局戦の1年も後に開発がスタートした戦闘機なのだ。少なくとも昭和18年の前半に14試局戦は前線に配備されていなければならない。
しかし、現実にはエンジンの振動問題で14試局戦は開発が停滞。応急処置を施した試作機も墜落。テストパイロットが死亡。責任問題になってしまった。
さらに海軍は14試局戦に平行して三菱に17試艦上戦闘機の開発を指示していた。後に試製烈風と呼ばれる17試艦戦の要求性能は無謀を通り越した完全な無理だった。これに零戦の改良作業も加わる。完全なオーバーワークだった。結果、開発主任が倒れ、入院。数日後に「戦死」した。
以上により、14試局戦も17試艦戦も開発が頓挫。さらに零戦の改良も停滞。海軍航空本部は恐慌状態に陥った。
パニックを起こした航空本部は一時期、不用になった試作水上戦闘機を陸上化して局地戦闘機にするという怪しげな計画を本気で検討した。しかし、検討段階で理性を取り戻した。そんなものでF6FやP-47に対抗できるわけがない。
結局のところ、錯誤の原因は近未来の空戦において何が必要なのか、どのような戦術、戦略で臨むべきなのか、帝国海軍に将来像がなかったことに尽きる。戦闘機の戦闘様式は古典的な巴戦のレベルで止まっていた。それ以上先のことは何も考えていなかった。戦闘機パイロットは巴選で勝つために捻りこみの練習には余念がなかったが、発展著しい航空技術について何ら学識をもっていなかった。持つ必要も感じていなかった。発展する航空技術が将来に何を齎し、戦術がどう変化するのか、想像すらしていなかった。同盟国空軍がヨーロッパで示した戦術の変化にも全く気付かなかった。近未来の航空戦術など、自分たちが考えることではないと兵科士官が公言するほどだった。そういうことは学者が考えればいいことだ。自分達はとにかく技量を磨いていればいい。そう考えることにして、帝国海軍は未来に背を向けた。精神主義と技術軽視。昭和の日本軍は何かを根本的に間違えていた。
結果として、戦闘機の戦術をメーカーの技術者が開発するという喜劇的な状況が現出した。そんなものが上手くいくわけがない。上手くいったとして、海軍はそれを受け入れない。彼等は戦術のプロ(笑)なのだ。プライド(笑)というものがある。
海軍にとって自らの戦術が航空戦術の全てだった。メーカーは最新の航空技術に基づく戦術に適合した機材を開発したが、海軍は容赦なく自らの戦術に適するように改修させた。海軍はその戦術が全く時代遅れであることに気づきもしなかった。海軍は最新の技術を使って、旧式な戦闘機を開発してしまった。
そして、対米戦が始まった。ガダルカナル島の攻防で海軍の錯誤は一気に表面化した。多くの血が流れたことでようやく海軍は自分達の戦術が時代遅れであることに気付くことができた。
ここからの対応は完全な泥縄式である。当たり前だった。今、必要なものがあれば、それは昨日作っておかなければ間に合わない。今、必要なものを今から作り始めたとしても、それが手に入るのは明日だった。
問題は、その明日が来る前に戦争に負ける可能性が高いことだった。ガダルカナル島からの転進はそれほどの覚悟を帝国海軍に強いていた。
そんな海軍に手を差し伸べたのが陸軍だった。もちろん親切心によるものではない。しかし、海軍は追い詰められていた。掴めるものは藁でも掴まなければなれなかった。
様々な意味で後進性を指摘される日本陸軍だったが、その航空行政には先見の明があった。陸軍は昨日の内に、明日何が必要になるか考え、その為に必要な機材を中島飛行機に作らせていた。
