第13話「水着姿に殺される」(4/9)
「いいぞ、始めてくれ」
そう言って楠木は、さながらまな板の上の鯉を演じるかのように仰向けとなった全身を脱力させる。
(始めてくれ、と言われてもな……)
相対する俺は目の前で横たわる素敵な鯛に対してどのように――否、どこまで施術を行えばいいのか勝手が全く分からず、日焼け止めの容器を持ったまま膝立ちの状態で無様に立ち尽くしている。
そもそも今までお袋と妹以外の女性と親しく接する機会などには恵まれなかった俺だ。
当然その身体に触れる機会なども無かった……いや、今年に入ってからそれに近い機会が結構起こった気もするが、首の骨を折られかけたり馬乗りからナイフでとどめを刺されかけたり理科室の奥まで引きずられたり……ええい、あんなものはただの不可抗力による身体接触でしかない。あんな経験を女性とのロマンスとしてカウントしてたまるか。
ともかく「女性に許可を受けて、その身体に触れる」のは思い出す限り今この時が初めての経験だ。
だからこそ相手に不快な思いをさせないよう、匙加減を間違えず適切なボディタッチをだな……
「……どうした? 早く塗ってくれないか」
膝立ちのまま思考を巡らせ続ける俺に対して、楠木が上体を起こしながら訝しげな表情を見せる。
「何か問題があるなら止めとこうか?」
「あ、い、いや、大丈夫。何も問題はない」
「そうか? ……ならいいんだが」
そう言って再び楠木は仰向けに寝転がり、俺の目前に無防備な肢体を晒す。
……その状況でもなお楠木は飄々としているあたり、ひょっとしたら意識し過ぎているのは俺の方なのかもしれない。
「……な、何か変なところがあったら言えよ」
一言だけ添えつつ、俺は左の手のひらに日焼け止めのクリームを山盛りにしていく。――ここまで来たらなるようになるしかない。
クリームが盛られた左手を目下の楠木の身体――その中でも最も広くて目立つ、お腹の部分にゆっくりと下ろし、そして肌の上に押し付けていく。
「……ん……」
くすぐったがるように小さく猫撫で声を挙げる彼女の反応に早くも萎縮しつつも、まだ特に問題はない事を確認しながらゆっくりとクリームを延ばしていく。
「……。」
彼女の肌を撫で回しながら恐る恐る楠木の表情を伺うが、彼女は瞳を閉じながら気持ちよさそうに身を任せている。……恐らく今のところは順調なのだろう。
左手に盛られていた分量を全て彼女のお腹に移した後は、右手も使って大きく円を描くように、されど手が滑って彼女の双丘に登ってしまわないよう、慎重かつ丹念にお腹全体へと白く薄い塗膜を馴染ませていく。
ひと通り腹部への塗布が終わった後は事故の危険の少ない両腕へ、そして一気に事故の危険の増す両脚へ……そう、手が滑って水着に覆われた彼女のプライベートゾーンに座礁してしまう事故が起こらないよう、必死に自制しながら施術を進める。
「……よ、よし。だいたい塗り終わったぞ……多分」
「うん、有難う。次はこっちだな」
果たして辛うじて法に触れぬまま施術の前半を完遂させた俺は、こちらの気も知らず気だるそうに身体を反転させる楠木の様子を忌々しく眺める。
……まぁ、これでこいつの表情を伺わなくて済むようになったし、前面と違って背面は事故の危険もそこまで高くないだろう。後は程よく彼女の肌の感触を楽しみつつきっちり塗りきって――
「――あぁ、背中は全部塗ってくれないか?」
……なんて事だ。
幸か不幸か、彼女はそう言いながら自ら背中に後ろ手を回して、水着の胸部分を留める金具を外し始めたのである。
「……あ、あぁ」
やがて留め具が完全に外され、フリルの着いたワインレッドの水着がほどけながら彼女の手に振り払われ――そして完全に露わとなった一面の背中を見ながら、俺は何とか平静を装いつつ了承する。
……いずれにしてもやる事は変わらない。あくまで程よく、あくまで過ちを犯さない程度にひと時の夏のイベントを楽しむのが肝要である。
(……。)
左手に日焼け止めのクリームを塗りたくり、その手を白魚のような背中に滑らせていく。
そして両手で全体に満遍なく延ばしていきながら……思わず、シートの上に垂れ落ちた水着とその横の肌色との境目を注視する。
(…………。)
――水着の上部分が外されて無防備になったのは彼女の背中だけではない。
鳴神より9センチほど小さいもののその小さな身体と比較すれば充分に大きい、そして普段はしっかりと着こまれて目立たないその部分が……その部分の麓が、彼女の背中部分から地続きで顕現しているのがはっきりと見て取れている。
当然ながらそこから先の部分、所謂山頂の部分はうつ伏せとなった彼女自身の身体に阻まれ見ることは叶わないが、そこからすぐ横、6合目くらいから麓までのなだらかな地形は今まさに俺の視界の元に無防備に晒されている状況だ。
(………………。)
……今ならここにも日焼け止めを塗れる。
塗れるのだが……塗るべきなのか?
