航空戦艦の在る風景 第3話「アメリカ海軍第5艦隊」
重巡洋艦「インディアナポリス」サンベルナルディノ海峡
1944年12月7日
レイモンド・スプルーアンス大将は朝食を摂っていた。
コーヒーとトースト、それに桃の缶詰。それだけだった。スプルーアンスが掌握する兵力からすれば、驚くほど質素な食事だった。スプルーアンスが掌握する第5艦隊の総兵力は、航空母艦17、戦艦6、その他戦闘艦艇だけで170隻以上。非戦闘艦艇を含めれば700隻に及ぶ20世紀の無敵艦隊だ。
その総指揮官としてはあまりにも寂しい朝食。しかし、スプルーアンスは信念により、要人との朝食会談でもない限りはこの3つしか食べなかった。昼食も夕食も質素なものだ。若き日に経済的な苦労を重ねた経験が彼にそうした食生活を習慣づけていた。その為に、重巡インディアナポリスのコック長は腕のふるいようがなかった。コック長が大いに気に病んだという逸話が残されている。
スプルーアンスは第5艦隊の司令部を重巡インディアナポリスにおいていた。
故郷と同じ名前をもつ船だ。インディアナポリスはポートランド型重巡洋艦の1隻だった。所謂、条約型重巡洋艦。砲火力を重視したアメリカ海軍式砲戦用重巡洋艦である。就役は1932年。艦歴が10年を越えるロートル艦だ。
それでも、スプルーアンスはこの老女を第5艦隊の旗艦としていた。旗艦設備に優れる船なら他に幾らでもあったが、第5艦隊の旗艦といえば、インディアナポリスだった。
「すまないがコーヒーをもう一杯くれないか?」
スプルーアンスは質素な朝食を平らげるとコーヒーのお代わりを要求した。
従兵が音もなく動いて、空のカップにコーヒーを注ぐ。まるでリハーサルを重ねた舞台のようなよどみの無さだった。それもそのはずだ。スプルーアンスは朝食に必ずコーヒーのお代わりをするからだ。コーヒーは決まって2杯。食事中に1杯、食後に1杯。万有引力のごとき、鉄の法則だった。
第5艦隊開設以来、最悪の夜明けを迎えてもその法則は有効だった。
コーヒーを注ぐ従兵は総指揮官のタフネスに畏敬の念を抱いていた。今朝の彼は、戦闘による衝撃で満足に朝食を摂ることもできなかったからだ。
どうしたら、こんな鋼鉄の精神をもつことができるのか。不思議でならなかった。それほどまでに、スプルーアンスの振る舞いは自然体だった。
しかし、従兵にもう少し観察眼があれば、スプルーアンスの顔に不自然な強張りを見つけることができただろう。二十歳になったばかりの彼には無理な相談だったが。
第5艦隊は日本軍航空部隊の夜襲で大損害をうけていた。第5艦隊開設以来の大損害だった。まさに悪夢だった。
その衝撃を若い従兵もスプルーアンスも等しく共有していた。そうした衝撃を表に出さないのは、それがスプルーアンスの職務の1つだったからだ。指揮官は窮地にあっても動揺を表に出してはならない。その窮地が厳しければ、厳しいほど部下は指揮官の顔を見るからだ。
スプルーアンスの精神は鋼鉄製ではない。
ただ、ほんの少し他人よりも長く戦場にいたことがあるだけなのだ。
「コーヒーを飲んだら、艦橋に上がる」
スプルーアンスは言った。
艦隊の損害を直接、この目で確かめねばならなかった。
1944年10月12日。アメリカ海軍太平洋艦隊はフィリピン奪回作戦に先立って、ウィリアム・ハルゼー大将率いる第3艦隊、第38任務部隊を台湾沖に送った。
任務は、台湾とフィリピン北部に点在する日本軍基地航空戦力、軍事施設、港湾施設の恒久的な破壊。所謂、航空撃滅戦だった。その為に太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は、ハルゼーに航空母艦17、戦艦6、その他戦闘艦艇70隻、艦載機は1000機に及ぶ強大な戦力を与えた。
