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Cafe Shelly

Cafe Shelly 夏、そして私

作者: 日向ひなた

 セミの声、アサガオの花、子どものはしゃぐ声。

 また夏がきた。私にとっては忘れられない、あの夏がきた。悔やんでも悔やんでも、もう戻ってこないあの夏が。

 あの日、私は彼に別れを告げた。もう会わない、二度と会わない、そう心に誓って彼の目を盗んで車から駆け降りて、そしてメールで別れを告げた。あのとき、私に後悔はなかった。駈け出したけれど、行くあてはなかった。ただただ、彼の目から離れようと目立たない道を歩いた。そのときに聞こえたセミの声、目に映ったアサガオの花。そして遠くではしゃいでいる子どもたち。それだけが私の心に強く残っていた。

 彼は優しかった。けれど、それは私だけに向けられたものではなかった。騙されていたんだ。結局、私は彼にとって一番大切な人ではなかったんだ。それを知って、私は別れを決心した。そして今は後悔している。

 あれから何度夏が来たかな。たぶん三度目くらいだったと思う。あれ以来、私は恋ができなくなった。人が怖くて、みんな嘘つきに見えて。私に優しく声をかけてくれる人もいた。けれど、その奥に何が隠れているのかがわからなくて。結局私から相手を遠ざけてしまっていた。そして今年の夏もまた一人ぼっち。


「未優樹さん、今日仕事終わったら飲みに行かない?」

 同僚のしずかの誘い。彼女は私だけじゃなく、同僚の男性にも声をかけまくっていた。しずか曰く、夏はやっぱりビアガーデンでしょ、ということ。そのシーズン到来とあって、三日を空けずに飲みに行くという。

「今日は私は遠慮しとくわ」

「未優樹さん、何言っているんですか。この前もそうやって断ってたじゃない。たまにはパーッといきましょうよ、パーッと」

 彼女の明るくてオープンな性格は周りに好まれるらしい。しつこいくらいの誘いにも関わらず、多くの同僚が彼女と行動を共にしている。それに比べて私は人付き合いが悪いほうだと思われている。もともとそんな性格じゃなかったはずなのに。あの夏以来、私はこんな性格になってしまった。

 だから後悔している。あんな別れ方をするんじゃなかったって。もっと正々堂々と、正面きってあいつに絶縁状を叩きつけてやればよかった。あの車から飛び降りたシーンを思い出すと、今でも体に震えがきてしまう。それだけ私にとってはショックな出来事だったんだ。それを自覚せざるを得ない。

「未優樹さん、たまには行きましょうよ。ねっ、ねっ。みんな、期待してますよ」

 今回に限ってはしずかもしつこいくらいに私を誘う。まぁ、家に帰ったところで何か用事があるわけじゃないんだけど。

「わかったわよ。でも今日だけよ」

「やった! じゃぁ、六時半にロイヤルホテルの屋上のビアガーデンで。よし、これで人数もそろったぞ」

 人数? 何のことを言っているのだろうか。それはロイヤルホテルの屋上に行ってわかった。

 時間ちょっと前に会場に到着。一足先に来ていたしずかを探す。すると、その席には三人の男性と二人の女性が座っていた。男性のうち一人は会社の同僚。そして残りの二人と女性の一人は初めて見る顔。どうやらしずかは変則的な合コンをセッティングしたようだ。

「さぁ、今夜はいっぱい飲んで楽しみましょー」

 しずかの明るい声で乾杯となり、各々が好きなようにビールと料理を楽しみ始めた。私はもともとそんなに飲む方じゃない。だからビールもチビチビと喉に流し込む程度。やはり周りのテンションにはついていけそうにない。

 ふと顔をあげると、相手の男性陣にも一人同じような人がいた。笑顔で笑ってはいるけれど、会話に交じるわけでもなく端の方でうなずくだけ。ビールの量もそんなに減ってはいない。なんか同じ匂いがするな、この人。

 そうやって彼を観察していたら、今度は彼の方が私に目をあわせてきた。そこで社交辞令的ににこりとあいさつ。むこうも同じように笑顔で私に返してきた。照れた笑いがなんだかかわいいな。私より年下かしら?

 ちょっとだけ興味を持ってもう一度微笑がえし。そうしたら彼の方から話しかけてきた。

「なんかあまり楽しくなさそうですね」

「わかります?」

「えぇ、なんとなく。ボクも同じですから。今日、会社の同僚の彼女から強引に誘われて。ほら、あそこで大声で笑っている女性です」

「私もよ。同僚のしずかからどうしてもって言われて。まさか、合コンがセッティングされているなんて思いもしなかったわ」

「同じですよ。あ、私はこういうものです」

 彼はポケットから名刺を取り出し私に差し出した。

 新栄電機 システムエンジニア 田上拓郎

「システムエンジニアなんだ」

「はい、今日来た三人は会社でプログラムをつくっています」

「そうなんだ。ごめんなさい、私は名刺を持つような仕事はしていないから。南日印刷で事務をやっているの。浅田未優樹っていいます。未来の未に、優しいって字に樹木の樹で未優樹」