(……――いや)
……彼女に日焼け止めの塗布を任された以上、極力塗れる範囲で塗り込むべきだろう。
それならば今まさに露わとなって塗る事のできるここにも俺は諸手を差し出し、入念にクリームを塗り込むべきだ。俺にはその権利と義務がある。
(…………――いやいやいや)
それだけじゃまだ足りない。
例えば万が一にでも先程の鳴神のように水着の上部分が吹き飛ぶ事があるかもしれない。
そうなった時に彼女が中途半端な日焼けをしてしまわないよう、山頂部分までしっかりと日焼け止めを塗り込む為に。
俺は彼女の麓から更に奥へと諸手を潜り込ませて、今はまだ見ぬ桃源郷と共にその全体をしっかりと手のひらで包み込んで――
「だいたい塗り終わったか?」
(うわあぁぁ――っ!!?)
突如こちらに顔を向けてきた楠木に対し、彼女の脇腹に到達しかけていた両手を慌てて空に放り投げる。
「……あ、あぁ。背中も塗り終わったし、これで終わりにしていいか?」
「あぁ、有難う。顔と水着の下はあとで自分で塗る事にするよ」
こちらの焦燥を知ってか知らずか、楠木は後ろ手で水着を直しながら他意の無さそうな表情で微笑む。
そんな彼女の様子にも関わらず、俺は彼女が自ら日焼け止めを塗り込むであろう水着の中の情景を勝手に思い浮かべてしまう。
(……っ)
――駄目だ、これまでの手先の感触とよからぬ情景がリンクしてしまい、人知れず身体の一部が反応してしまっている……これではもはや程よくひと夏のイベントを楽しむどころではない。
こんな状況を楠木に見られるわけにはいかない、彼女に感づかれぬよう前屈み気味の体勢のまま距離を離そうとした……が。
「――せっかくだから、剣菱にも日焼け止めを塗ってやろうか?」
まるでこちらを引き止めるように、こちらの焦燥をからかうかのように。
楠木は続けざまにそんな魅力的な提案をしてきやがったのである。
「――あ、お、おう、頼む」
反射的にその言葉に甘えてしまい、直後に致命的な問題が文字通り浮き彫りとなっている事実を改めて思い出す。
「……あ、いや、頼むが……」
日焼け止めを塗ってもらう際、当然ながら仰向けかうつ伏せのどちらかに寝転がる事となるが……仮に先程の彼女のように仰向けに無防備に寝転がったとしよう。
……うん、そうなった時点で既に詰んでいる。今現在浮き彫りとなっている俺の身体の問題が仰向けの状態で水着越しに無防備に晒される、その事実だけで楠木すみれへのセクハラ罪により殺されても文句は言えまい。
「頼むが?」
「頼むが……ま、まず背中から塗ってくれ!!」
「……? わかった」
俺の問題もいざ知らず無遠慮に近付く楠木から逃れるように、叫びながらレジャーシートの上にうつ伏せでダイブする。仰向けが駄目ならうつ伏せしかない。
俺の必死な姿に少なからず不審がられたものの、それ以上は特に言及する事もなく、楠木は俺のすぐ側にぺたりと座り込んで施術を始めた。
(……。)
日焼け止めのクリームのひんやりとした温度と、楠木の小さな手のひらの圧力が背中越しに伝わる。
そればかりでなく、彼女が背中の奥側を塗ろうと身を乗り出すたびに彼女の膝が、時々ふくらはぎが、所により太ももが俺の太腿や脇腹に当たる。
(…………。)
ひと通り背中を塗り終えた彼女はシームレスに脚部分への塗布へと移行し、両手で俺の太腿を包むように撫で回して……。