まさに20世紀の無敵艦隊。猛牛に率いられたリヴァイアサン。鋼鉄の暴風は吹き荒れ、台湾とフィリピン北部の日本軍はひとたまりも無く壊滅する。そう信じられるだけの戦力だった。それが可能なだけの戦力だった。
しかし、現実にはその真逆のことが起きた。日本軍の攻撃によるものではない。日本軍の防衛体制は全く不十分だった。航空戦力は再建の途上であり、指揮系統は混乱した。士気も大本営による報道ほど高くはなかった。日本軍はマリアナ沖海戦の敗北から立ち直っていなかった。第38任務部隊の攻撃で容易く壊滅したかもしれなかった。
そんな日本軍を救ったのは「神風」だった。
ハルゼー機動部隊は台風により壊滅的な打撃を受けた。
第38任務部隊を襲ったのは、台湾気象台始まって以来の超大型台風だった。台風23号の中心気圧929hPa、瞬間最大風速75m、暴風圏300kmに及んだ。上陸すれば、数千人単位で死者が出たかもしれなかった。なぜならば、それから15年後、東海地方に上陸した同規模の台風では4,697人が犠牲になったからだ。
だが、台風は台湾や日本列島に上陸することなく、そのとき海上にいた全てを暴風で吹き飛ばしながら海上を東進。やがて温帯性低気圧に変わった。この台風による日本人の被害者は大雨によるがけ崩れに巻き込まれた新聞配達員、ただ一人だけだった。
まさしく奇跡だった。本当に神風は吹いたのだ。この一連の台風による大規模海難事故により、アメリカ軍の太平洋戦線のスケジュールは2ヶ月の遅延を余儀なくされた。逆にいえば、奇跡が起きてもアメリカ軍の足を2ヶ月しか止められなかった。
しかし、これはどう考えても、神風だった。神風としかいいようがない。
たまったものではないのは、神風の被害者となったハルゼー大将だった。
現代では台風に突っ込んで自爆した無能者扱いされるウィリアム・ハルゼー大将だが、彼は何の対策もなしに被災したわけではなかった。むしろ彼の対応は迅速且つ的確だった。作戦の一時中止。暴風圏からの速やかな離脱。復元性確保ための重量物投棄。波浪に備えた積載物の徹底した固定。全て規則どおりの対応だった。
猪武者と思われがちなハルゼーだが、彼は決して馬鹿ではない。馬鹿ではアメリカ合衆国海軍の大将は務まらない。猪武者はどちらかといえば演技に近い。本当の彼はずっと慎重で繊細な人間だった。慎重に、慎重に思慮を積み重ねた結論が結果として突撃や突進になるだけだった。最初から意図してそうしようとしているわけではない。
むしろ、ホームグラウンドであるはずの日本軍の方が、対応が遅れていたほどだった。軍機の名の下に、無意味に情報規制を乱発していたためである。台風が台湾に上陸していれば、壊滅したのは日本軍の方だった。
しかしこの時、ハルゼーは決定的に航路選択を誤っていた。致命的な、どうしようもない航路の選定ミスだった。これもハルゼーの責任ではない。誤った航路の選定をしたのは、艦隊の気象観測チームだっただからだ。許可を与えたのはハルゼーだが、ハルゼーが判断の基準とした情報もまた見当違いのものだった。
艦隊の気象観測チームの設定した航路は全く完全に間違っていた。彼等は致命的なまでに東アジアにおける熱帯性低気圧について知識が不足していた。さらに知識が不足していることを認めようとしなかった。その気になれば、台湾、フィリピン近海の気象データを豊富に蓄えていた陸軍の気象観測隊に問い合わせることもできたが、それもしなかった。彼等のプライドがそれを許さなかった。
陸海軍の確執は日本軍固有のものではないのだ。