 私の名前は珍しいので、初対面の人にはいつもこうやって説明をする。

「へぇ、未優樹さんか。きれいな名前だね」

 名前をほめられるのは悪くない。だからといって相手に気を許すなんてことはできない。

「ありがとう」

 そう言ったきり、私は言葉をつぐんでしまった。正直、この人と何を話せばいいのかわからない。やはり男性に触れることに臆病になっているみたい。拓郎さんもどうしていいのかわからず、今度は視線をはしゃいでいるみんなへと移した。私も同じように視線を移す。あんなふうに無邪気に騒ぐことができたらなぁ。きっと、嫌な恋も忘れてしまえるんだろうな。

 恋はしたい。けれど今の状況じゃ無理。そうやって私はまた、殻に閉じこもってしまう。

「未優樹さん、なんだか寂しそうですね」

「えっ!?」

 拓郎さんのその言葉で、自分の世界に陥りそうなところを引き上げてもらった。

「あ、ごめんなさい。未優樹さんを見ていたら、なんかそんなふうに思えたもので」

「やっぱり、そう見えるのかな…」

「何か心にひっかかることがあるのなら、ボクでよければ話をしてください。少しでも未優樹さんの気持ちが軽くなるのなら…。あっ、ごめんなさい。初対面なのにこんな図々しいこと言っちゃって」

「ううん、いいの。拓郎さんって優しい人なのね」

 お世辞ではなく、本当にそう思った。今まで私を見て、暗いとかおとなしいと言う人はたくさんいた。けれど、寂しい思いをしているなんてことを言ってくれた人は初めて。

「いつか、いつか話せる日がきたら話すね」

「そうですよね、さっき会ったばかりの人に自分のことを話すなんて。アハハハ」

 拓郎さんは無理に笑ってくれた。それでまた救われた気がした。

 結局、この日はそれでお開き。私と拓郎さん以外はさらに夜の街に消えていったようだけど。私は何事も無く家に帰った。唯一の救いは、私のことをちゃんと見てくれた人がいたということ。それだけでも気持ちが少し温かくなった。

 翌日、会社でしずかからこんなことを言われた。

「昨日知り合った新栄電機の田上さん。彼が未優樹さんの連絡先を知りたがってたみたいですよ。電話番号かメルアドは教えなかったんですか?」

 合コンに行くと、これが面倒。私から連絡なんてとろうとは思っていないのに。男性の方から積極的にアプローチがくる。だから連絡先なんて教えようとは思わない。

 けれど今回だけは違った。しずかの言葉が仕事中も頭に残っている。田上拓郎さんか。まぁ悪い人じゃなさそうだし。連絡先くらい教えてもいいかな。昨日もらった名刺に書かれたアドレスに、私の携帯電話からメールを送ってみた。さすがに電話番号までは教える気にはなれなかったけど。そうしたら、五分も経たずにメールがきた。タイトルには「田上です」と書かれている。携帯電話からのメールだ。なんだかちょっと嬉しい。でも、彼と付き合うとかそんなつもりはない。ちょっとした息抜き程度にメールを送るか。そのつもりで、社交辞令的なメールを返信。そうしたら、今度は十五分後にまたメールが。今度のメールには拓郎さんの自己紹介が書かれてあった。

 年齢は私より二つ下。田舎は九州の方で、大学がこっちだったのでそのまま就職したらしい。趣味はパソコンとジョギング。血液型はAB。そんなたわいもないことがズラズラと書かれていた。よほど彼女が欲しいんだろうな。でもこれじゃ、女性がグラっとくることはないわよ。やはり拓郎さんもそこらへんの男性と同じかな。けれど、最後の言葉が私のその気持を変えてくれた。

「昨日はしっかり眠れましたか? 未優樹さんのことが心配でした。寂しそうな未優樹さんをどうやったら元気にできるのか、それを考えています」

 拓郎さんのやさしい言葉。思わず微笑んでしまった。それから拓郎さんとのメールのやり取りが始まった。といっても、お互いに仕事があるのでその時間帯は控えようということに。主に朝の挨拶と、仕事が終わってからの一日のこと。そんなことをやりとりするようになった。

 拓郎さんはプログラマーで、毎日帰りが遅い。この前はたまたま定時に仕事が終わったらしく、通常は十時、十一時という時間に帰りつくらしい。私へのメールは残業時間の気分転換になるらしく、とても喜ばれた。

 この人だったら少しは気を許せるかな。そう思ったけれど、やはりまだ素直にはなれない自分がいた。そのやりとりが一週間ほど続いた日に、拓郎さんからこんなお誘いがきた。

「ボクのお気に入りの喫茶店があるのですが。よかったら今度の日曜日に一緒に行きませんか?」

 デートの誘い? でも今どき、デートに喫茶店だなんて。まぁ拓郎さんらしいけれど。

「どんな喫茶店ですか?」

 そう送ったら、しばらくしてすごい文量のメールが送られてきた。そこには拓郎さんがおすすめの喫茶店のことが、事細かく書かれてあった。店の雰囲気や店員さんのこと。なんとなく情景がイメージできる。特に気になったのは、オリジナルコーヒーのシェリー・ブレンドのこと。

