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「―――ところで娘。そなたが木咲 桜じゃな?」「え?いえ、人違いで―ー―きゃっ!!!?」
チャイナドレスの袖が膨れ上がった次の瞬間。服の内側からシャッ!何かが高速でこちらへ襲い掛かって来た。寸での所で椅子の陰に避難し、凶器を直視して吃驚仰天した。
シュルルル……シュー……。「へ、蛇……!?」
石畳を這いずっていたのは黄色と黒の縞模様を持つ、体長一メートル近い爬虫類だった。その牙は鋭い上、テラテラと不気味にぬめっている。生物学に明るくない私でも流石に分かる、毒蛇だ。
「ほう、避けたか。そなた、中々良い反射神経をしておるの」
「それ程でも、って人違いだと言っているでしょう!?私はララ・アンダースン。木咲なんて姓じゃ―――っ!!?」
数年振りに襲われる激しい頭痛。内側から金槌でガンガン叩かれるような衝撃に、耐え切れずテーブルへと突っ伏す。
「ぅ………ぁ……!!?」
両手で押さえた頭の中でずるり、正体不明の何かがのたうつ。その生理的嫌悪を伴う恐怖に、身体中の毛と言う毛が逆立った。だけど、
―――……ちゃん!桜ちゃんってば!!
「そう……私の、本当の名前は」
「桜!!?」
ロビーから現れる園長。毒蛇が見えていないのか、彼女は真っ直ぐこちらへ駆け込んで来た。蹲った私を抱え、背中をトントン。優しく介抱しながら、俄かには信じ難い台詞を叫んだ。
「負けるな!思い出すんだ、お前の本当の居場所を!!」「居場所……?ぁあ………!!」
精神の奥に聳える強固な扉。その隙間から漏れ出すのは、無数の懐かしい声だった。
(ああ、誰かお願い。このドアを、あの別荘へ続く場所の鍵を開けて!!)
「記憶喪失とは可哀相にの。だが、それならいっそ好都合じゃ」
ペットの潜む細い両腕を構える、美しき暗殺者。対し私を抱えた小母さんは、あくまでも冷静だった。
「何処の手の者だ?現在『ホーム』と切れているこの子を殺した所で、復讐にはならないぞ」
『ホーム』……そうだ。あの別荘こそ、私の本当の家……。
「それはわらわも承知しておる。だが」
「理屈の話ではない、か。―――幾らで雇われた?」
「小母さん?」
まさか、逆に買収するつもり?
「お前は黙っていろ。言い値で払う。どうかここは退いてはくれないか?」
杏小母さん……私なんかのために、どうしてそこまで……?
「決して悪い取引ではないと思うが」
「……残念じゃが、今回の出向は依頼ではない。その娘の首を求めているのは、わらわ達の長じゃ」
ギュッ。二の腕の辺りを掴まれ、下にいた蛇がもぞもぞ蠢くのが見えた。
「私怨、と言う訳か」
「話が早くて助かる」
カツン、刺繍靴が甲高く鳴る。
「退くのじゃ、女。巻き添えになるぞ」
「断る」
ガチャッ、不穏な金属音に顔を上げる。一体何処から出したのか、園長の右手には黒々と光る拳銃が握られていた。
「!!?杏、小母さ……」
「リビングへ行っていなさい、桜」ニッ。「何、私なら大丈夫だ。荒事には慣れている」
その言葉通り、安全装置を外す動作には一切の躊躇が無い。暗殺者が妙な動作をすれば、彼女は即座に頭を撃ち抜くだろう。
(さっきまで平和な一日だったのに……一体、何がどうなっているの……?)
私の動揺を他所に、銃口を向けられた本人は涼しい顔で肉厚の唇を開く。
「銃弾如きでわらわの蛇達を止められると?舐められたものじゃな」
「確かに的としては高難易度だ。だが、彼等を使役するあなたは違う」
ザッ、威圧を与えるように一歩前へ。
「頼む、あなたからは私と同じ匂いがする。こんなつまらない諍いで殺したくはない」
「奇遇じゃな。わらわも丁度他人とは思えんかった所―――じゃが!」
ガブッ!!「ひっ!!!?」「桜!!?」
気配も無く足元へと迫っていた紅白斑の一匹。凶器は認識されたと同時に跳躍しシュッ!私の手の甲を浅く噛んだ。途端全身を突き抜ける激痛。用済みだとばかりに使い魔はその場を離れ、シュルシュルと飼い主の元へ這い戻った。
「これは蟲毒じゃ。普通の血清では治らんぞ」
「くそっ!?桜、しっかりしろ!!」
「う……」
噛まれた箇所から未経験の高熱が全身へと広がっていく。同時に襲われる麻痺に肺腑を冒された私は、辛うじて呻き声を上げる事しか出来なかった。
私を石畳に横たえた園長は躊躇無く患部を強く吸い、唾と共に石畳へと吐き出した。何度も何度も、紫がかった唇が真っ赤に腫れ上がるまで。だが必死の応急手当の甲斐無くぼやけ始めた視界に、園長の背後に立ち尽くす暗殺者の姿が映った。
「何を……しているんです?仕事はもう、終わったでしょう……?」
切れ切れに問うと、憐れむように目を伏せた蛇使いはビクッ!と痙攣。
「それとも……ちゃんと、死んだかまで確認しないと帰れないんですか……?」
「………」
「何とか、言って」
「桜、もう喋るな!私はこの子を寝室へ運ぶ。済まないが、正面玄関のプレートを引っ繰り返してきてくれ」
言うなり銃を懐に仕舞い、両腕で私を抱え上げる。
「今日は臨時休業だ」
「分かった……これを」
蛇使いが差し出したのは、十ミリリットル位の硝子製の小瓶だ。中身はピンクがかった半透明の液体。え?これってまさか、
「この血清の有効時間は凡そ十分だ。身体が小さい故、手遅れにならぬと良いが。尤も」自嘲的な笑み。「このような情けない暗殺者の言、信じるかどうかはそなた次第じゃがな」
「信じざるを得ないさ。他に手は無い」
小母さんは半ば引っ手繰るように受け取り、足早に居住区へと向かう。追って来た暗殺者が意識朦朧の私へ、深々と頭を下げた。
「済まぬ、木咲 桜。長にはしかとお前を殺した、そのように伝えておこう。それで二度と狙われる事は無い筈じゃ」
顔を上げると同時にシャラン、耳の上に挿した簪が鳴った。
「そなたもな、母君。こ奴等を前にして一歩も退かぬ勇敢さ、一体何者」
「説明は後でさせてくれ。今はこの子の治療が最優先だ」
厳しい口調で告げ、グッタリした私を抱え直した彼女は耳元でこう囁いた。
「桜、お前はこんな所で死ぬ人間ではない。頼むから生きてくれ。そして、私を―――」