結果、暴風圏に自ら突入する形になった第38任務部隊は、それでも被害を局限するために様々な努力が続けた。しかし、やがて限界が訪れた。最初に破壊されたのは、この時期から軍艦の戦闘システムの根幹を成すようになったレーダーだった。特にアンテナ類は暴風雨で簡単に破損した。次いで通信システムもダウンした。空中線のワイヤーが切れたためだ。暴風圏下での修理は不可能だった。風速計が破損したため風速が測定不可能になったほどなのだ。艦外に出るのは自殺行為だった。この時点で艦隊の統一指揮は不可能になっていた。
さらに悲劇は続く。この時期のアメリカ海軍の艦艇は戦訓により対空火器を大幅に増設していた。これが船の凌波性や復元性を悪化させていた。重量物を上構に追加したため、トップ・ヘビーになっていたのだ。暴風圏下において、それは致命的だった。もちろん、アメリカ海軍は自軍の駆逐艦の復元性に問題があることは認識していた。その為に改フレッチャー級ともいうべき、アレン・M・サムナー級駆逐艦やギアリング級駆逐艦の建造を進めていた。しかし、この時ハルゼーの手元にあった駆逐艦は武装強化でトップ・ヘビーになり復元性に問題が生じていたフレッチャー級駆逐艦だった。
艦隊が暴風圏を離脱するまでの間に、6隻の駆逐艦が転覆して失われた。
大型艦の沈没は幸いにしてもなかった。しかし、第38任務部隊の主力である航空母艦は使い物にならなくなっていた。防御上の利点ばかり強調される開放型格納庫は悪天候に弱いという弱点があった。なぜならば格納庫が吹きさらしなのだ。吹きさらしの格納庫に瞬間最大風速75mの突風が吹けばどうなるか、20mに達する三角波が直撃すればどうなるか、分かりきっていた。分かりきっていたから、ハルゼーは早期に離脱を指示したのだった。しかし、彼の努力は結果として無駄になってしまった。艦隊が暴風圏を離脱したとき、艦載機の離着艦が可能な空母は1隻も残っていなかった。全ての空母の格納庫、飛行甲板は爆撃でも受けたかのように滅茶苦茶になっていた。悪天候により日本軍の追撃がなかったことが不幸中の幸いだった。
そして、1944年10月13日、第38任務部隊は日本軍と交戦することなく、台湾沖を去っていった。アメリカ海軍は大自然の脅威に破れたのだった。同時にそれはフィリピン上陸作戦の中止を意味していた。機動部隊が最低1ヶ月は使いものにならなくなってしまったからだ。制空権を確保する目処は全くつかなくなってしまった。護衛空母は幾らでもあったが、それで日本海軍の反撃を撃退できると考えるほどニミッツもマッカーサーも愚かではなかった。
ウルシー泊地に戻ったハルゼーはただちにその任を解かれ、特別の査問会にかけられた。
結果は無罪。
ハルゼーの対応は非の打ち所がないほど完璧なものだった。巡洋艦以上の大型艦艇の喪失がなかったのは、ハルゼーの的確な指揮によるものだと査問会は認定した。ハルゼーに足りなかったのは幾ばくかの運か、的確な情報だけだった。ほんの少しの幸運か、的確な気象情報があれば、第38任務部隊の悲劇は確実に避けられた。それが査問会の結論だった。
しかし、アメリカ合衆国の国内世論の捉え方は違った。マスコミ、新聞各社はハルゼーをハリケーンに突進した無能な雄牛だと書きたてた。おりしも、アメリカは大統領選挙の真っ只中。その最中に起きた大規模海難事故。中止を余儀なくされたフィリピン奪回作戦。ネガティブ・キャンペーンのネタにならない方がおかしかった。過激な発言でメディアへの露出も多かったハルゼーは格好の標的だった。
日本軍を相手に太平洋を駆け巡り、大型台風の脅威から艦隊を守り抜き、査問会での激烈な法廷闘争にも勝利したウィリアム・フレデリック・ハルゼー・ジュニアは、彼が守るはずだったアメリカ合衆国国民の世論により、軍人生命を絶たれることになった。彼には何の落ち度もなかったのに。