「そのコーヒーは魔法のコーヒーなんです。その人が欲しいと思っているものの味がするんですよ。そして、そのことをマスターや店員のマイさんと話すことで、自分のやるべきことが見えてきます。そのコーヒーをぜひ未優樹さんにも味わって欲しいです」

 それだけ熱を込めて言われたら、行くしかないと思うじゃない。結局私はイエスの返事を送ってしまった。男性と一緒にどこかへ行くなんて、三年ぶり。でも、本当にこのまま拓郎さんとカフェ・シェリーに行ってもいいのかな。今の私がどうしてこうなってしまったのか。それを先に伝えなくてもいいのかな。というより、私のことを拓郎さんに打ち明けたい。その方が気が楽になるから。でも知ってしまったら拓郎さん、引いちゃうかもしれない。

 そうして悩みに悩んだ挙句、私は思い切って自分のことをメールで打ち明けることにした。三年前、付き合っていた彼と別れた時のことを。それ以来、人間不信になってしまったことを。セミの声、アサガオの花、そして子どもの声を聞くと、あの時のことを思い出してしまうことを。

 メールで送ってしまって、そのことをちょっと後悔した。もしかしたらこれで拓郎さんとは終りになるかもしれない。

 この日、拓郎さんから返事がこなかった。あさっては拓郎さんとカフェ・シェリーに行く日。けれど、それも実現できないのかな。やっぱりあんなメールなんて送るんじゃなかった。その日はモヤモヤしたまま、一睡もできずに朝を迎えた。幸い土曜日で仕事は休み。けれどこんな顔じゃ人前には出られないな。

 ふと携帯電話に目をやると、メール着信のランプがついていた。まさか、もしかしたら。期待を込めて私は携帯電話を開いた。拓郎さんからだ。でも、メールを読むのが怖かった。ごめんなさい、なんて言葉が並んでいたらどうしよう。

 意を決してメールを開く。そしたらそこにはこんな言葉が。

「お返事遅れてごめんなさい。昨日は突発的な残業になって、終わったのが午前二時だったもので。それから未優樹さんのメールを読みました。そして寂しそうな横顔の理由を知りました。こんなボクに打ち明けてくれてありがとう。ボクは未優樹さんを少しでも笑顔にしてあげたい。ボクには彼の代わりはできない。けれど、何かできることをやってあげたいです。毎日笑顔にしてあげたいです」

 その優しい言葉に涙があふれてきた。拓郎さんを信じてもいいんだよね。彼にすがってもいいんだよね。

 そうして日曜日の約束をした。午前十一時に駅前の噴水のところで待ち合わせ。私は気分よく明日の準備を始めた。何を着ていこうかな、どんなお化粧しようかな。考えるだけで心が弾んでくる。久しぶりだ、こんなに人と会うのが楽しめるなんて。

 そして翌日、待ちに待った時間がやってきた。ちょっと来るのが早かったかな。時計は十一時の十分前を指していた。

 夏の日差しが突き刺してくる。日傘をさして目立つところに立つ私。そろそろかな。拓郎さんって時間には正確な方かしら。それとも意外にルーズなのかしら。そんなことを考えていたら、待ち合わせの十一時になった。

 まだかな。もうそろそろ来るだろう。そう思って時計をちらちら見ながら待つ。おかしいな、私が時間を間違えたのかしら? 念のため携帯電話のメールを読み返す。やはり待ち合わせは十一時、しかも場所は駅前の噴水となっている。遅れるなら連絡がありそうなものだけど。

 ヤキモキしながら拓郎さんを待つ。しかし時計は十一時十五分、二十分と無常にも時を告げてくれる。さすがにしびれを切らしてこちらから電話をかけてみる。おかしい、電話に出ない。ひょっとして電車かバスの中だから出られないのかな?

 そして待つこと四十分。私は時計を見て、そして涙を流した。もう人なんて信じられない。いい人なんていないんだ。もう誰も信じない。信じるもんか。

 家に帰る間、私はずっと泣いていた。泣いて泣いて、もう涙も出てこなくなった。わずか数日間の付き合いだったけれど、拓郎さんとはこれでサヨナラ。気がつけばセミの声、朝顔の花、遠くではしゃぐ子どもの声。また私にとって夏がつらい想い出になった。


 翌日、私は引きずるような足取りで会社へ向かった。気持ちを切り替えなきゃ、そう思ってもやはり心のなかには重たいものがのしかかっている。会社に着くなり、しずかが私に駆け寄ってきた。

