第13話「水着姿に殺される」(8/9)
「……っぐ……ぅ」
既に陽光が黄昏へと変わり入り江から差し込む中。
俺は午前中と同じように、しかし午前中とは全く異なる不快感に苦しめられながら重い瞼を開ける。
「――拓真!? ……良かった、気が付いた……拓真ぁ……」
聞き慣れた声で、人間らしい感情を吐露しながらこちらを揺り起こす少女が側に居るのだ、やはりここはまだ天国でも地獄でも無いのだろう。
――つまりここに居る少女は、俺を天国や地獄に送る事は無かったのだろう。
「……キリカ……。 俺を殺さないでくれたんだな」
「え――……っ」
こちらの問い掛けに対して、彼女の思考が、表情が止まる。
何でそんな事を言うんだ、と言う表情と、
そう言われるのも無理はない、と言う思考が、
彼女の中でぶつかり合っている。
「……楠木と同じで、お前も今は殺した後のアテが無い、ってやつか?」
返答に詰まるキリカに対し、たまらず俺は矢継ぎ早に問う。
「――……ええ。 そう、よ」
「……そうか」
言いながら瞼を閉じ、大きく息を吐く。
鈍痛の続く後頭部に手を当てると、患部を抑えるように何かがぐるぐると巻かれている。
恐らくは花崎先生が連れ去られる直前に落とした包帯と止血ガーゼだろう。
あの時花崎先生が砂浜に向けた目線と、キリカが砂浜で何かを拾いながらこちらに向かって来た行動理由が繋がる。
……だが、キリカが俺の治療を行った理由までは――あの時キリカが見せた泣きそうな表情の理由までは繋がらない。
殺した後のアテが無い以上、今死なれたら困るから治療したと考えるべきか。
それとも――。
(…………いやいや)
鈍痛にも構わず頭をぶんぶんと振る。
自惚れた考えを根拠に都合よく彼女の思考を決めつけてはあの男達と一緒だ、止めておこう。
今は俺の足がまだ地に着いているだけで――家族や彼女たちとまだこの日常を過ごせるだけで、とりあえずは充分だ。
「――戻ろうぜ、キリカ。腹が減っちまった」
重い腰を持ち上げ、立ち眩みそうになるのを何とかこらえて。
俺は立ち上がりながらキリカへと手を差し伸べる。
「…………うん」
素直にその手を取ってくれながら、彼女も立ち上がる。
そんな俺達の姿を、足元に置かれたサメのフロートだけが静かに見守っていた。
・
入り江からも見えていた夕陽が一面に広がる光景を左側に、まばらに車が走り抜ける風景を右側に捉えながら。
俺は既に夕食が始まっているであろうBBQ会場を目指し、キリカと二人、海岸沿いの道を歩いていた。
「…………。」
サメ師匠を小脇に抱えて左側を歩くキリカの横顔をちらりと見る。
無言のまま歩き続ける彼女の横顔が、朝にバスで見せていたようなツンとした表情の横顔が、夕陽の茜色を反射してキラキラと輝いている。
……本当は二人で歩きながら、色々と他愛ない話をしようと思っていたのだが。
そんな彼女の様子に釣られるように、無言で歩き続けてしまう。
「…………ねぇ」
右側に流れる車の音を聞きながらしばらく歩いた後。
先に口を開いたのはキリカの方だった。
「……ん?」
「物理の補習の時、何で下山先生はあたしも合格にしてくれたの?」
「あー……俺もキリカも今日の臨海実習に参加するって言ったら、特別に認めてくれたんだよ」
「……そう」
それ以上は彼女も言及せず、再び無言で歩き始める。
そして、またしばらくして彼女が口を開く。
「前に会ってた後輩さん……長浜さん、だったっけ。彼女とはその後どうなの?」
「んー……あの後はちょくちょくLINEで連絡してるくらいだな。今日の臨海実習は部活の登山と日程が被って出れなかったらしい」
「そう……それは残念だったわね」
「そうだなぁ……何だかんだで今日は楽しかったし、長浜にも来て欲しかったかもな」
俺の言葉に対してキリカは何も言わず、この話題はそこで打ち切られてしまう。
……何と言うか、無言が続くよりもこう言う会話がぶつ切りで続く方がかえって気まずい気もする。
やはり俺が話そうと思っていたBBQや平泳ぎの話でも楽しく振るべきだろうか、と思い口を開こうとした矢先、またしても彼女が口を開く。
「……あのさ」
今度は何だ、と身構えていた俺だったが……その話題は意外なものだった。
「――あの補習の後……お父さんに、好きだ、って言おうとしたけど……駄目だったの」
「……そうか」
まさか彼女の方からその話題が出るとは思わず、面食らいながら素っ気ない返答をしてしまう。
そんな俺の態度にも構わず、キリカはゆっくりと歩きながら独白を続ける。
「あたし、さ。普段からお母さんとばかり話していて、お父さんとは全然話せてなくて……だから、いきなり『好き』だなんて言い出すのもおかしいな、と思って」
……それは確かにそうだ。やはり俺の出した提案自体に無理があったか。
「まずはお父さんと世間話をして、それっぽく打ち解けてから打ち明けた方がいいと思うの」
うんうん、もっともな意見だ。最初は難しいと思うがそれが一番確実だろう。