海軍省は守りきれなかったことを詫びるようにハルゼーを元帥に昇格させ、同日、ハルゼーを予備役に編入した。
しかし、仮に海軍省や心ある人々が彼を世論のバッシングから守りぬいたとしても、ハルゼーが艦隊の指揮を執ることは2度となかったかもしれなかった。ハルゼーは被災時に艦の動揺で転倒、背骨を強打していた。査問会でのストレスがその傷を悪化させていた。ハルゼーは背中の違和感に気付いていたが、そのことを公にすればそれを理由に予備役に編入される恐れがあったので黙っていた。結果、治療が遅れた。予備役編入直前には歩くことさえ困難になっていた。
「すまないな。レイ。あとはよろしく頼んだぜ」
出撃前にスプルーアンスは親友の病床を尋ねた。
2ヵ月後。フィリピン奪回作戦は多くの反対意見にもかかわらず再開されることになった。マッカーサーの強硬な要求による作戦再開だった。
再選を果たしたルーズヴェルトも本当はこの作戦に乗り気ではなかった。フィリピン奪回に使う戦力を沖縄占領に振り向ける方が効果的であることにも気付いていた。しかし、大統領はマッカーサーに借りを作りすぎていた。フィリピン奪回作戦の中止が大統領選で致命傷にならなかったのはマッカーサーのフォローによるものだったからだ。マッカーサーは一連の事件で大いに政治的な得点を稼いでいた。
そうした政治的な経緯で再開されることになったフィリピン奪回作戦に、スプルーアンスは強い不安を感じていた。だから、ハルゼーを見舞いにきたのだった。
病床にありながらもハルゼーは強気な笑みをスプルーアンスに見せてくれた。不安で一杯だったスプルーアンスを叱り、笑い飛ばし、励ましてくれた。
しかし、スプルーアンスは内心、痛々しくて見ていられなかった。
闘病生活でハルゼーはすっかり変わってしまった。
ブルドッグのような猛々しかった顔はすっかり細くなり、潮に焼けていた顔色は信じられないほど青白くなっていた。
事前にハルゼーの容態を知らされていたスプルーアンスだったが、自分の目で見るまでは、それが信じられなかった。スプルーアンスにとって、ハルゼーは永遠にブル・ハルゼーだったからだ。
自分が大切なものを失ったことに気付き、スプルーアンスは思わず顔を伏せてしまった。
そんなスプルーアンスをハルゼーは笑い飛ばした。そして、言った。
「なぁ、レイ。お前ってさ、自分のことを怠け者とか言ってるじゃないか。アレってどうにかならないのか?俺はずっと前から気になっていてな」
「それは難しい相談だな。何しろ、僕は自他共に認める怠け者だからね」
それは事実だった。スプルーアンスの怠け癖は広く衆目の一致するところだった。特に書類仕事は大嫌いだった。命令文の起草、事務処理は完全に参謀長のカール・ムーアに丸投げしていた。午後8時を廻るといかなる理由があっても、自室に戻って休んでしまう。
「でもなぁ、もうちょっと熱くなったっていいんじゃないか?怠け者なんて、斜に構えたって、俺はちょっともかっこいいなんて思わないぜ」
「そうかな?」
「そうだぜ、レイ!もうちょっと熱くなってみろよ。怠け者のお前が必死になったら、ひょっとしたら無敵なんじゃないか?ジャップネイヴィなんて、かるーくぶっとばしてよぉ。ヒロヒトをヒーヒー言わせてやれよ。そして、この戦争に勝ってみろよ」
お前ならできるさ。ハルゼーはそう言って、笑った。
スプルーアンスはもう何と言ったらいいのか分からなかった。
そして、スプルーアンスはハルゼーから引き継いだ第38任務部隊、上位組織が第3艦隊から第5艦隊に変更になったことから第58任務部隊に名を変えた機動部隊を率いてフィリピンに出撃した。
これを迎え撃ったのが、大西瀧治郎海軍中将率いる第1航空艦隊だった。
第4話へ続く