「未優樹さん、大変なことが起きたんだってね!」

 大変なこと? ひょっとしたら私がデートをすっぽかされたことなのかな? でもそんなこと、誰かが知っているわけないし。

「えっ、なんのこと?」

「うそっ、未優樹さん知らないの? ほら、この前合コンした新栄電気の人。えっと…未優樹さんの連絡先を知りたがってた人よ」

「あ、たく…田上さんのこと?」

 今はその名前を言うのもつらかった。

「そうそう、その田上さん、昨日事故にあったんだって!」

 えっ!? 私は目の前が真っ白になった。

 この日、私は仕事がまったく手につかなかった。拓郎さんが事故にあった。だから私に連絡がとれなかったんだ。事故ってどんな事故なの? 拓郎さんは今どんな状況なの? それを思うと気が気じゃない。でも、それをどうやって確かめればいいの? そんな私を見て、しずかが助け舟を出してくれた。

「私の友達に状況を聞いてみようか?」

 いつもの私なら、そんなことしなくてもいいよ、と言ってしまうところ。けれど今回ばかりは

「おねがい、聞いてくれるかな?」

と懇願した。そしてしばらくしてこんな答えがしずかから返ってきた。

「友達も事故の状況まではまだよくわからないんだって。でも入院しているのが橋本記念病院だってのはわかったわ」

 それを聞いた途端、私の心は入院先の橋本記念病院へと向いていた。けれど仕事を抜け出すわけにも行かない。今度はそのジレンマに陥ってしまった。

「まったく、未優樹さんも仕方ないなぁ。私がうまい言い訳を考えておくから。急いで行った行った」

 しずかにそう促された途端、私は心のどこかにあったストッパーが外れた。

「ありがとう」

 そう言って私は駆け出していた。そしてタクシーをつかまえて、向かうのは橋本記念病院。早く、早く、早く!

「田上拓郎さんの病室はどこですか?」

 私は病院に着くなり、すぐに受け付けで拓郎さんの病室を訪ねた。

「田上拓郎さんですね。えっと…」

 答えが帰ってくるまでがとってももどかしい。

「田上さんですが、現在集中治療室に入っているため面会することはできません」

「集中治療室って、今どんな状況なんですか?」

「あの…大変失礼ですが田上さんとはどのようなご関係ですか?」

 病院の受付の人に聞かれて、その答えに一瞬躊躇してしまった。私は拓郎さんとどういう関係と答えればいいのだろうか。しかし、考えるより口のほうが先に答えていた。

「私は田上さんの恋人です」

 そうなんだ。私の気持ちの中ではすでにそうなっているんだ。いや、そうなりたいという願望があるんだ。

「それでしたら、ご家族の方がいらっしゃっていますのでご案内いたします」

 えっ、いきなり拓郎さんの家族と会うの? 今度はそのことでドキドキしはじめた。

「こちらです」

 病院の人に案内されて、入院家族の待合室に通された。そこにいたのはお母さん。拓郎さんに似て、やさしそうな人だ。

「はじめまして。私、拓郎さんとお付き合いさせていただいている浅田未優樹と申します」

 こう言うのが精一杯だった。

「あ、あなたが…拓郎から聞いています。今、大事にしたい人がいると。でも…本当にすいません」

 お母さんは急に涙ぐんで私に謝ってきた。

「お母さん…」

 私もそれ以上言葉が出ない。しばらく沈黙が続く。ようやく気持ちが落ち着いて、私はお茶を入れに行った。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 お互いにお茶をひとすすりして、お母さんのほうから口を開いてくれた。

「我が家は父親を早くに亡くしてしまって。今は拓郎の就職を機に九州を出てこちらで二人で暮らしていたんです。拓郎には迷惑をかけましたが。真面目一本な子で、なかなか友達もできなくて。でも、このところとても明るくなって。聞いたら、大事にしたい人がいる、いつか紹介するからって。そして、昨日の朝元気に家を出ていったんです…」

「拓郎さん、どんな事故に遭ったんですか?」

「私も警察から聞いた話なのですけど。公園でボール遊びをしていた子どもが道に飛び出して。それを助けようとして、そして…車に…」

「そうだったんですか…拓郎さんらしい…」

「そう言っていただけるのが救いです。あの子は優しい子なんです。困っている人を見るとつい助けてしまう性分で。それでいつも損をしているんだけど」

「それで、拓郎さん今は…?」

「お医者様が言うには、体の方は問題ないとか。けれど、頭を強く打っているので、そちらのほうで手術をしなければいけないらしくて。ずっと意識が戻らないままなんです」

 そんな。お母さんになんて声をかければいいのかわからない。いや、自分自身の心になんて声をかければいいのかがわからない。やっと安心出来る人と巡り合えたと思ったのに。拓郎さんが私に安らぎを与えてくれると思ったのに。

「あの子は昨日をとても楽しみにしていたみたいです。以前行った喫茶店。あそこに大事な人を連れて行って、そして元気をだしてあげたいって。それがあなただったのですね」

 そうだったんだ。私を元気にしたい。その気持がとてもうれしい。けれどその拓郎さんは今、病室の中で意識不明。拓郎さんは私に何を伝えたかったのかしら。拓郎さんの気持ちが知りたい。私に何を与えてくれたかったのか。

