プロローグ ~死んでもいいわ~
『死んでもいいわ』
とある文豪の告白に対してとある文豪が残した有名なアンサーソングだ。
……いや、お互い面と向かって言い合ったわけではなかったかな。まぁそれはどうでもいい。
ともかく『アイラブユー』に対するOKの返事として定着しているオシャレな言葉であることは間違いない。
健全な男女にとって愛の告白を受けるのは確かに嬉しい出来事だろう。
だがしかし『死んでもいい』と言うのは流石にオーバー過ぎやしないか?と俺は以前からずっと考えていた。
身分違いの恋の成就が文字通り命にかかわる1世紀前ならともかく、現代は大人も子供も気軽に婚前交渉を繰り返しながら彼氏彼女をとっかえひっかえしてる時代だ。
今のこの世の中ならもう少し、『死んでもいい』と思うに相応しい事象があってもおかしくないんじゃないか?
「そうだな、例えば俺だったら……」
ひとりごちながら通学路をてくてくと歩く。
他の学生達が賑わいながら歩く海沿いの大通り、そこからひとつ外れた小道。
歩きづらいが少しだけショートカットにもなる静かな小道をゆっくりと下りながら、俺はひとり取り留めもなく考えを巡らせていた。
――今すぐにでも死んでもいい、と思うほどの充足感が得られる瞬間。
まぁ、真っ先に考え付くのは三大欲求のうちあの欲求が想像を超えて満たされるハーレム的な状況だろう。
あいにく俺は健全な男子高校生だ、そのような経験は一切ないし何ならアイラブユーの告白を受けた経験すら一切ない。
だがしかし『死んでもいい』と言えそうな成功体験として真っ先にそれを思い付いてしまうのも、健全な男子高校生である以上は仕方のないことじゃないか?
「他にはそうだな、スポーツ界でむちゃくちゃビッグになって……」
自分が金メダルを取った瞬間のことを妄想しながら、勾配が少し急になった下り坂を歩いていく。
「でも流石に表彰台の上で今すぐ死んでもいいとは思わないな。あと何年か活躍して、体力の限界が来たくらいのタイミングで……」
捕らぬ狸の死に算用をしながら、朝日を背にして下り坂を歩き続ける。
――その時。
「……?」
不意に背中から違和感を感じる。
先刻まで背中に感じていた朝日の眩しさと暖かさが、不意に喪失して――
「やば――……っ!!」
違和感が急速に確信へと変わる。同時に俺は「今自分が独りで歩いていた」ことを思い出す。
ちくしょう、普段はキッペーと二人で歩いていたから安全だったってことを忘れてた……!
自分の愚かさを後悔しながら一息に振り替える俺の目前に広がるのは、朝日を背に大きな人影が空中から急速に迫りくる光景。
その影は走り幅跳びのような体勢で、ごく一般的な女子高生と同じである自らの装いも顧みず大きく両脚を開いて。
「拓真く~~~んっっ!!!」
――勢いを殺さぬまま、その下腹部を俺の頭部へと突っ込ませてきた。
「んぶぅ――――っっ!!!」
両頬に両太股の柔らかい感触を、そして顔の真正面でもっと柔らかい感触を感じながら、俺は跳躍の勢いを乗せた彼女の全体重を頭部だけでまともに受け止めさせられる。
踵でこらえる事も敵わず俺はバランスを大きく崩し、彼女の勢いに押されるまま後ろ向きに身体を投げ出される。
(――白、か……)
呑気にもそんな感想を漏らしてしまう。
目の前に広がる光景はまさしく世の中の健全な男子高校生が一度は夢見る桃源郷だ。
顔全体を包む桃のような感触も相まって、不覚にも『死んでもいい』とさえ一瞬思ってしまう。
しかしそんな事を考えている暇はない。
このままでは本当に死んでしまう。
「ぐっ……――!!」
右手に掴んでいた鞄を手放し、ほぼ死に体となった全身の中で唯一生きている両手を必死に振り上げる。
このまま無防備の後頭部をコンクリートに叩き付けられたら無事では済まない。
しかし両手を後頭部の保護に回すだけでは俺は助からない。
こいつの本命は、こいつが俺に桃源郷を見せてきた理由はただひとつ。
俺の頭を両太股で挟んだまま思い切り捻り、俺の首をへし折る為である。
ならば、両手の使い道はひとつしかない。
「こんにゃろぉ――――っ!!」
俺の頭を挟む彼女の両太股の更に外側から両手を回し、全力で抱え込んでがっちりとホールドする。
そして上半身を全力で捻り、抱え込んだ太股ごと彼女の全身を大きく揺さぶる。
「え、うわっ……きゃあぁぁ――っ!!??」
首尾よくバランスを崩した彼女は俺の首を極める事すら叶わず、俺もろともコンクリート舗装の通学路に吸い込まれていく。
直後、引っ越し業者がタンスをひっくり返したような騒音や衝撃とともに。
どちらが先に墜落したかも分からないまま、俺達は揉みくちゃになりながら下り坂を数メートル転げ落ち、そして止まった。
「ぐ、ぅ……」
「いてて……。」
只事でない音を聞きつけ、道沿いの家の住人達がざわつきながら集まってくる。
くんずほぐれつの格好で彼女と倒れていた俺は、見物人たちを牽制するように咳払いしつつ立ち上がる。
そして制服についた土埃をぱんぱんと払い、一呼吸置いてから……未だ倒れている彼女に向かって激昂する。
「お前……殺す気か――――っっ!!」
「――――うんっ!!」
全く悪びれず、これ以上ない最高のスマイルを見せながら。
上半身を起こした彼女――鳴神もみじは、いつものように俺の問いに元気良く答えた。
顔に手を当てて、無事だった首を無言で振りながら。
俺はつい先刻思ってしまった世迷い事を自ら全力で否定する。
『死んでもいい』なんて冗談じゃない。
こんな状況、俺は『死んでもごめんだ』。