死にたかったか、龍馬 その一
『 歴史探偵 坂本龍馬異聞 死にたかったか、龍馬! 』
十月の清々しい風を頬に感じながら、私たちはテラスでお茶を飲んでいた。
「今年も何か、二人で研究してみよう。昨年は、磐城平藩の松賀騒動を研究したね。さて、遣り甲斐のある暇潰し、暇潰し、と。何かしていないと、この頃は、耄碌しそうで怖いわ。もう、僕も六十六歳になったからさ」
「一年ずつ、齢をとるのは一緒です。僕も五十六歳になりましたよ」
私たちはお互い声を上げて笑った。
そこに、美智子さんと雅子が現われ、美智子さんは二ヶ月ほど旅行して廻ったギリシァ、イタリア、フランス、そしてスペインの話を夢見るような少女の瞳で語り、雅子は新婚旅行として二週間ばかり訪れたメキシコの話を失敗談も交えて語り、私たちは和やかに談笑して爽やかな秋の午後のひと時を過ごした。
美智子さんは私の中学の先輩で才媛、私にとって永遠に頭が上がらない女性である。
雅子は美智子さんの姪で、美智子さんの夫である小泉正一郎さんと共同で行なった昨年の松賀騒動調査研究の際、知り合って、私の妻となった女性である。
小泉さんは或る会社の社長をしていたが、勇退して、今は美智子さんの地元であるいわき市に住居を構え、悠々自適の暮らしを楽しんでいる。
松賀騒動に関しては、『歴史探偵 磐城騒動異聞 遠い昔、磐城の国で』と名付けた長編小説に纏めたものの、原稿用紙で400枚を越える長編となり、費用の面がネックとなり、なかなか自費出版できずにいる。
それから、二週間ほど過ぎた頃であった。
私はいわき駅前のラトブという建物にある図書館に居た。
私は聖徳太子調査に飽きて、何気なく図書館の本棚の本の背表紙を眺めて歩いていたら、坂本龍馬関連の書物が随分とあることに気付いた。
あるわ、あるわ、さすがに抜群の人気を誇る坂本龍馬だけはある、何と十五冊以上の書物が私を読んで下さいとばかりに棚に並んでいた。
龍馬、と言えば美智子さんだ。
あたしは中学一年の頃、『竜馬がゆく』を新聞小説で読んでいたのよ、というのが美智子さんの自慢なのだ。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は千九百六十二年(昭和三十七年)から産経新聞に連載された新聞小説であり、美智子さんは美智子さんの表現に依れば、十三歳の多感な乙女として愛読していたという話だった。
私は、と言えばその新聞小説のことは覚えてはいない。
私は美智子さんより、四歳下で当時は九歳であった。
いくら何でも、九歳の男の子には新聞小説は未だ早い。
私は少年マガジンとか少年サンデーといった漫画の週刊誌の熱烈な愛読者に過ぎなかった。
『竜馬がゆく』は新聞連載の後、単行本となり、代表的ベストセラー小説となった。
私は高校の頃、この小説にとりつかれた。
一番好きな日本人は誰か、という問いがなされれば、坂本龍馬と答えるのに何の逡巡もない龍馬ファンとなった。
当時、龍馬研究書としては、平尾道雄の本が有名で、私は小遣いをせっせと貯めて、その高い本を買ってむさぼり読んだ、という記憶がある。
龍馬関連の研究書は現在こんなにも出ているのかと改めて思いながら、再発見があるかも知れない、暇に任せて全部読んでみようと思い立った。
当初は、聖徳太子に関する研究をしようかと思っていたのであるが、いろんな本を読むにつけ、古代歴史研究者にとっては、聖徳太子が推古天皇の皇太子摂政として本当に実在したと信じている歴史家なんてほとんど居らず、十七条憲法なるものの制定者としての聖徳太子も否定されていることを知り、何だか気が抜けてしまっていた。
むしろ、それならば、良い機会であるから、大好きな龍馬のことをおさらいするつもりで改めて勉強してみようという気になった次第であった。
早速、本を両手一杯に抱え込み、資料閲覧台に並べて、片っ端から読み始めた。
読み始めると面白くなり、昼食を簡単に済ませた後も、読み耽った。
ふと、気がつくと外の風景はすっかり秋の夕方の風景となっており、さらに気がつくと、私の傍らに、人が立っていた。
見ないでも、判った。
「どうです、小泉さん。下で、お茶でも飲みませんか」
「さっきから、声をかけようか、かけまいか、実は迷っていました。あんまり、熱心に本を読んでおられたようだから」
私と小泉さんは二階の珈琲ショップに入って、窓際の席に腰を下ろした。
「どうです。収穫はありましたか?」
「まあ、しかし、龍馬に関しては、ほとんど完璧に研究され尽くされているといった感がありますね。龍馬の手紙にしても、百三十六通程度が確認されており、書かれている内容も吟味、分析されていますよ」