「あの…未優樹さん、でしたよね。まだお仕事中じゃなかったのですか? 拓郎のためにご迷惑をおかけしてしまって」

「いえ…そんな…」

「まだしばらくかかるでしょうから。変化がありましたらご連絡いたします。もうお仕事にお戻りになったほうが」

 拓郎さんの優しさはお母さん譲りなんだな。結局この日は一度仕事に戻ることにした。職場に帰ってすぐ、しずかが状況を聞いてきた。

「そうなんですか…それはお気の毒に」

 ふだんはしゃいでいるしずかも、さすがにそれ以上言葉が出なかった。だが次の一言は私の心に響いた。

「田上さん、喫茶店に連れて行って未優樹さんに何をしてあげたかったんでしょうね」

 それを私も知りたかった。

「それ、なんて喫茶店なんですか?」

「えっと…ちょっと待ってて…あったあった」

 私は拓郎さんからのメールを開いて確認。

「カフェ・シェリーっていうところ。知ってる?」

 残念ながらしずかは知らなかった。が、しずかの行動は早かった。早速社内の営業マンに聞き込み開始。さらには知り合いにメールを送ってカフェ・シェリーの場所を調べ始めた。そしてすぐにその場所は判明した。

「未優樹さん、ここ、ここ」

 しずかはインターネットの地図で場所を教えてくれた。

「なんかここ、魔法のコーヒーっていうのがあるらしいんですよ。さらにマスターや店員の女性がとてもおもしろい人らしくて」

 そのことは拓郎さんからのメールですでに知っていた。よし、早速このお店に行ってみよう。そして拓郎さんが何を私に伝えたかったのかを確認しよう。

 そして土曜日、私は地図に示された位置に立っていた。このビルの二階にカフェ・シェリーがある。早速お店に行こうとしたときに、黒板の立て看板を抱えて階段を降りてくる女性を目にした。そして女性は看板にチョークで「今日の言葉」というのを書き出した。

「今日の言葉 あなたが知りたいことは、あなたが望めば必ずわかりますよ」

 まさに今の私の心境とぴったり。

「あの…これ、ステキな言葉ですね」

 思わずその女性に声をかけてしまった。

「ありがとうございます。今、なぜかこの言葉がひらめいたんですよ。それで今日の言葉として書いてみようと思って」

 その女性はとてもステキな笑顔をして私の言葉に応えてくれた。

「この二階で喫茶店をやっていますので、よかったら寄ってくださいね」

 にこりと笑ってそう言ってくれる。

「あ、私今日そこに行こうと思って来たんです」

「わぁ、うれしいっ。ありがとうございます。今日のお客様一号だ」

 その女性は店員さんらしい。拓郎さんやしずかが言っていた、おもしろい店員さんなのだろうか。きっとそうに違いない。だって、思いつきでさっきは私にピッタリの言葉を書いてくれたんだから。きっとこのお店には何かあるに違いない。

 女性の店員さんがうれしそうに階段を駆け上がっていく。私もあとをついて階段を駆け上がる。

カラン、コロン、カラン

 扉を開くと、心地良いカウベルの音が鳴り響く。

「マスター、今日のお客様第一号ですよ」

 なんだかちょっと気恥ずかしいけれど、一番の客というのも悪くはない。お店を見渡してみた。白と茶色の内装でとてもシンプル。壁にはモダンアートが掲げられている。壁際に半円型のテーブル、店の真ん中に丸テーブル、そしてカウンター。十人も入れば満員になる小さなお店。クッキーの甘い香りと、どことなく漂ってくる心地良いアロマの香り。この空間にいるだけで、なんだか落ち着くな。

「お好きなお席にどうぞ」

 そう言われて、私は店の真ん中の丸テーブル席に腰を落ち着けた。それを見計らって、お冷とメニューが運ばれてくる。

「あの…ここにシェリー・ブレンドというコーヒーがあると聞いたのですが」

「はい。当店一番のおすすめオリジナルブレンドですよ」

「じゃぁそれをください」

「かしこまりました。マスター、シェリー・ブレンド入りました」

 元気な声で女性の店員さんが注文を告げる。このコーヒーを飲めば、拓郎さんが私に伝えたかったことがわかるのかしら。そうだ、このお店の人なら拓郎さんのことを知っているかもしれない。