「だから拓真、ちょっとお父さんの代わりになって世間話の練習をさせてくれない?」
なるほど、確かに練習台として俺は手頃な存在だ――って。
「…………なんですと?」
「駄目かしら?」
「……あ、いや、まぁ、別にやるのは構わないが……今ここでやるのか?」
「ええ。みんなの居るところでするのも恥ずかしいし――丁度良い機会だと思いませんか、お父様?」
そりゃまぁそうだが、と納得する間もなく強引にロールプレイを始め出した彼女に付き合わされる形で。
俺とキリカの奇妙な世間話が始まった。
「……あー、あー……うぉっほん。キリカ、今日は何をしていたのかね? 俺……じゃない、私に話してみたまえ」
「はい、お父様。今日は友人と水泳の特訓を――」
「あーあーちょっと待ったキリカ君!」
記念すべき第1回目の世間話は5秒で打ち切りとなる。
「――は、はいっ!? ……何かいけなかったでしょうか……!?」
「あーいやそんなに怯えないでくれたまえ。 ……しかしキリカ君、きみは父上といつもそんな口調で世間話をしているのかね?」
「――っ、あー……そうね、しているんだけど……これじゃ他人行儀過ぎるわよね……?」
ひとつ、ふたつ咳払いをした後、小さく気合いを入れてからキリカはこちらを向き直す。
「え、えっと、お父――さん! 今日はね、友達と水泳の練習をしました――したの!」
「お、おう。それは良かったな。楽しかったかね?」
「は、はいっ!」
5秒で敬語に戻り返答するキリカに対し、内心頭を抱えながらうんうんと頷く。
……確かに、これでは父親と世間話をするのにも、自然に『好き』と言うのにも大分練習が必要かもしれない。
それから俺は、キリカと様々な世間話を続けた。
キリカの家庭の事を俺が良く知らない事もあって、話題は専ら俺とキリカが出会ってからの出来事ばかりとなってしまった。
夜の帰路にてナイフを投げられ殺されかけたこと。
夕闇迫る校舎で切り刻まれたこと。
楠木に殺されかけた時に助けに来てくれたこと。
通学時や昼休みに出会ってはナイフをちらつかされたこと。
そして、補習時に殺されかけたこと。
「……って、ほとんど剣菱君を殺そうとしてる話題ばかりじゃないかね!?」
「あはは、そうみたいね、お父さん!」
話しやすい話題である事が功を奏したのか、キリカはすっかり俺と打ち解ける事ができて。
俺にとっては何とも笑えない話題に、彼女はしばしば屈託なく笑いながら楽しそうに相槌を打っている。
そんな普段のキリカとも、恐らく家庭内のキリカとも違う……年相応の可愛らしい反応に、思いがけず鼓動が速まっていく。
「お父さん、どうしたの?」
「あぁ、いや……」
こちらを覗き込んでくるキリカに対して目を背けるように、彼女の頭越しに海の向こうの景色を見た俺は――その美しさに自然と足を止める。
「……? お父さん?」
「――あぁいや、キリカ。あちらを見てみなさい」
「なぁに? 海の方に何が――」
言いかけたキリカの言葉が、足並みと共に止まる。
歩道沿いのフェンスの向こう、一面に広がる海原は真っ赤に染まりながら切なげに煌めいていて。
カモメのシルエットが優雅に群れをなす中、今まさに沈みかけようとしている夕陽が、上空と雲を海原と分かつように紅く、暗く照らしていた。
「――……きれい……」
「……あぁ、綺麗だな、キリカ……」
気付けば、キリカは俺の左腕にしがみつくようにその全身を寄せている。
「…………。」
こんな時、父親としてどう言う行動を取るべきなのかが全く分からなくて。
俺はただ、彼女の体温を左に感じながら身体を硬直させてしまう。
沈黙の気まずさは遠く聞こえる波の音が掻き消してくれて。
すぐ側で聞こえるはずの車の音は意識から掻き消されて。
そんな不思議な時間が、二人の時間を止め続けて――
「…………すき……」
不意に、彼女の心から雫が零れるように言葉が紡がれる。
俺を練習台として言う予定だった――そのはずの言葉。
「……お父さん、好き……」
「――すき、好き…………好きなの……」
「――大好きなの……お父さん――……っ!」
堰を切ったように溢れ出る言葉が、止まっていた二人の時間を再び動かしていく。
痛いほどに――殺されそうなほどに強く、腕に爪を立ててしがみつかれて。
思わず顔を向けたその先には、黄昏に照らされて紅く染まり、夕陽を迎え入れる海原のように滲ませた瞳をこちらに向けるキリカの表情があった。
「――……っ」
こんな表情でこんな事を言われたら、彼女の父親はどう反応するのだろうか。
――俺は、どう反応すればいいんだろうか。
「……あぁ」
「――私も好きだよ、キリカ」
考えがまとまらないまま、そんな言葉が漏れる。
彼女の表情が一瞬だけ歪み、数刻だけその瞳が閉じられて。
――そして、再びこちらを真っ直ぐ、切なく見上げる。
「…………お父さん……。」
「――キスしても、いい……?」
…………彼女のその言葉に、流石に思考が止まってしまう。
いやちょっと待て、いくら好きとは言え年頃の娘がお父さんとキスをするものなのか?