陸軍が開発した4式戦闘機は日本で実現可能な技術を用いて、「勝てる戦術」を実践する上で、考えられる限り最良の機材だった。
その4式戦を局地戦闘機として海軍が採用することは、あらゆる意味で理に適う行為だった。陸海軍の反目は根深いものがあったが、昭和18年を半ば過ぎるとそんなことを言っている余裕はなくなった。
海軍が4式戦の開発に協力した結果、4式戦は初期計画と異なる機能を備えることになった。不調が続くラチェ電動可変ピッチプロペラは、海軍が開発したVDM油圧可変ピッチプロペラに変更。同時にプロペラ直径を拡大した。失敗に終った14試局戦の技術を流用した改造は成功。上昇性能は向上、同時にプロペラの不調もなくなった。
武装は12.7mm機関砲2門、20mm機関砲2門のままだったが、20mm機関砲は海軍式の99式20mm2号機銃3型になった。機外に飛び出した99式2号銃の銃身が初期計画案との外見上の大きな差異だった。12.7mm機関砲は陸軍が開発したものをそのまま使用した。機関砲については陸海軍でそれぞれの得意分野を相互に融通する協定が締結された。その結果を受けた武装変更だった。
その他、細かな艤装品の際を除けば、海軍と陸軍の疾風に差はない。海軍は疾風の開発成功を見越して、中島飛行機での零戦の生産を終了。生産ラインを全面的に疾風に転換した。空母用の零戦は三菱で少数生産されることになった。三菱は試製烈風の開発を継続し巻き返しを図ったが、烈風が完成するころには戦争は終っていた。
以上の結果、基地航空部隊の戦闘機隊から海軍機は姿を消した。以降、海軍基地航空部隊は陸軍航空隊の指導下に入る。そして、その性格を急速に変えていった。4式重爆撃機「飛龍」の採用や、陸上爆撃機「銀河」の生産中止がその好例だった。
当然、そうした上からの変化は前線のパイロットの激しい拒絶反応にぶつかった。菅野直海軍大尉などはその急先鋒の一人だった。菅野は部下を扇動、疾風に搭乗を拒否するボイコット運動を展開した。即日、営巣にぶち込まれ再教育。そうした上で、陸戦隊に転属か、疾風に乗るか、二つに一つを選ぶことになった。
もちろん、菅野の答えは決まっている。
「こちら菅野。全機。突入せよ」
無線を中隊系に切り替え、菅野は言った。そして、一番に敵機編隊に突入。光学照準器にF6Fを捉えた。
敵編隊は低空の攻撃機と上空の戦闘機に別れていた。上空の戦闘機は護衛だ。不用意に攻撃機を攻撃すると護衛機に上方を占位されてしまう。高度と速度の優位は空戦の死活要素だ。上方の戦闘機は無視できない。まずは護衛を片付ける必要がある。
この時点で、疾風隊は上昇を終え、高度優位を確保していた。接近は迂回した上で東から、太陽を背にしていた。奇襲攻撃のセオリーだった。敵戦闘機は、疾風隊の接近に全く気付いていなかった。撃たれてから気付いたほどだ。
疾風隊は4機編隊に分かれ、突入。護衛のF6Fに弾丸の雨を降らせた。突入時の速度は時速800km超。しかし、疾風はビクともしない。
疾風隊は先制攻撃に成功。敵編隊が崩れる。F6Fが何機か煙を引いて落ちていった。撃破多数。菅野の戦果は確定撃墜が1機。20mm機関砲は威力絶大だった。命中さえすれば単発機は一撃で落ちる。コクピットを直撃されたF6Fはひとたまりもなかった。
疾風隊は高速で敵編隊を抜け、下方に抜ける。一撃離脱に徹する。疾風はそうした戦術にために作られた機材だった。それ以外の戦術では疾風の長所を生かすことができない。
「村井。ふらふらするな!」