「ほう、百三十六通もありますか。さすが、龍馬は筆まめな男でしたねえ。紛失したり、死蔵されたりした手紙まで含めると、二、三百通以上は書いていたということですね。当時の飛脚便はいくらだったか知りませんが、相当な金額になると思いますねえ」
「今、龍馬の年譜を正確に作ってみようかと思っています。先ずは、現状把握ということで」
「さすがは、元大手メーカーの技術開発部長ですな。PDCA(プランPlan・ドゥーDo・チェックCheck・アクションAction、現状把握立案・実施・評価・反省)という品質管理のサイクルを回して、先ずは現状把握解析を行う、といったところですか」
「小泉さん、冷やかさないで下さいよ。そんな昔の話は。で、龍馬の場合、三十三歳の誕生日に奇しきも暗殺されてしまったわけなんですが、実際的に歴史の表舞台に立ったのは、文久二年、千八百六十二年の旧暦の一月に土佐勤王党の盟主武市半平太の書簡を携え、長州萩城下に現われ、久坂玄瑞を訪ねたということが最初ということで、活動歴は高々六年といったところなんです。それ以前は、剣術修行のため、江戸に二回滞在しておりますが、志士的活動は一切しておらず、たまたま前年の文久元年九月末に、結成したばかりの土佐勤王党に血判加盟していわゆる志士になったのが龍馬の場合は志士的活動の端緒と言えます」
小泉さんは珈琲を目を細めて美味そうに飲み始めた。
しめしめ、小泉さんの機嫌はかなり良い、餌に喰らいついてきたようだと私は思った。
これから、小泉さんを巻き込んで昨年同様、歴史探偵に仕立てあげていく、いかない、は私の腕にかかっているのだ。
「そうそう、話の初めに、三十三歳と申し上げましたが、これは昔の数え年であり、龍馬の場合は天保六年十一月十五日に生まれ、慶應三年の十一月十五日に京都・近江屋二階で暗殺されていますから、現代の満の年齢で言えば、三十二歳の誕生日に死んだということになります。それでも、天保六年十一月十五日は西歴換算で言えば、一八三六年一月三日、慶應三年十一月十五日は一八六七年十二月十日となりますから、正確に言えば、三十一歳と十一カ月となります。満年齢で言えば、三十二歳を迎えることなく、暗殺の凶刃に斃れたということになります。どうも、この数え年には悩まされます。数え年では、生まれた年を一歳とし、以後正月になると一歳を加えて数えるということで、この数え方で言えば、龍馬は慶應三年の正月を迎えた時点で三十三歳になっているわけです。誕生日を迎えても年齢には関係ないということで、昔の人は自分の誕生日を意識するということは無かったのではないでしょうか」
小泉さんはジャケットのポケットから手帳を取り出し、何やら書いていた。
そして、感心したような口調で私に言った。
「ということは、武市半平太の使いではるばる萩まで行ったのは、満二十六になったばかりの頃ですか。ヤングボーイと言っても過言ではない年齢だ」
「そうですよ。僕なんか、満二十六というのは大学院を出て、就職して二年目といったところで、ようやく仕事に慣れ始めた年齢です。そして、満三十二と言えば、工場の生産現場で残業しながら現場管理に励んでいた頃です。未だ、管理職にもなっておらず、組合員の係員でしたね。とにかく、幕末の英雄は皆、若者ばかりでした」
「そうだよ、明治新政府の立役者となった西郷隆盛ですら、明治維新の時で四十か四十一という若さであったが、若者ばかりの仲間からは既に西郷翁、南州翁と呼ばれていたからねえ」
「そう言えば、龍馬が死んだ年の春、高杉晋作が病死していますが、彼は数え二十八で死んでいます。満年齢で言えば、二十六か、二十七、あまりにも早い死です」
「快男子、高杉晋作か。彼の辞世の句は有名だね。確か、『面白き ことも無き世を 面白く』、という句を呟き・・・」
「その後が出ず、枕元に付き添っていた野村なんとかという尼さん、望東尼ですか、その尼さんがその後を引き継ぎ、『住みなすものは 心なりけり』、と詠んだとか」
小泉さんと私はお互い、ニヤリと笑った。
高杉晋作はこの尼の下の句を聞いて、面白いのう、と呟いて瞑目したと言われている。
高杉晋作は自由奔放にやりたいことをやって死んだように思われているが、恐らく、まだまだ不十分であり、やり残したことが一杯あるのにそれもできずに、自分がこんなにも早く死ぬという運命の不条理をきっと憤っていたに違いない。
死ぬ間際まで、その不条理を怒り、不機嫌であったのだろう。
高杉の不満に満ちた上の句に対して、諦めなさいとばかりの尼の悟り澄ました下の句を聞いて、今となってはこの世に未練を持ってもしょうがない、諦めるかと晋作は思ったのであろう。