「あの、田上拓郎さんってご存知でしょうか? このお店に来ていた人なのですが」

 私は思い切って女性の店員さんに聞いてみた。

「田上拓郎さん、ですか…」

 女性の店員さんは首をかしげている。常連さんではないのだろうか。

「マスター、田上拓郎さんって知っていますか?」

「うぅん、ちょっと名前には記憶がないなぁ」

 残念ながら二人共知らないみたい。

「ちなみにどんな感じの方ですか?」

 マスターがコーヒーを入れながら私に聞いてきた。

「はい、見た目はおとなしそうで、年齢は二十代中盤。笑うとかわいい感じがするんです。何度かここに来ていたみたいで、私を連れてきたかったようなんです」

「あー、ひょっとしてあの人の事かな。マイ、ほら大事にしたい人がいるって言ってた」

「あ、あの人か。確かにおとなしそうだけど笑うとかわいい感じがするよね。しきりに、大事な人を一度ここに連れてきたいって言ってたよね」

 どうやら名前は名乗っていなかったみたい。けれど、このお店に来ていたのは確かなようだ。そして私のことを思ってくれていたんだ。

「たぶんその人だと思います。私も大事な人なんです」

 私も大事な人。なぜか思わずそう言ってしまった。まだそんな関係じゃないのに。知らず知らずのうちに、拓郎さんのことをそんなふうに思っていたんだ、私。

「そうなんですね」

 マスターは私の言葉を素直に受け止めてくれる。

「はい。だから今日、ここに来たんです。彼が、拓郎さんが私に何を伝えようとしていたのか。それを確かめたくて」

「何か事情がおありのようですね?」

 女性の店員さんが優しく私にそう尋ねてくる。そのとき、私は急に悲しくなった。突然涙まで出てきてしまった。

「大丈夫、大丈夫よ」

 女性の店員さんが私の横に座り、背中をさすってくれる。

「ありがとうございます。ごめんなさい、急に泣き出したりして。実は…」

 私は先週拓郎さんとここに来るはずだったことを伝えた。その拓郎さんが事故に遭い、さらにまだ意識が戻らないことも話をした。

「そうだったんですね」

「はい。それで拓郎さんがこのお店に私を連れてきて、私に何を伝えたかったのか。それが知りたくてここに来たんです」

「マイ、シェリー・ブレンドをお渡しして」

 マスターがカウンター越しにコーヒーを出してくれた。マイと呼ばれた店員さんは私にコーヒーを差し出した。とてもいい香り。

「これを飲むと、彼の伝えたいことがわかると思いますよ」

 マイさんの言葉を信じて、私は早速コーヒーに口をつけた。最初に舌の先にコーヒー独特の苦味と、それに加えてちょっとした酸味が口の中に広がる。そこまでは今までのコーヒーをなんら変わりはなかった。が、コーヒーが舌全体にいきわたったところで大きな変化が生まれた。

 一言で言えば夏の香り。その瞬間、私の頭にあの光景が広がった。

 セミの声、アサガオの花、子どものはしゃぐ声。私が一番思い出したくない、あの夏の日の光景。なのに、それが嫌じゃない。どうして? 理由はすぐにわかった。隣に人がいる。安心して寄り添える人がいる。その人がいるから、いままで嫌だったものもそうじゃなくなった。それどころか、その光景が楽しくすら感じる。

 私はその人の顔を見る。その人は笑っている。その笑顔は太陽のようにまぶしく、それでいてやわらかな光を感じる。この人なら信じて寄り添うことができる。そんな夏の香りが私の口の中で繰り広げられた。

 その笑顔の人物。それは…

「どんなお味がしましたか?」

 その言葉でハッと我に返った。

「あれっ、今、私…」

 まるで夢でも見ていたみたい。けれど、それはハッキリしていた。

「どうやら何か見えたようですね」

 マスターの言葉に私は思わず首を縦に振った。

「あの…これ、なんなんですか?」

「これがシェリー・ブレンドの魔法なんですよ。このコーヒーは、飲んだ人が今欲しいと思っているものの味がします。人によってはそれが映像で浮かんでくることもあるようです」

「じゃぁ、今私が見たのは私が欲しいと思っていること…」

「おそらくそうなります。もしよかったら、どんなものが見えたのか教えてもらえますか? ひょっとしたら力になれるかもしれませんよ」

 マスターの言葉に誘われるように、私はコーヒーを飲んで浮かんできた映像を話した。特に印象に残ったところ、それは最後の場面。夏の香りとともに見えた笑顔。けれどその笑顔の人物ははっきりとは見えなかった。

「なるほど。ズバリ、それは誰だと思いますか?」

「おそらく、拓郎さんだと思います。いや、拓郎さんだと思いたい。今私が信じられる男性は拓郎さんだけなの。その拓郎さんの意識がまだ戻らない。私、このままじゃどうしたらいいのかわからない…」

 急に涙が出てきた。拓郎さんのことを思うと、胸がドキドキする。

「そうなんですね。これでわかりました。拓郎さんの言葉の意味が」

「拓郎さんの言葉って?」

 私はマスターに聞き返した。

「はい、大事な人をここに連れてきたいって言っていたのはお伝えしましたよね。そしてもう一つ、こんなことを言っていたんです。夏を変えてあげたいって。確か先週の土曜日にそんなことを言っていました」

 夏を変えてあげたい。それだけを聞くと何のことだかわからない。けれど私にはすぐにわかった。私が人を信じられなくなった三年前の夏。それ以来嫌いになった夏。この夏を変えようとしていたんだ。

