航空戦艦の在る風景 第4話「第1航空艦隊」
重巡洋艦「インディアナポリス」サンベルナルディノ海峡
1944年12月7日
スプルーアンスはインディアナポリスの艦橋に上がった。そして、見た。
朝日の中に第58任務部隊の空母群がいた。その幾つかが黒煙を吐いていた。火の手はもう上がっていない。消火は成功。不幸中の幸いだった。しかし、そのシルウェットにはきつい傾斜がかかっていた。這うような速度で南に向かっている。
海面に向かって7度傾いて航行中の艦は正規空母バンカー・ヒルだった。
第58任務部隊第2群に属するバンカー・ヒルは日本軍基地航空部隊の夜間攻撃で魚雷2発を被弾。さらに自爆機1機の突入を受けて猛火に包まれた。
日本軍の夜間攻撃は今までになく組織的且つ巧妙だった。
一時、スプルーアンスはバンカー・ヒルの放棄もやむなしとさえ考えた。しかし、バンカー・ヒルの乗員は諦めなかった。決死の消火活動で艦の危機を救ったのだ。
バンカー・ヒルを襲った災厄は、自爆機による広範囲の火災だった。
突入時、自爆機は艦橋への突入を意図していた。艦橋は艦の頭脳だ。艦橋の破壊は艦の指揮系統の麻痺を意味する。しかもエセックス級の島型艦橋は大型なので格好の標的だった。しかし、自爆機は直前に失速してしまった。結果、突入は艦橋の下、格納庫になった。
この自爆機は第1航空艦隊所属の陸上爆撃機、銀河だった。胴体下に九一式航空魚雷改三を吊るしたまま銀河は高速で飛散。破片とガソリンと火炎を格納庫にばら撒いた。同時に半壊した航空魚雷が起動。スクリューを高速回転させ、破滅へのカウントダウンを開始した。
この時、第58任務部隊は潜水艦が発見した第1遊撃部隊(栗田艦隊)への攻撃準備を進めていた。暗いうちに攻撃準備を整え、黎明時に発艦。夜明けと同時に太陽を背にして空襲を行う予定だった。結果、格納庫には大量の艦載機が並んでいた。そこに自爆機のガソリンが降り注ぎ、引火。大火災となった。燃料は補給前だったが、タンク内には前日のフライトで使い残したガソリンがかなり残っていた。 これは明確な規則違反だった。フライト終了後、機内の余ったガソリンはポンプで抜き取ることが規則で定められていた。火災対策のためだ。しかし、バンカー・ヒルは連日の戦闘により疲労が蓄積しており、士気が低下していた。規則が十分に守られていなかった。
乗員は放水による消火と同時に、火達磨になった艦載機を格納庫から直接、海に捨てた。開放型格納庫の利点だった。格納庫の左右が吹きさらしなので可燃物の投棄は容易だった。バンカー・ヒルは魚雷を左舷に2発被雷して艦が傾斜していたことも作業を助けた。作動中の航空魚雷も同様に開口部から海へ投棄された。投棄された魚雷は制御を失ってまもなく自爆した。間一髪だった。もう少し遅かったら、格納庫で自爆していたかもしれなかった。
結果、バンカー・ヒルはなんとか沈没を免れた。ただし、艦の傾斜のため艦載機の離着艦不可能になってしまった。格納庫が丸焼けなので空母として機能もない。
第58任務部隊第2群はついていなかった。第2群は昨夜の日本軍航空部隊の夜間攻撃をほぼ一手に引き受ける形になっていた。
群旗艦の正規空母イントレピッドは幸いにも無傷だ。しかし、インディペンデンスとカボットは不運だった。それぞれ1発ずつ、魚雷攻撃を受けていた。速度が酷く落ちている。クリーブランド級軽巡洋艦の船体を流用したインディペンデンス級軽空母は雷撃に弱い。軽巡洋艦の船体に嵩張る空母の上部構造物を載せているためだ。トップ・ヘビーで復元性が悪い。被雷、浸水すると傾斜が大きくなり、立て直せない。沈みはしないが、空母としての機能はもうない。軽空母が脆弱なのは、何も日本軍のそれに限ったことではなかった。
結果、第2群は3隻の空母が戦線を離脱。ウルシーに向かった。