恐らく、小泉さんも私と同じ思いを抱いたに違いない。
「数日かけて、龍馬晩年の詳細な年譜を作ってみます。何か、新発見があるかも知れませんので。良ければ、来週の半ばにでも、僕のマンションで続きをやりませんか。美智子さんにも声をかけて下さい。僕の方は、雅子に手料理を作らせますから」
「おや、いいのかい。新婚家庭にお邪魔して?」
「五十六歳と四十一歳の新婚家庭ですから。まあ、ご遠慮なく、いらして下さい」
珈琲を飲み終わる頃には、秋の日は釣瓶落とし、というようにいつしか窓の外は暗くなっていた。
通りには家路を急ぐ子供連れの夫婦が何組か歩いていた。
小泉さんも私も、そのような家族連れの姿をぼんやりと見ていた。
小泉夫婦は子供には恵まれなかったし、私たち夫婦も極めて遅い結婚をしたので恐らく子供とは縁のない夫婦となるだろう。
図らずも、子供のいない夫婦同士だ、小泉夫婦とは長く、お付き合いしたいものだと、私は窓の外の風景を見ながら、しみじみと思った。
秋晴れの午後、私のマンションの部屋に小泉夫妻がやって来た。
美味しいケーキ屋が近所にできたから、お土産に買ってきた、と美智子さんが雅子に大きな箱を渡した。
「いつ来ても、ここからの眺めは最高だねえ」
小泉さんが私の部屋のベランダから海を眺めながら感に堪えないような口調で言った。
「海だけがこのマンションのメリットですよ。他にはこれといって何にもないので」
「そんなこと、ないわよ。内装も良いし、とっても快適な感じだわ。ねえ、雅子さん」
「それに、近くにお魚屋さんも多く、新鮮なお魚には事欠かないし、私はここが気に入っていますわ」
「雅子さん、美智子先輩のケーキを戴きましょう。ケーキには紅茶がいいですね」
と言いながら、私はキッチンに行き、お湯を沸かし始めた。
小泉さんはニヤリと笑いながら、私に言った。
「おやおや、木幡君は案外、まめな性格なんだな。これなら、新婚生活も順調に行くはずだ」
「実は、小泉さん。僕が昔、静岡県に住んでいたのはご承知ですよねえ。僕が住んでいた街には、市民文芸誌があって、毎年一回、市民から投稿された原稿を何人かの審査員で審査して、入選作をその文芸誌に掲載するという文化活動があるんです。そこで、十五年ほど前に、坂本龍馬の暗殺に関する短編小説が掲載されたことがあります。次席に入選した創作小説です」
「ほう、なかなか文化的な街ですねえ。今どき、珍しい」
「短編小説で、あっという間に読めますから、小泉さん、一度読んで戴けませんか」
そう言って、私は一冊の文芸誌を小泉さんに渡した。
「最初に載っていますね。優秀賞で、『坂本龍馬暗殺異聞(龍馬へのレクイエム)』、陸奥優次郎、とありますな。では、美味しい紅茶を戴きながら、早速読まさせて戴きますよ」
坂本龍馬直柔(なおなり、と読む)。
土佐の人。
天保六年(千八百三十五年)十一月十五日に土佐藩郷士の息に生まれ、慶應三年(千八百六十七年)十一月十五日の夜半、寄宿先の京都河原町蛸薬師下ル醤油商近江屋二階にて何者かによりて殺害さる。
奇しくも、その日は三十三歳の誕生日であった。
十八歳で江戸に遊学、北辰一刀流の桶町千葉道場に入門、後、塾頭、二十四歳で免許皆伝を受く。
慶應元年閏五月、長崎に日本初の株式会社たる亀山社中を創設、慶應二年一月、周旋により、倒幕を事実上可能にした薩長軍事同盟を成立させ、慶應三年四月には、亀山社中を土佐海援隊と成し、六月には、下関より兵庫に向かう夕顔丸船中にて、維新の五箇条の御誓文の母体となった船中八策を立案す。
また、同月、同郷の後藤象二郎と大政奉還の建白案を作成、自藩を以て、将軍慶喜を動かさんとす。
性、明朗闊達、豪放磊落の人なり。
米国の議会制度を信奉し、封建社会の存続を期す幕府の存立を許さず、且つ幕府に取って代わろうとせし、薩摩・長州を牽制することに腐心せし龍馬の存在は、まさに幕末の奇跡と言うべし。
今日、議会政治の堕落腐敗を処々に見る。
龍馬死後、百二十数年を経し後も、未だ龍馬の理念、必ずしも達成されざるの感有り。
誠に遺憾と言うべきか。
龍馬の魂魄、未だその安らぎを得ざるなり。
慶應三年十月十六日
快晴。
慶喜公、大政を奉還す。一昨日のことと聞く。無念也。公の心中を拝察す。徳川家将来、暗澹たる哉。大政奉還を画策せし土佐の横暴、目に余るもの有り。
「坂本が、京に潜伏しておる。皆も存じておろうが、彼の者は昨年一月、寺田屋に於て、ピストールにて伏見奉行所捕方数名を殺傷、逃亡せし者である。幕府の面目にかけて、この者を捕縛せねばならない」