菅野はふらつく4番機を叱責した。挙動が不信だった。反転して再攻撃しようとしているように見えた。事実、その通りだった。菅野も搭乗機が零戦なら、そうしていたかもしれなかった。
しかし、今搭乗しているのは疾風だ。疾風には疾風に戦い方がある。陸軍航空隊の指導で菅野はそれを叩き込まれていた。文字通りの意味で。菅野に指導を施した陸軍航空隊のパイロットは黒江少佐といった。陸軍航空隊において最新の機材をテストする陸軍航空審査部の超ヴェテランパイロットだった。
指導を受ける日々は、毎日が屈辱に満ちていた。しかし、何時のころからか、勝てる日も出てきた。3回に1回の割合で勝てるようになった頃、菅野から疾風に対する嫌悪の念は消えていた。誇りを以って、我が愛機と呼ぶことができるようになっていた。
そして、今、菅野は疾風を駆って、零戦の天敵、F6Fと対峙している。
編隊を抜けた疾風隊の上空に、奇襲を免れたF6Fが占位した。F6Fは急降下。離脱する疾風を追う。奇襲からの立ち直りがかなり早い。アメリカ海軍航空隊の練度は開戦初期のそれではなかった。平均練度では既に帝国海軍を完全に上回っている。
しかし、菅野に言わせてみれば、彼等はまだまだ未熟だった。注意が足りない。もっと、もっと注意すべきだった。
彼等は零戦と戦うつもりで疾風と戦っている。
「菅野から各機へ。戦闘上昇。ブースターを使え」
菅野は列機に指示を出し、自身もブースターを作動させる。
ブースターと言っても特殊な装置があるわけではない。燃料タンクのコックを主翼前縁タンクに切り替えるだけだ。主翼前縁タンクには、特号燃料が蓄えられている。
特号燃料とは、パレンバン製油所で製造された100オクタンガソリンだった。空挺作戦でパレンバン製油所を無傷で手に入れた陸軍は、この種の高品位燃料をある程度、前線に供給できるようになっていた。疾風の燃料タンクの全てを満たすほどではないが、主翼前縁タンクには100オクタンガソリンが蓄えられている。
高品位燃料を得た誉発動機は回転制限を超えて、プロペラを回す。疾風は速度を高度に変えて急上昇。F6Fを置き去りにする。F6Fの海面上昇率は軽量の零戦に匹敵するが、この場合は初期速度が足りなかった。時速800km超で上昇に入った疾風に追い付けるわけがない。ブースターを使用していれば、なおさらだった。
F6Fは失速を避けるために追撃を断念、反転した。全て菅野の計算どおりだった。
疾風は速度と引き換えに高度を回復。その過程で速度を捨てていた。低速によるタイト・ターン。最小旋回半径で反転。離脱を図るF6Fを追撃する。
F6Fは無理な上昇で高度も速度も失っていた。降下で振り切ろうとするが、振り切れない。零戦なら通じるテクニックだが、疾風には通じない。降下で疾風を振り切ることはできない。零戦と疾風は違う。
菅野は光学照準器に再びF6Fを納めた。肉眼で相手の顔が見える距離まで射撃を待った。そして、撃った。20mm機関砲弾がF6Fの右主翼に当たる。大穴が空いて、右主翼が根元から千切れ飛ぶ。
零戦の20mm機関砲は小便弾だったが、疾風の20mm機関砲はよくあたった。この頃の20mm機関砲は初期型よりも長銃身になっていた。弾速が速いので直進性が高く、狙ったとおりに当たる。疾風の主翼構造が零戦よりも格段に強靭であることも大きかった。射撃の反動を受け止める土台がしっかりしているので射撃のブレが少ない。
主翼をもぎ取られたF6Fは錐揉みして落ちていった。しかし、菅野はそれを見届けることはなかった。疾風は降下による加速で時速700kmまでは加速していた。攻撃は一瞬の出来事だ。結果を確認する余裕はない。