第58任務部隊は航空戦力の5分の1を失ったことになる。第2群に攻撃が集中したため、他の空母群に被害はない。しかし、日本軍の対応に追われ、第1派攻撃隊の発進は遅れに遅れていた。栗田艦隊への攻撃は最初から躓いてしまった。
日本軍が一枚上手だった。日本軍はスプルーアンス艦隊の行動を予測していた。第58任務部隊が攻撃機を放つ直前に夜間攻撃隊を送り込んできた。そうとしか考えられなかった。
しかし、そんなことは不可能なはずだった。
「やはり、叩ききれていなかったか。一体、どこにあれだけの戦力を隠していた?」
スプルーアンスは呻いた。彼の懸念は的中していた。
レイテ島上陸に先立って第58任務部隊は台湾からフィリピンにかけて、各地の日本軍航空基地を攻撃。航空撃滅戦を展開した。
結果、日本軍機400機を地上撃破。各種軍事施設、道路網、鉄道網、橋梁、港湾施設、物資集積所、その他多数の地上目標、輸送船等を破壊した。
攻撃は完全に成功。5日間に渡る攻撃で日本軍航空戦力は壊滅した。そのはずだった。出撃した艦載機は述べ3000機。艦砲射撃による攻撃を含めれば、フィリピン各地に投下された爆弾は5ktにもなる。まさに鋼鉄の暴風だった。
燃料と爆弾を消耗した空母群は後方の荷役部隊から洋上補給を受けて、継続して航空撃滅戦を展開した。こんなことは日本海軍機動部隊には絶対できない芸当だった。英国海軍にも無理だ。これはもう艦隊とは違う何かだった。それはもう移動可能な洋上航空基地群だった。それが第58任務部隊だった。アメリカ海軍が作り上げた空母機動部隊とはそういう存在だった。他国の空母機動部隊とは存在している次元が違う。
日本軍の抵抗は微弱だった。戦闘機による迎撃は殆どなかった。対空砲火による反撃は盛んで、多数の作戦機が失われたが、荷役部隊の護衛空母から補充を受けたので問題はない。
スプルーアンスは最小の犠牲で、最大の勝利を収めた。そのはずだった。写真による爆撃評価判定もその判断を後押しした。日本軍の航空戦力は枯渇している。航空参謀達の意見も同様だった。日本軍はマリアナ諸島での戦闘で航空戦力が枯渇し、その損害から立ち直っていない、はずだ。
しかし、スプルーアンスはそうした判断には懐疑的だった。日本軍は戦力の温存を図っているのではないか?スプルーアンスはそう考えた。戦闘を回避することで戦力を温存し、主力艦隊の到着を待っている可能性がある。
いや、そうするべきなのだ。日本軍の立場に立てば、第58任務群との戦闘は避けるのが得策だった。フィリピン海(マリアナ沖)海戦では、基地航空部隊が小沢艦隊の到着前に消耗してしまい、連携した攻撃が不可能になっていた。スプルーアンス自身がそうした戦いを日本軍に強いたからだ。しかし、もしも、基地航空隊と小沢艦隊が連携して反撃してきたら、敗走していたのは小沢艦隊ではなく、スプルーアンスの方だったかもしれない。
そんなスプルーアンスの危惧は的中してしまった。
在フィリピンの日本軍航空戦力を統一指揮することになった大西瀧治郎海軍中将は、詳細な戦訓分析の結果、一つの結論に達した。
それは、「昼間及び空中において、アメリカ軍航空戦力を撃破することは不可能」という悲壮なものだった。
アメリカ陸海軍の航空戦力の質と量はそれほどの覚悟を日本軍に強いるものだった。陸海軍が統一採用した結果、早期大量生産が実現した大東亜決戦機を以ってしても、無理だった。補給速度が違いすぎる。無限に近い回復力を持ったアメリカ軍を相手に航空撃滅戦を戦うことは自滅に等しい。事実、ソロモン諸島やニューギニアにおける航空撃滅戦は航空自滅戦と下級士官から揶揄されるほどだった。
航空撃滅戦は消耗戦だった。戦力をぶつけ合い、削りあう。神業を誇った日本海軍航空隊の零戦隊も、最後には消耗戦に巻き込まれて全滅させられた。日本の生産力では、消耗する機材も、パイロットの補充もままならない。1944年12月なら、なおさらだ。
では、どうすべきか?