 土曜日といえば、私がメールで前の彼のことを伝えた翌日だ。拓郎さん、わざわざ私とのデートの前日にこのお店に来ていたんだ。本気で私のことを考えてくれていたんだ。

「拓郎さん…」

 そんなに私のことを考えてくれていただなんて。その拓郎さんが、今はまだ病院のベッドに寝たきりでいる。そんな拓郎さんに私は何もしてあげられることができない。私、なんて無力なんだろう。その悔しさで胸がいっぱいになっている私。突然、涙があふれてきた。

「大丈夫ですよ。もう一度、シェリー・ブレンドを飲んでみてください」

 横にいたマイさんがそっと私にそう伝えた。私はマイさんの言うとおりに、シェリー・ブレンドに手を伸ばした。今度はさっきより多めにシェリー・ブレンドを喉に流し込む。ゴクゴクと一気に飲む感じ。なぜだかそうしたくなった。

 このとき、最初は味がわからなかった。ただのコーヒー、そんなイメージ。変化があったのは、飲み終えた後。胸の奥からふわぁっと温かいものが込み上げてきた。それとともに、まばゆいばかりの光を感じた。その光、実際に目で見えるものではない。なんて説明したらいいかわからないけれど、光を感じたの。

 そしてわかった。そうか、今度は私が拓郎さんに温かさと光を与える番。私の中にもそれがあったんだ。今までは欲しい、欲しいと願っているだけ。今度からは私が欲しい物を私が与える。だから泣いている場合じゃない。笑わなきゃ。拓郎さんのためにも、私のためにも。

 そう思ったら、胸の奥にあった温かさと光が私に勇気を与えてくれた。大丈夫よって私に語りかけてくれた。

「うん、わかった」

 私は小さくつぶやく。

「あ、笑顔になった。とてもステキよ」

 マイさんがそう言ってくれる。

「うん、なんだかとても魅力的に見えますよ」

 マスターもそう言ってくれる。笑顔になって、周りに温かさと光を与える。そうか、これが拓郎さんが本当に伝えたかったことなんだ。

「マスター、マイさん、私わかりました。彼が、拓郎さんが私に伝えたかったことが。私が笑顔になって、そして周りの人に温かさと光を与える。そのために笑顔になること。そうすれば、私の夏も変わる。嫌だった夏が楽しいものに変わっていく。ずっとずっと、笑っていける。そのことを私にわかって欲しかったんだ」

 そう言った途端、私はまた泣きそうになった。けれど今度は泣かない。笑顔でいるんだ。それが拓郎さんが私に望んだことだから。

 このとき、なんとなく拓郎さんの気配を感じた。私の耳元でそっとこんなふうにささやいた気がした。

「未優樹さん、それでいいんだよ、それで」

 えっ。思わずあたりを見回した。けれど何もない。


カラン、コロン、カラン


 ドアのカウベルがふいに鳴った。ふと入口の扉に目をやる。けれど、扉は開いていない。あれっ、気のせいかしら? けれどそうではないことをマスターとマイさんの視線で悟った。

「風かな? でも扉が開いてないのにカウベルが鳴るなんて…」

 私にはわかった。拓郎さん、ここにいたんだ。それがわかった瞬間、別の不安が襲った。拓郎さんがここにいたっていうことは、拓郎さんは、まさか…。

 その不安は悪い方向で的中した。ふいに私の携帯電話が鳴った。公衆電話からだ。胸騒ぎがする。恐る恐る電話に出る。

「もしもし、浅田さんでしょうか?」

 聞き覚えのある女性の声。その声は震えていた。最初は誰の声だかわからず、返事をするのにとまどった。

「田上拓郎の母です」

 その言葉で電話の相手がわかった。

「はい、浅田です」

 嫌な予感はさらに強くなる。拓郎さんのお母さんからわざわざ電話がかかってくるなんて。何かあったに違いない。

「お母さん、拓郎さんに何かあったのですか?」

「浅田さん…拓郎が、拓郎が…」

 お母さんはそれ以上声にならなかった。私の表情が強ばる。カフェ・シェリーに緊張感の空気が漂う。

「お母さん、落ち着いてください。拓郎さんに何かあったのですか?」

「…ごめんなさい。拓郎の状態が急に悪くなって…今お医者様が対応しているところです。それで万が一のことを考えてくださいって言われて…」

 拓郎さんが!? 私はいてもたってもいられなくなった。

「今からそちらに向かいますっ!」

 そう言って電話を切ると、私の足は勝手に行動を起こし始めていた。

「マスター、マイさん、ありがとうございます」

 そう言って深々とお礼をし、お勘定を早々にすませ足早に店を飛び出した。病院に着くとすぐに私は拓郎さんの病室へと向かった。すると、病室の前にはお母さんの姿が。お母さんは私の姿を見ると丁寧におじぎをしてくれた。手には白いハンカチ。そして何も言わずに手で病室の中へと促してくれた。

