絶対世界〈4〉
姉さんからの手紙を読まなくなった頃から、頻繁に俺を訪ねてくる人物が現れるようになった。
その人物は、ネロトニア国で脳科学の研究をしているジル・エイミスと名乗った。
「何度来られても、俺はあんた達の研究に協力するつもりはない」
しつこく訪ねてくる男に、何度も言った言葉をまた告げる。
「あんた脳科学者だろう? 俺の専門は遺伝子生物学だ。
なんの研究をするつもりか知らないが、わざわざ他国の俺に協力を仰ぐ理由はなんだよ」
胡散臭い笑顔を貼り付けたまま、ジル・エイミスは椅子の上でゆらゆらと身体を揺らした。
その仕草が気に食わず、舌打ちをして窓の外へと視線を逸らした。
研究室の窓の外はどんよりとした厚い雲に覆われていた。
「ボク知ってるよ。君がネロトニア国の生まれだって事。アスティ・ロイス君でしょ?」
その仕草と同じく、気分が悪くなるような喋り方でジルが言った。
「……だからなんだよ」
ううんと唸りながらジルが小首を傾げる。
全然可愛くなくて吐き気がする。
「しょうがないなぁ、君には特別に教えてあげるよ。ボクら、というかボクは天使を作りたいんだ」
何を言っているんだ、こいつは。
現実逃避をするように、しばらくその場で目を閉じた。
目の前の人物が幻で、目を開けたら消えてくれたらいい。それがいい。
そう思いながら再び目を開けると、目の前に顔があり、反射的に手が出た。
「いったぁ。君が筋肉モリモリの人じゃなくてよかったぁ」
頬を押さえながらジルはケラケラと笑った。
結構強めに殴ったはずだが、まったく効いていないように見える。
「だって、目の前で眼を閉じられたらチューして欲しいのかなって思うでしょ」
その言葉に、これは本物の変態だと思い、警戒するようにじりじりとドア付近へと移動する。
いつでも逃げ出せるように。
「君は天使はいるって思う?」
そんなことは気にも留めず、ジルは普通に話を続けた。
「いるわけないだろ」
殴った方の手をさすりながら、この変態は何を言っているんだと思った。
「ボクね、小さな頃に一度死にかけてるんだよ。鉄のパイプが落ちてきて、ここにこうグサッと――」
そう言いながら、ジルは自身の胸にパイプが刺さる動作をした。
「ね、死ぬしかないでしょ? 肺に穴が開いて苦しかったなぁ」
全く苦しそうには聞こえない言い方で、ジルは胸をさすった。
「そしたら天使が現れて、ボクを一瞬で治してくれたんだ」
そんなファンタジー世界のような事が、起こるわけがない。
この人物がどこまで本気で話しているのか分からない。
緊張感のないこの男の話し方が、余計にそう思わせるのだろう。
「綺麗だったなぁ……」
何かを思い出すかのように、遠くを見つめ、そして急にこちらを向いた。
その顔は、少なくともさっきまでの緊張感のない顔よりは、嘘のない真剣な顔にも見えた。
「ボクはそれが忘れられなくて、彼女を探しながら天使について調べたんだ。
そして、何年、何十年、あるいは何百年に一人、天使と呼ばれる人間が存在した事が分かった。
もちろん公に記録されているものではないから、定かではないのだけど。
彼等はねぇ、人の傷や病気を一瞬で癒す事が出来るんだよ」
それは、にわかには信じがたい話だった。
もし本当に存在するとして、その存在を知れば人々が放ってはおかないだろう。
いくら隠そうとしても、隠しきれるものではないのではないか。
「残念ながら、天使っていうのは短命らしくてね、ボクの出会った天使は亡くなってしまったようだけど、彼女には娘がいてね」
そこまで聞いてふと思い至り、思わず口を開いた。
「……遺伝か?」
ジルが指を鳴らして俺を指さした。
行動がいちいち鬱陶しい。
けれど、その存在が人々に認知される前に死んでしまうのであれば、その存在を知る者がほとんどいないことも納得がいく。
「いいね。頭のいい子は大好きだよ。
そう、まだ確認は取れていないのだけど、たぶん娘にも力がある。でも取り逃がしてしまってね、探しているんだ」
「だから俺に声を掛けたのか」
そう、とジルは頷いた。
「今までの天使も、ボクが出会ったあの人の血筋である可能性が非常に高い。
遺伝的な要素が大きく関係する力なら、遺伝子学に秀でた君に協力を仰いだ方がいい。でしょ?」
大きくため息をつき、俺は近くにあった椅子に腰掛けた。
その話が本当だとしたら、ジルの話は一理ある。
だがなんのメリットがあって、俺が協力しなければならないのか。
大体、すぐに信じられる話ではない。
「信じてないねぇ。そしてなんのメリットがあるんだと思っているね」
その通りだ。
「そうだね、今の時点でこの話は君になんのメリットもない」
「……分かっているなら帰ってくれないか」
扉を開け、顎で退出を促すと、意外にもジルはあっさりと部屋を出た。
「別にボクは研究さえ出来れば、あの男のことなんてどうでもいいんだ。
でも、ボクに研究する場を与えてくれる大事な大事なボクの上司は、あの男をとても憎んでいてね。
彼が大事にしているものを近々壊す計画をしているみたいだよ。そしてそれは君にも関係している……」
「――は?」
意味深な言葉を残し、ジルはひらひらと手を振り歩き出す。
「近い内に、自らの意思で君はこちらに来ることになるんじゃないかなぁ」
誰が行くかよと心の中で呟き、扉を閉めた。
数日後、姉さんが撃たれたという知らせが俺の元に届いた。