答えは簡単だった。戦わなければいい。空中での戦闘を放棄。機材とパイロットを「決戦」の時まで温存。その為にジャングルの中に千ヶ所の掩体壕をつくる。それが大西の構想だった。
構想の実現のために大西は奔走した。問題は資材と労働力の確保だった。コンクリートと基地建設労働者がどう考えても足りない。資材と労働者を捻出するために、第14方面軍総司令官、山下奉文陸軍大将に直訴を繰り返した。そして、説得に成功。山下の手元にあった資材と労働者(兵員)を掩体壕建造に使えるようにした。その結果として陸戦用防御施設(トーチカ等)の建造は不可能になった。しかし、何の問題もなかった。大西の論理は明確だった。そうした防御施設が必要となる地上戦が生起している段階において、日本軍には制海権も制空権もないことは確実である。それならトーチカなど作るだけ無意味だった。最終的な敗北は動かしがたい。時間稼ぎにしたならない。いや、そもそもそれすら可能かどうか怪しかった。ガダルカナル島での敗北がそれを証明している。航空機用の掩体壕には勝利に繋がる可能性があるが、トーチカにはそうした可能性はないのだ。
問題は山下の説得だった。大西は最初から東京の大本営や陸軍参謀本部を説得しようとは考えなかった。そんなことは不可能だったからだ。全く完全に不毛極まりないことになるのは目に見えていた。それならば、現場の責任者と話をつけてしまった方が早い。
悪く言えば、現場の独断先行。日本が日華事変の泥沼に嵌る原因を作った悪しき慣習だった。しかし、大西には手段を選んでいる余裕がなかった。アメリカ軍はいつフィリピン上陸してもおかしくない。
説得は困難を極めた。だが、大西は諦めなかった。緒戦の勝利しか知らない山下にガダルカナル島やニューギニアの戦訓を理解させるのは苦労の連続だった。山下が自分がマレーの虎と呼ばれた時とは、世界が何もかも変わってしまっていることに気付いていなかった。最終的に大西は狂言自殺を敢行して気迫で山下を圧倒するという強硬手段に訴えるまで追い詰められた。
しかし、今では山下は大西のよき理解者となっていた。大西の構想を完全に理解した上で、おしみなく資材と兵員を大西に提供してくれた。
その甲斐あって、大西が構想した掩体壕の3分の1が完成した。それ以上はどうしてもコンクリートが足りなかった。しかし、掩体壕以外にも、航空機を隠す方法は無限にある。
大西が重視したのはラバウルやニューギニアの前線基地において現場の才覚で作られた対空擬装装備だった。それらは大西の手で体系化、組織化されて大規模にフィリピンで使用された。特に対空擬装網は大量に使用された。単純に機体を覆うのではなく、滑走路から伸びる誘導路や駐機スペースに至るまで、全てを擬装網の下に設置した。滑走路も移動式のハリボテ小屋を大量に設置し、ジャングルから刈りだした草木で覆うことで農村のように見せかけた。
アメリカ軍に発見され爆撃を受けた基地には、滑走路に爆撃跡をペイントすることで上空からは機能停止したように見せかける擬装を施した。航空機も各地からかき集めた残骸の中に配置して、撃破されたように見せかけた。弾薬や燃料も同様の処置を施した。上空から見るかぎり、爆撃で破壊された放棄された基地に見える。有り余る物量を誇るアメリカ軍も、既に破壊された基地の上に爆弾を投下するほど爆弾が余っているわけではない。
また、大西はアメリカ統治時代に作られた道路網を有効に活用した。大半は未舗装だが舗装道路も多かった。大西はこれを滑走路として使えるように改修した。特に山間部、トンネルが近くにある道路は優先的に改修を施した。道路用トンネルを人海戦術で拡張、横穴を掘り、掩体壕の代わりとした。道路の左右に民家風の移動式ハリボテ小屋を立て、その下に物資を隠匿した。
こうした秘密基地がフィリピン各地に無数に作られた。燃料や弾薬も各地に分散して地下や擬装施設に備蓄された。銃撃された際に炎上して位置を暴露しないように、擬装を施した作戦機からは完全にガソリンを抜くように徹底した。大西自身が抜き打ちで検査し、手抜きがあれば厳罰に処した。