相変わらず飄々とした様子で抵抗感なく異性の身体に触れて来る彼女に対して、不可抗力以外で異性に触れられ慣れていない俺の心は早くも良くも悪くも参ってしまっている。
(……まずい)
本来であれば背中を塗ってもらっている間に浮き彫りとなっている俺の問題を収束させて、そして大手を振って仰向けになるはずだったのだが……
背中や内腿を這い回る彼女の五指の感触が、無防備に開脚された状態で当てられる彼女の内ももの感触が、俺に問題を収束させる一切の猶予も与えさせてはくれない。いやむしろ地面との圧迫感も相まって問題は更に肥大している気さえする。
兎にも角にも、彼女が背部を塗り終えてしまう前に何とか事を収めるしかない。
そう思い心を落ち着かせて、彼女の手の感触を極力感じぬようにして――。
(……あれ)
不意に彼女の手の感触が本当に消える。
否、実際にその手が離れる。
数刻後、脚を軽く抑える感触と
内腿を刺すちくりとした感触がほぼ同時に脳内に走って。
そして即座に全身を強烈な悪寒と痺れが走って
(――……な、に……?)
まるで肺の隅々まで海水が満たされたような感覚に襲われて。
息を詰まらせながら懸命に振り返ると、そこには俺の太腿に跨ったままこちらを見下ろす楠木の姿がパラソルの日陰をバックに映し出されて。
その手には日焼け止めではなく注射器が握られていて。
そしてその顔は奸佞邪知たる会心の笑みに満ちていて……。
「――――楠木……っっ!!」
瞬間、痺れと共に憤怒の激情が全身を包む。
こちらの油断を誘い一服盛ったこいつと、この期に及んで油断をしてしまった俺と。
その双方への怒りを叫びながら、俺は無駄と知りつつも全身を必死に動かして――
「……あ、れ?」
あっけなく、全身は動いて。
俺は楠木を転げ落としながらその場に立ち上がった。
「…………。」
上体を起こしながらこちらを見上げる彼女と目が合う。
気まずい沈黙を、海水浴を楽しむ喧騒がささやかながらも埋めていく。
「……あー……」
やがて楠木が口を開いたかと思うと。
「この分量の毒でも自由を奪えないとはな……すまない、君の事を見くびっていた」
そんなピントの外れた謝罪の言葉を言ってきやがった。
「んなっ……お前、人を殺そうとしておいて言う事がそれかよ!?」
「いや待ってくれ剣菱、君に注射したのは麻痺作用を持つ神経毒であって君を直接死に至らしめるものではないよ」
「どのみち俺に効き目があったら遅かれ早かれ俺が殺されるやつじゃねーか!!」
「いやいや聞いてくれ剣菱、先程話したとおり今の私には君を殺した後のアテがない、だから今回はあくまで君に対してどれだけの毒が効くかをテストしたかっただけであってな、たまたま君が無防備だったのを良い機会だと思って」
「うーるーせーえー!! こちとらテストは先週散々やらされてお腹いっぱいなんだよ! だいたいテストだろうが本番だろうが毒を盛る事に変わりはねぇだろ!?」
「いやいやいや見てくれ剣菱、君に毒が効こうが効くまいがこの解毒剤を注射するつもりだったんだが――」
矢継ぎ早に怒り狂う俺に対して、矢継ぎ早に弁解していた楠木だったが。
もう1本の注射器を取り出しながら、視線を俺の目線から少し下げつつ言葉を止める。
「……? なんだよ」