 私は恐る恐る病室へと入る。テレビでよく見る、心臓の鼓動に合わせてピッ、ピッっと鳴る装置の音だけが響いている。酸素マスクを付けてベッドに横たわる拓郎さん。その周りにはお医者さんと看護師さんがいる。その表情はとても険しい。

「拓郎さんは、拓郎さんはどうなんですか?」

 お医者さんにすがるように私は尋ねた。

「非常に危険な状態です。今は落ち着いていますが、次に発作が起きたら…」

 お医者さんはそれ以上は言わなかった。看護師さんが椅子を出してくれた。拓郎さんの横に座ってください、という意味だろう。軽く会釈をして、私は拓郎さんの横に座った。そして手を握る。私、始めて拓郎さんの手を握った。温かい。この温かさが私の心を救ってくれたんだ。この心が私を救ってくれたんだ。だから今度は私が拓郎さんを救う番。

「お願い、戻ってきて」

 拓郎さんの手を両手でギュッと握る。

「私ね、今日カフェ・シェリーに行ってきたんだよ」

 私はまだ開かない拓郎さんの瞳を見つめ、今日の出来事を語り始めた。マスターやマイさんから助けられ、そしてシェリー・ブレンドのおかげで私が何をすべきなのかを悟ったこと。その様子を淡々と語った。もちろん、拓郎さんからの反応はない。けれど、きっと拓郎さんは聞いてくれているはずだ。それを信じて私は語り続けた。

「私が笑顔になって、そして周りの人に温かさと光を与える。そのために笑顔になること。拓郎さんは私にそれを伝えたかったんだよね。だから私、いっぱい笑う。これからもっともっと笑う。そして今度は拓郎さんに温かさと光を与えるの。だから早く戻ってきて。お願いだから、ね、戻ってきて」

 ふたたび私は拓郎さんの手をギュッと握りしめる。そのとき、さっきまで安定していた機械からの音に変化が出てきた。

「いかん、また発作だ」

 お医者さんが慌てて動き出した。看護師さんにいろいろと指示を飛ばしている。拓郎さん、微妙に苦しそうな表情になっている。

「拓郎さん、拓郎さんっ!」

 私は声を荒らげて拓郎さんの体を揺らす。

「やばいぞ、これは…」

 医者は慌てているが、何が起きたのかが私には理解出来ない。機械の音がだんだんゆっくりになり、そして…

 ピー

 機械の音が無情に鳴り響く。それが何を意味しているのか、私にもわかった。

「拓郎さん、拓郎さん、拓郎さんっ」

 私は拓郎さんにしがみつき、その体を揺さぶり、そして心の奥から何度も叫んだ。

 うそっ、うそでしょ。現実を受け入れられない私。やっと、やっと見つけたのに。私が心を許せる人を、やっと見つけたのに。なのにどうして、どうして?

「たくろうさぁぁん」

 瞳からは大粒の涙が流れ落ちていたのを、私は気づくこともなかった。


「こんにちは」

 あの日から三週間後。夏も終わりという日曜日。私はカフェ・シェリーの扉を開けた。

「あっ、いらっしゃいませ」

 マイさんはすぐに私に気づいてくれた。けれど今日のカフェ・シェリーは人がいっぱい。かろうじてカウンターが二席空いているだけ。マイさんも忙しそうにしている。

「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」

 マスターに促されるまま、私はカウンター席に座った。

「あれから大変でしたね」

 マスターはお冷を出しながら私にそう語りかける。あの日のあと、私は病院で起こった出来事を電話でマスターに報告をしていた。それからようやくお店に足を運ぶことができた。

「えぇ、でももう大丈夫です」

 私は笑顔でそう答えた。

「注文はどうされますか?」

「もう少し待ちます」

「かしこまりました」

 マスターは笑顔で応えてくれる。そして私は目をつぶってあの日のことを思い出していた。

 病室で泣き叫ぶ私。何度も何度も拓郎さんの名前を呼ぶ。そのとき、かすかに拓郎さんの手が動いた気がした。そして奇跡が起きた。

 ピッ、ピッ、ピッ

 ゆっくりとではあるが、機械の音が再び拓郎さんの鼓動を知らせてくれた。それからさらに奇跡が。

「みゆき…さん…」

 かすかにそう聞こえる。拓郎さんの顔を見る。すると、私を見つめている。間違いなく私を見てくれている。

「拓郎さんっ」

 私は拓郎さんの手をしっかりと握り返した。このとき心の奥からこんな声がした。

「笑顔よ、そして温かさと光を与えるの」

 私はその声に従った。拓郎さんに精一杯の笑顔を送った。拓郎さんも私に笑顔を返す。そうして拓郎さんは私のところへ戻ってきた。


「待ち合わせの人、そろそろ来るかな?」

 マスターがそう言ったそのとき

カラン、コロン、カラン

 扉のカウベルが心地良く鳴り響いた。

「いらっしゃいませ」

 音の鳴る方を見る。そこには私に温かさと光を教えてくれた拓郎さんの笑顔があった。

 これが生まれ変わった、私の夏の物語。


<夏、そして私 完>

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