さらに平行して大西は囮基地の建設を進めた。クラークフィールドなど、米軍が戦前に建設した大規模航空基地が囮基地に指定された。これらの基地を対空擬装することは不可能だった。基地の規模が大きすぎる。また、開戦前から整備されており、敵味方共に存在が知れ渡っている。よって、その存在を隠すよりも攻撃を吸収する囮として使うのが適当だった。
こうした囮基地には、意図的に対空火器が集中配置された。囮に真実味を持たせるための措置だった。秘密基地はその逆となる。対空射撃で位置を暴露しては、擬装した意味がなくなる。
また、林業が盛んなフィリピンには製材所、木工所が戦前からあちこちにあった。輸出用のラワン材を加工するためだ。大西はこれを徹底的に活用した。大西は民間の製材所や木工所に木製の飛行機型デコイを作らせ、囮基地の目立つ位置に配置していた。木製デコイは当初、主に現場の創意工夫で作られたものが殆どだった。大西はそれを準制式化し、作成法をまとめて誰でも簡単に作れるようにした。簡単な作りだが、写真偵察などでは絶対に見抜けない精巧なデコイだ。上空から見る限り、囮基地は大量の航空機と重厚な対空砲火に守られた大規模航空基地に見える。
実際、第58任務部隊の攻撃はこうした囮基地に集中していた。幾つかの秘密基地は爆撃に晒されたが、分散配置が徹底していたので被害は最小限だった。そもそも爆撃の精度が低すぎて、殆ど無意味な盲爆撃に近かった。
秘密基地の所在を暴露したのは抗日ゲリラの通報だった。しかし、ゲリラからの情報提供は今ひとつ精度が低くかった。教育水準が低いためだ。識字率が低く、地図も読めないものが多かった。とても爆撃作戦の基礎資料には使えない。その結果、アメリカ軍は秘密基地を狙って見当違いの場所を爆撃することが多かった。農村に擬装した飛行場を爆撃した際は、本当の農村を爆撃し、秘密基地を通報してきた愛国的な抗日ゲリラを村ごと吹き飛ばしてしまったこともある。
これらの秘密基地の多くは単発機や小型機用の基地だった。陸上攻撃機や陸上爆撃機を収容できるものは少ない。よって、それらを早期に空中退避させる体制も構築された。
大西はニューギニア戦線の戦訓分析から、自軍の早期警戒態勢が不十分であることを認識していた。ニューギニア戦線では、作戦機を空中で消耗することは意外に少なかった。地上撃破の方が圧倒的に多い。
何故か?分散配置用の掩体壕を作る余裕がなかったからだ。日本軍の基地設営能力は滑走路とその周辺のジャングルを切り開くだけで限界だった。資材も人手も足りない。そのため、滑走路周辺に航空機を集中配置するしかなかった。そこを爆撃でまとめて破壊される。そうした失敗を何度も繰り返していた。空中退避できればいいのだが、早期警戒態勢が不十分で爆撃機の接近を早期に察知できなかった。 早期警戒態勢の構築、対空監視の強化は急務だった。さらにそうした情報を集約し、統一指揮する管理体制が必要なのだ。
大西は中央に働きかけ、多数の13号電探や運用中止になって余っていた21号電探をフィリピンに輸送させた。さらに山下と折衝を繰り返し、陸軍のレーダー基地からも情報が入るようにした。
もちろん、大西は日本製レーダーがアメリカ軍の電子妨害で容易く無力化されることは知っている。そこで目視による対空監視網をフィリピン全土に張り巡らした。無線による通報は電子妨害を受けるが、有線なら問題ない。爆撃で有線通信網は遮断されるが、その場合は発光信号や、信号弾を打ち上げて情報を伝達する体制を整えた。
そうして集められた情報や各基地から報告が大西の手元に集められ、一元化される。マニラ郊外に作られた統一防空指揮所はその為に建設された。この種の施設はイギリス空軍、ドイツ空軍において既に実用化されていた。特にイギリス空軍はバトル・オブ・ブリテンにおいてこの種の施設を効果的に用い本土上空の戦いに勝利していた。ドイツ空軍も戦闘オペラハウスと呼ばれる同種の施設を作り効果的な防空戦闘指揮を行っていた。しかし、日本軍がこの種の防空管制センターを作るのはこれが初めてだった。