「あぁ、いや……それだけ元気なら、解毒剤は特に必要は無さそうだな……」
か細い声で呟く彼女に釣られて視線を下げる。
……そこには俺が持参した覚えのない注射器が、彼女への使用を欲するかのように水着越しにその存在を誇示していた。
「――~~~っっ!! ……す、すまん!! いやこれは違うんだ、多分毒の副作用とかで決してやましい事は――」
結局その問題を露呈させてしまった俺は、訳の分からぬ言い訳を叫びながらその凶器を隠すようにレジャーシートの上に座り込む。
……終わった、これは楠木すみれへのセクハラ罪により再度致死量の毒を注射されても文句は言えまい。
そこまで覚悟して彼女の沙汰を待った……が。
「……いや、気にしないでくれ」
「……と言うか、その……日焼け止めを塗る事を、そんなに愉しんでいるとは思わなかった……」
それだけ言うと、楠木も自分の身を隠すようにレジャーシートの上に座り込んでしまう。
……その仕草が、今の今まで自分の魅力に気付かず飄々としていた姿とのギャップも相まって、余計に俺自身の問題を露呈させてしまった。
・
「……。」
日陰でもなお眩しさを感じる視界の中、楠木と二人並んで体育座りをしながら海水浴を楽しむ喧騒を眺める。
「…………。」
気まずくもどこか心地よい沈黙の中、楠木の横顔をちらりと見る。
眼鏡があろうが無かろうが、飄々としていようがいまいが、その凛とした面立ちは俺の目にはやはり魅力的に見えた。
そしてもちろん普段は見る事の叶わないその水着姿も、いまだ俺の手に残る肌の感触も……。
「……なにジロジロ見てる剣菱。さっきの5倍の濃度の神経毒をその注射器に注射するぞ」
「…………ごめんなさい」
慌てて視線を前に戻し、心穏やかに喧噪を眺めようとする……が。
「――いや、やっぱ見ろ」
「は?」
慌てて声がした方向を見上げる。
そこにはパラソルの日陰から抜け出し、真夏の太陽に晒されながら輝く楠木の水着姿が立ち塞がっていた。
「……その、正直なところ、だ。 私なんかの姿で君がそこまで心惑わしてくれるとは思わなかった」
「これが所謂ハニー・トラップと言うものなのかな……毒殺とも相性が良さそうだし、色々と試させてもらうよ」
そう言ってどこか愉しげに微笑みながら、彼女はたどたどしくも艶めかしいポーズを取りつつこちらの反応を伺う。
「……。」
少々面喰いながらも、俺は彼女の水着姿に――いや、彼女自身に見惚れてしまう。
そこには既に自分の思いがけぬ魅力を恥じようとする姿はなく、ただ自分の魅力をも暗殺の術として利用しようとする真摯な姿があった。
そんな姿が――どうしようもない事に俺の目にはやはり魅力的に見えてしまうのである。
「……試すのは構わないが、興奮し過ぎた俺が思わず襲い掛かってきても上手く捌いてみろよ?」
「――いやいや、それは駄目だ剣菱! これはテストだからな、そう言うのは本番まではご法度だ!」
「おまっ……散々こっちを茶化しておいてそれは無いだろ!?」
あっさりとポーズを取るのを止めてけたけたと笑い出す楠木に釣られて、もはや浮き彫りとなった問題など始めから無かったかのように笑ってしまう。
――いくら印象が変わっても、どんなに性的な魅力を感じても。
どこまでも変わらぬ楠木すみれの本質に心地よく漬かりながら、俺は海辺の喧噪と彼女の言笑をしばしの間愉しむのだった。