疾風隊は一撃離脱に徹し、高速を維持して離脱。攻撃のチャンスをものにした機はあまり多くない。20機の疾風による攻撃としては寂しい戦果だった。しかし、問題なかった。この時点で敵編隊は完全に高度、速度、統制を失っていた。疾風隊は護衛戦闘機隊を蹴散らすことに成功したのだ。
「菅野から各機へ。散開しろ。弾幕射撃だ」
疾風隊は速度を維持したまま、低空の飛ぶ敵攻撃機の編隊に突入。3度目の一撃離脱攻撃を敢行した。
疾風の攻撃を受けたのはホーネット(Ⅱ)のTBFアヴェンジャー雷撃機26機だった。編隊を密集させて防御火力を増している。しかし、高速で突撃する疾風には無意味だった。
菅野にはTBFの編隊が止まっているようにさえ見えた。速度差が大きすぎるからだ。TBFが魚雷を捨てて全速を発揮しても、さらに疾風は時速300km以上速い。
疾風は編隊を散開、間隔を広く取った。火網を形成するためだ。敵の密集編隊を包みこむ弾幕射撃。合計80門の機関砲が火を吹く。大部分は外れる。しかし、かなりの数のTBFが火網に捕まった。密集編隊が仇になる。幸運な何機かが生き残り、魚雷を捨てて逃走に移る。
大戦果だった。撃破多数。撃墜多数。攻撃妨害多数。
大西ルールによれば、攻撃妨害は1機撃墜とみなすから、疾風隊は敵機編隊を一撃で全滅させたことになる。
大西ルールとは、在フィリピンの全航空戦力を統一指揮することになった大西瀧治郎海軍中将が定めた戦果判定基準だ。威嚇などによって敵機に爆弾を捨てさせても、1機撃墜と判定される。爆弾を捨てた攻撃機に存在価値はないから、攻撃妨害は撃墜に等しいというのがその趣旨だった。
敵機の墜落以外を撃墜と判定する大西ルールは多くのパイロットから不評だった。特にヴェテランパイロットは否定的だった。戦闘機パイロットにとって、撃墜とはどこまでも敵機の墜落を意味するからだ。
しかし、大西は自ら考案したルールを全ての戦闘機パイロットに徹底させた。実際、この措置は極めて合理的だった。敵機の撃墜にこだわって、爆弾を捨てた敵機を深追いした挙句、逆に撃墜される事例は大幅に減った。
菅野が再攻撃を実施しなかった理由の一つに大西ルールの存在があったことは確実だった。しかし、それよりも切迫した事情が菅野にはあった。
「全機。上昇するな。喰われるぞ。このまま離脱する」
F6Fの編隊が上空にあった。先に蹴散らした護衛とは別の編隊だった。降下して追撃してくる。今、上昇すれば機速を失って、袋叩きに遭う。敵機の機速は十分だった。逃げに徹しても、ぎりぎり追い付かれるかもしれなかった。
しかし、菅野には勝算がある。護衛戦闘機は護衛すべき攻撃機を放り出して遠出することはできない。安全圏はそれほど遠くないはずだ。
それでも、安全圏に離脱して高度を取り戻すまでの間、疾風隊は戦闘不能だった。降下で得た速度を生かして逃げるしかない。
「まぁ、いいか・・・あとは艦隊の直援に任せるさ」
栗田艦隊の上空には、まだ直援の疾風が30機いる。かなりの敵機を喰えるだろう。それでも敵機の全てを撃退することは無理だが。
艦隊はここからそれほど遠くない。直援が戦闘に参加するのはまもなくだろう。それを突破した敵機が雷爆撃を実施、離脱をするまでかなりの時間がある。散らばった編隊を組みなおし、高度を取って攻撃態勢を整える時間ぐらいはある。燃料もまだ十分ある。弾薬も、あと1、2撃できる程度に残っている。
つまり、あと1、2機は敵機を喰えるのだ。
菅野は凶暴な笑みを浮かべた。嬉しくてたまらないというように。
>続く