いやいや彼女は半分イタリア人の家系だ、日本と違ってイタリアならそのくらいは日常茶飯事なのかもしれない。
いやいやいやしかし、ちょっと待ってくれ、仮にそうだとしても練習でそこまでしてしまって良いものなのか――?
「……あ、あぁ。もちろんだとも」
全くもって考えがまとまらないまま、一気に跳ね上がる脈動を必死でごまかしながら。
俺はあくまで、イタリア人の父親として彼女の想いに応えるべく覚悟を決めて身体を向け合う。
「…………。」
無言で促すような、しかしどこか迷うようなキリカの紅潮した表情に気圧され、彼女の目線に合わせて屈んだ俺はたまらず目を瞑ってしまう。
彼女はこの練習を経て、本当に父親とこんな事をするつもりなのか?
父親に疎まれ続けた結果、父親とこんな事をするのを望むようになってしまったのか?
――それとも練習と言うのは建前で。
本当は俺とこんな事をしたくて、だとするとさっきの自惚れは本当の事で。
だがしかし俺と彼女は殺し殺され合う関係で、それはまさしく禁断の愛で――
「――っ!」
ぐるぐると巡り続ける思考を押さえ付けられるように両肩を抑えられて。
彼女の息遣いが、彼女の想いが近付いてきて――
やがて夕陽に照らされた俺とキリカのシルエットがひとつに重なって。
……唇ではなく、包帯をずらされた額へと、潤いに満ちたささやかな圧力を感じた。
「……ん、あ……?」
間抜けな声を挙げながら、強く瞑っていた両目を開く。
そこには――今まで見たこともない、悪戯心の混じったキリカの満面の笑みが広がっていた。
「――……っ、っぷ――あはははは――っ!! なんて顔してるの、拓真……っ!!」
俺が膝を伸ばしてキリカを見下ろす姿勢となってもなお、彼女は屈託なく笑い続けている。
「――おまっ……!? おい、ふざけんな、キスって言ったら普通こっちにするもんだろうが!?」
「家族とのキスは頬かおでこに決まってるでしょう? ……あれ?拓真、何かすっごく唇を突き出してたけど……もしかしてそっちにキスされると思ってたの?」
「んな……っ、違うわバカ! 俺は真剣に家族のコミュニケーションのシミュレーションをだな……っておい! 待てよ!?」
こちらの必死の弁解に構わず、キリカは俺の脇をくぐり抜けて皆の待つBBQ会場の方向へと駆け出していく。
「ここに居たら本当に唇を奪われちゃうわ、怖いから先に戻ってるわね!」
「くそ、おい待てキリカ! 話を聞け……って言うかサメ師匠を忘れて……ああもう!」
慌ててサメのフロートを拾い上げながら彼女を追って駆け出す。
道路を走る車の音が――止まっていた二人の時間が、黄昏をバックに再び流れ始める。
「ちくしょう、健全な男子の心を惑わしやがって、許さねぇぞ!?」
「あはははは! 補習の時にあんたに惑わされたあたしの気持ち、少しは分かったかしら?」
「何だよそれ、俺は別にあの時お前を惑わしてなんか……あぁくそ、待ちやがれキリカ――っ!!」
子供のように無邪気に笑いながら走り続ける彼女を、その白い水着姿を追い掛けて、頭に纏わりつく包帯を振りほどきながら走り続ける。
黄昏はいつしか静かに海原へとその身を委ねていって。
茜色と群青色とが混ざり合う光が、一つの道を駆ける二つの影を優しく照らし続けていた。