吹き抜けの最下層に設置された大版の地図に、係員が次々と手書きで最新の情報が書き込んでいく。艦艇や航空機を模した木製のシンボルも人間の手で動かしていた。ドイツ空軍やイギリス空軍の同種の施設に比べれば幾らか旧式な手法だ。しかし、やっていることは同じだ。情報を一元化し、一目で理解させる。
係員が地図上のシンボルをひっくり返す。赤色のダイヤモンド型のシンボルだ。同種のシンボルがフィリピン全土に点在していた。
「各基地の対空擬装はもう完了したのか?」
大西は言った。ダイヤモンド型のシンボルは秘密飛行場を示していた。赤色の場合は対空擬装が未了のサイン。裏面は黒色になっている。黒色の場合は、対空擬装の完了を意味する。ただし、この場合は航空機の離着陸はできない。
「既に完了しています。戦闘機部隊の基地以外は」
「よろしい。今夕まで、また辛抱だ。一苦労だと思うが、耐えてくれ。それと、第1遊撃部隊の直援は絶対に絶やさないように整備や補給のスケジュール管理をしっかりと頼む」
地図の上で、飛行機のシンボルが艦艇のシンボルと重なっていた。二つのシンボルはシブヤン海にあった。第1遊撃部隊(栗田艦隊)と直援戦闘機部隊だ。
空中戦闘を回避してきた大西だが、艦隊の援護となれば話は別だった。栗田艦隊と西村艦隊、両艦隊上空の局地的制空権は死守しなければならない。よって戦闘機部隊の基地は対空擬装を解除していた。
大西の手元には、約700機の作戦機がある。延べ3,000機に及ぶ第58任務部隊の空襲を受けた後にもそれだけの戦力があった。後方基地の台湾には補充機が200機程度あるから、合計で900機に及ぶ大戦力だ。そのうち、半数が戦闘機だった。
大西構想の正しさは完全証明されていた。日本軍は敵機動部隊の苛烈な爆撃の矛先をかわすことに成功したのだ。
「それでT部隊の損害はどれぐらいになった?」
「現在集計中ですが、出撃機は2波で合計322機。損害は概ね3割前後かと思われます」
つまり、およそ100機の損失だった。パイロットの損失は400名近い。
「それでも、戦果の割に少ない犠牲で済んだ、と考えるべきなんだろうな。事前の計算どおりだ。これなら今晩もいけるな」
大西は笑みを浮かべた。しかし、内心は暗澹たる思いだった。昨日の夜半から今朝にかけて出撃して散華したパイロット達は皆、20代の若者ばかりだった。大西にとって子供に近い年齢の若者ばかりだ。特に学徒動員で出征した学生パイロットが多い。
大西は若いパイロット達とできるだけ言葉を交わすようにしていた。士気高揚の手法としてはありふれたものだ。しかし、大西はそうした軍事戦略的意図以上に彼等との会話を楽しんでいた。
大西は彼等の若さが眩しかった。彼等の祖国を守るという使命感は大西よりもずっと強いかもしれなかった。年頃の若者なら誰でも持っている郷土に対する素朴な愛情がそうした使命感を支えていた。若さ故の無知、或いは純粋さがそれを輝かせていた。
大西はそうした若者を死なせている己が呪われた存在であるかのように思われた。
もちろん、そうした内面の葛藤が大西の表情にでることはない。それが大西の仕事であり、指揮官の責務の1つであるからだ。
「はい。今晩も夜間攻撃は可能でしょう。昼間強襲ならば、8、9割は帰ってこなかったかもしれません。新戦術とT部隊は極めて有効です」
「そうだな・・・T部隊の各員には十分な睡眠と休養をとるように徹底してくれ。寝不足で集中を欠くようなことがあってはならん」
T部隊とは、日本海軍航空隊が編成した夜間雷撃部隊だった。
帝国海軍はマリアナ沖海戦後、戦訓分析により敵機動部隊への昼間攻撃が不可能であると結論していた。
攻撃そのものは可能だ。しかし、攻撃隊の犠牲が大きすぎた。マリアナ沖海戦では出撃機の8、9割が未帰還になっていた。苦労して再建した機動部隊はたった一度の出撃で再起不能になってしまった程なのだ。特に雷撃機の損害が酷すぎた。低空を重い魚雷を抱えて低速で飛ぶ雷撃機は格好の標的なのだ。
ではどうするべきか?爆弾でも抱いて自爆攻撃でもするか?
