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襲い来る絶望感から、自然家路への足取りが重くなる。それでもどうにか校舎裏に差し掛かった時、やあ、不意に背後から声を掛けられ吃驚した。女性にしては低いボイスに、無視の選択肢も忘れて振り返る。
「ああ、良かった。まだいたんだな、桜」
遠目でしか知らないが、何度か見た事のある用務員の小母さんだ。被った麦藁帽子を半分ずり上げた彼女は、片目を覆う黒の眼帯さえなければ、きっともっと美人に違いない。それでもほんのり土の香りのする微笑みは、今まで現実の世界で会ったどの大人より素敵だった。
「済みません、人違いです。私はララ・アンダ」
「いいや、お前は桜だよ。―――さ、おいで。一緒に花達の世話をしよう」
「え?」
こちらの返事も待たず、すたすた歩き出す用務員さん。その妙に自信たっぷりな様に、何となく気になって後を追う。
どうせ帰宅した所で、用意されたおやつを食べ、図書館で借りた本を読む位しかする事は無いのだ。ショッピングは対人恐怖故無理だし、家の掃除は月に二回訪れるハウスキーパーの仕事。食事の支度も、料理上手な母が常備菜を週に一度作り置きしている。私が手伝うのは精々が温めや、サラダの菜を切る程度だ。
―――そうそう、凄く上手!私なんて直に追い越されそうだわ。
夢ではメイドに褒められたスコーンも、現実のキッチンではオーブンすら無くて作れない有様。当然こちらでは食べた事すら無かった。
「さあ、到着だ。はい」
正門からはやや死角の、所々雑草の生えた花壇の前。真新しい軍手を渡した彼女は、早速嵌めてみるよう促した。
「で、でもお母さんから、ガーデニングは駄目だって……」
特にアレルギー体質でもないのに、養母は凡そ植物と言う植物を敬遠していた。お陰で二人暮らしの家には一輪挿しどころか、生けるための花瓶すら無い。
「大丈夫、お前は私に頼まれて手伝っただけだ。怒る方が筋違いと言う物さ」
「た、確かに……正論、ですね」
保護者への密かな反抗心から首肯し、指先を厚手の布へと入れる。
ズボッ、ズボッ。「どうだ?ついつい夢中になるだろう、草むしりって」「はい」
不思議な人だ。保健室帰りだと知っている筈なのに、驚く程何一つ訊かない。家での生活振りすらも。
「あの、用務員さん。お名前は」
「東雲 杏。独り身のしがない用務員さ」
「じゃあ杏小母さんですね」
雑草を取り払うにつれ、恥ずかしげに姿を現すピンクや黄色の蕾。邪魔者がいなくなり、コスモス達は心なしか嬉しそうだった。
「ほら、聞こえないか?花達がお前へありがとうと言っているのが」
「え?」
本当に変わった人。植物がお喋りなんてする筈無いのに。それとも長年接していると分かる物なのか。
「花の声が聞こえるなんて、杏小母さんは凄いですね」
正直にそう褒めると、まさか、彼女は何処か悲しげに微笑んだ。
「私の耳はそこまで良くないよ。でも、桜―――お前には彼等の小さな囁きを聴ける、その資格があるんだ。すっかり忘れてしまっているだろうが、な……」