軍令部は一時期、そうした特別攻撃戦術、兵器を真剣に研究していたことがある。しかし、それはとある事情で中止になっていた。そもそも昼間攻撃の犠牲が多すぎるから代替案を探しているのに、自爆攻撃で損失は確実に10割になってしまう。代替案としては全く無意味だった。とある事情がなくとも、自爆攻撃など採用できるものではなかった。
そこで自爆攻撃の代替案として浮上したのが、夜間攻撃だった。
米空母機動部隊の防空戦力は大別して2種類に分けることができる。
1つはF6FやF4Uなどの迎撃戦闘機だ。これに早期警戒と戦闘機の誘導を行うレーダー・ピケットラインの駆逐艦が加わる。
夜襲ならば、戦闘機の脅威は大幅に減る。F6FもF4Uも基本的に昼間戦闘機だからだ。レーダー装備の夜間戦闘機型のF6FやF4Uは脅威だが、数は多くない。多数の攻撃機を一度に突撃させれば、突破可能だと考えられた。
もう1つの脅威は対空砲火だ。夜襲ならば、強力なボフォース40mm対空機関砲も正確な射撃が困難になる。基本的に対空機銃は光学照準で撃つものだからだ。レーダーによる射撃管制が行われるのは両用砲からだった。しかし、そのレーダーによる射撃管制にも対抗手段はある。米軍が既に実施している電子妨害だ。幸いにしても、アメリカ海軍の使用する射撃管制レーダー(特に駆逐艦用のレーダー)の使用周数帯は割れているので電波妨害は可能だった。
アメリカ海軍は全く気付いていなかったが、日本軍は第38任務部隊を壊滅させた神風から1つの贈り物を受け取っていた。転覆して沈んだはずのフレッチャー級駆逐艦の1隻が浜辺に打ち上げられたのだ。日本軍はその存在を隠匿すると同時に、搭載されていた各種レーダー、通信機器、マニュアルを押収していた。
その中には最高機密に属するレーダーの使用周波数帯に関する情報もあった。長年の謎だったアメリカ軍の新型対空砲弾(VT信管)の現物が手に入ったのもこの時だ。この駆逐艦から得られた情報は日本軍の対艦攻撃戦術を大きく変化させた。
まず、夜襲の際に、電子欺瞞片を大量使用するだけではなく、電子妨害専用機に改造した1式陸上攻撃機にT部隊に帯同することになった。この1式陸攻は妨害電波発振機とその電源用発電機を装備している。この電子戦機がレーダー・ピケット駆逐艦の早期警戒レーダー、射撃管制レーダーを無力化し、攻撃隊突入を援護した。
特に12月7日の夜半の攻撃は、アメリカ海軍にとって初めての電子妨害下の夜間攻撃となり、防空側に激しいパニックを引き起こさせた。
あてにしていたレーダー・ピケットの早期警戒が封じられ、個艦の射撃管制レーダーも使用不能になり、一瞬だけ艦隊の防空管制が機能停止に陥ったのだ。
高角砲の命中率を劇的に改善したVT信管も、正確な照準がなければ無意味だった。レーダーによる射撃管制が不可能になった第58任務部隊は光学照準に切り替えて射撃継続したが、夜間の光学照準は全くあてにならない。電子妨害により、対空砲火の脅威は大幅に減少した。
もちろん、攻撃側の日本軍も楽な戦いをしていたわけではなかった。そもそも夜間飛行そのものが困難の連続だった。策敵や接敵、攻撃位置への占位も昼間のようにはいかない。夜間攻撃専門部隊として錬成されたT部隊といえども錯誤の連続だった。夜間低空飛行で海面に激突して失われた機は数多い。訓練でさえ、そうだったのだ。実戦ではさらに多くの攻撃機が戦闘以外の要因で失われていた。
しかし、日本軍はついていた。攻撃の夜は好天に恵まれた。照明弾投下のタイミングも完璧だった。パニックを起こしたアメリカ海軍がミスを連発したことも有利に働いていた。
結果、T部隊は初陣で、3隻の空母の撃破に成功。レーダー・ピケットの駆逐艦を5隻ないし6隻、撃沈破した。日本軍にとって久々の勝利だった。
敵空母機動部隊は16ないし、17隻の空母を有することから、3隻空母を撃破すれば、敵戦力の3割を封殺したことになる。小さくない戦果だった。
大西は敵空母の撃沈にはこだわっていない。撃破するだけで十分だった。大切なのはこの一両日の制空権だからだ。この一両日の間だけ敵機動部隊を封殺できればいい。そうすれば、栗田艦隊と西村艦隊のレイテ湾突入は成功する。
問題は、12月7日の日の出から日没までの12時間だ。日のあるうちは、T部隊は動かせない。夜間以外の敵機動部隊への接近は集団自殺を意味する。敵機動部隊は再び行動の自由を取り戻すのだ。
次の日没まで、栗田艦隊が激しい空襲に晒されるのは確実だった。
「哨戒33号から入電。敵戦爆連合を視認。栗田艦隊に向かう公算大なると認む」
対空監視哨の1つが敵機の襲来を告げた。
係員が地図に敵機のシンボルを置く。敵機動部隊から発艦した第1波攻撃隊だった。戦爆連合。総数150機以上。常識的に考えて編隊の半数は戦闘機だから、爆撃機と雷撃機は60機から70機程度になる。
重大な脅威だった。しかし、第58任務部隊の推定戦力からすれば、予想よりも少ない。より大規模な攻撃隊を送り出すこともできるはずだ。
何故、栗田艦隊を全力攻撃しないのか?大西は疑問に思った。
第1航空艦隊の攻撃を警戒しているのかもしれない。だとしたら、それは取り越し苦労というものだった。第1航空艦隊は夜間攻撃しかできない。
或いは、明日到着予定の小沢艦隊との戦闘に備えた戦力温存策かもしれなかった。もしそうなら、小沢艦隊の動きが読まれていることになる。由々しき問題だった。
しかし、今はとにかく目の前の危機に対処することが先決だ。
「栗田艦隊と直援戦闘隊に敵襲を通報しろ。直援の戦闘機は何機だ?」
「疾風が30機です」
陸海軍共通採用機となった疾風は第1航空艦隊の主力戦闘機だった。零戦を使っているのは、海軍でも母艦航空部隊だけになっている。
「追加の戦闘機は何機上げられる?」
「21号マキバから20機、上げられます」
マキバとは、擬装飛行場の暗号名だ。擬装飛行場の幾つかは牧場や農場に擬装してあるから、自然とそうした暗号名になっていた。
係員はさらに30分時間をもらえれば、追加で20機の戦闘機を迎撃に向かわせることができると報告した。さらに発進準備中や待機中の戦闘機部隊のことまで細かく大西に報告してくれた。防空指揮所には情報がきちんと集まっていた。
大西は笑みを大きくした。統一的な防空指揮は完全に機能している。これまでの海軍航空隊の戦闘では考えられなかったことだ。
「いいぞ。空襲には間に合いそうか?」
「今からならギリギリ間に合います。ただし、その後の直援戦闘機のローテーションがきつくなるかもしれません」
「そうか・・・なら、21号マキバから20機だけ応援に上げろ。迎撃から漏れた分は、艦隊の方で対処してもらうしかないな」
栗田艦隊の試練は始まったばかりだった。
続く