表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ソリストシリーズ

ソリストといたい

作者: ナツグ

 誰にも邪魔されない、二人きりのスタジオで暮らそう! そう言って彼女が僕を連れ出してくれたのは半年前のことだ。もうすぐ梅雨も終盤に差し掛かろうとしていた時のことで、雨が二人の足音をかき消した夕暮れ時の出来事だった。


「そんな、駄目だよ」

「ここまで来ておいて引き返す方が駄目だよ」

「でも」

「でももだってもないよ! もうギター弾きたくないの?」

「そりゃ、弾けるなら弾きたいさ」

「そんじゃ決まりだね。ああ、もう、ぐずぐずしてるから電車が行っちゃったじゃない」


 僕はギターのチューニングを合わせながら、あの日のことを回想していた。病院独特の薬瓶の底に貼りついたような饐えた臭いのこびりつく病衣から、彼女が用意してくれたパーカーに着替えて、久々のジョギングに戸惑いながら駅に着いたのが確か午後六時頃。彼女は栗色のくるくるした髪の毛を、ポニーテールにしていた。僕らが乗る方の電車は人で一杯で、反対に行く電車には誰も乗っていなかった。それから電車や夜行バスを使って三日三晩かけてこの街に着くころには、二人とも熟れ切って食べごろを過ぎたバナナのようにくたくただった。



 この部屋には来た当初、グランドピアノ以外何もなかった。今はというとソファとアコースティックギターとカラーボックスが数台あるだけで、当初と大差ないと言えなくもない。ソファでは鼠色のモコモコした服を身にまとった彼女が寝ている。カラオケよりかは防音設備のしっかりした1Kの部屋に、埃と半年という時間だけが堆積している。弦は錆びていた、そろそろ張り替えなくちゃいけない。


「これでいつだって私はピアノを弾けるし、君もいつだってギターを弾くことができる。素敵でしょ?」

「君は、これで良かったの?」

「いいに決まってるじゃん! ここには私と君しかいない。お金はあんまりないけど、もうそんなこと関係ないでしょ?」

「そうだね、僕らはがらくたみたいなものだから」

「そうだよ、私も君もくずだから」


 僕らは二人でヘラヘラと笑った。その日は夜通し雨だった。



 ギターは弾けても歌は歌えない。キッチンから時折聞こえてきた鼻歌はとても綺麗で、羨ましく思ったことが何度もある。僕は彼女より料理が得意だったけど、僕がキッチンに立つ時はいつも隣に彼女が居た。


「君は本当に器用だね」

「うん、だから僕一人に任せて欲しいんだ」

「嫌だよ、危なっかしい」


 彼女の言うことには優しい矛盾がふんだんに含まれていた。夏が終わる前はキッチンに立っていられたけれど、もう彼女以外は立ち入り禁止になっている。



 彼女は体に障るからとあまりカーテンを開けてくれない。時々日光浴を少しだけして、やがてオレンジ色のランプに明かりが切り替わる。彼女が寝ている隙に少しだけ外の景色を拝むことにした。ギターをいったん置いた。カーテンを開けて、窓を開けて、シャッターをこじ開ける。とても重い。半分も開けられず、息は回線の混んだラジオのように途切れ途切れだ。


 北風が僕の頬を擦る。冷たくて気持ちが良かった。灰色の空からべたついた雨が漏斗に通して垂らしたみたいに、慎重に落ちていた。やがて夜になれば雪に変わるのかもしれない。雪に触りたい。きっとヒヤッとして気持ちいいに違いなかった。これ以上は彼女に怒られるかもしれない、シャッターはどうにも閉まらなかったので窓とカーテンだけ閉めた。


 彼女が買い物に出かけた時、僕はこっそりベランダに出たことがある。夏、まだ虫たちが元気よく鳴いていた時のことだ。その後怒られたこと、よく覚えている。

「こんなにひどい熱っ! 外に出ちゃ駄目って、あれだけ言ったのに!」

「ごめん、ごめんよ。ちょっと外の空気を吸ってみたかったんだ」

「だからって熱中症でぶっ倒れるまで外にいるなんて、馬鹿じゃん!」

「そうだね、情けないね」

「私はさ、君と普通に暮らしてみたいの。だから、勝手なことしないで」


 僕らは歪な普通を互いに求めていた。そもそも、僕らの暮らすこの世界が普通なのかなんて誰にも分からない。だから人は自分の中に灯した普通を押し付け合って、僕らは火傷だらけだ。



 彼女がピアノを弾く時、僕はギターを弾かなかった。旋律に耳を傾けてソファに沈むばかりだ。気分の浮き沈みで打鍵音もテンポも変わる、彼女の気持ちは言葉以上にメロディに出ていた。弾き終わると彼女はカラオケで今まで歌ったことのない一曲を歌い終わった後みたいに照れ臭そうな顔をする。それが伝染して、僕もなんだか照れ臭くなる。落ち葉がカサカサし始めた頃から彼女はあまり外に出かけず、いつも以上にピアノを弾くようになった。


「僕、嬉しいんだ」

「何が?」

「ここのところ一緒に居られるから」

「そう、そうだよ。今までだって、これからもずっと一緒だよ!」

「そっか」

「なに、嫌なの?」

「嫌じゃないけど、ずっと、ずっとかぁ」

「そうだよ、ずっと。そしたら、今年の冬はクリスマスのお祝いもして、お正月には初詣に行って、春はお花見をして、夏は海沿いを散歩して、秋には沢山本を読むんだ。そしてずっと私のピアノを聴かせてあげる。だから、君のギターもいつまでも聴かせてよ」

「うん、そうだね」


 そうやってこそばゆい気持ちになっては、狭いソファで二人で眠った。これから来る毎日に思いを馳せている時は、彼女が泣いていても聞こえないふりをしていた。どうして、と訊いても、嬉しいから泣いてるの、と言うに決まっているから。



 ギターはプツプツと鳴く。左手にあまり力が入らなかった。もっと上手に弾きたい、そう思えば思うほど体が熱くなった。音が真っすぐに伸びない、選定した後の枝みたいに、バッサリと途切れてしまう。彼女も次第にピアノを叩く指が覚束なくなっていた。


 ガァン


 彼女はここのところは決まって白鍵を思い切り叩きつけて演奏を終える。その度、目に涙を溜めて僕を見つめる。


「私、本当にがらくたみたいだ」

「そんな、とっても綺麗だよ」

「どこがさ、途切れ途切れで、壊れたオルゴールみたい」

「でも、綺麗だったよ」

「ねぇ、怒ってない? 勝手に連れ出したこと?」

「なんで? 僕は今の方がずっと普通だよ」

「それは君が普通じゃ、ううん、なんでもない」


朧げな記憶は辿れば辿るほど色を失う。病院にいた頃、いつもお見舞いに来てくれる人が僕にとっての彼女だけど、お見舞いに来てくれるということはそれより前に出会ったことがあるはずだ。でも、思い出そうとすればするほどカーテンのような白い層が記憶を包み込んでしまう。


「君が覚えていないなら、思い出さなくてもいいんだよ」

「どうして?」

「私はもしかしたらその方が幸せだから」

「なら、もう思い出さないよ」


 いつだったかにした会話。そうだ、思い出しちゃいけないんだ。普通に生きるために、思い出してはいけない。


 それから、今日まで僕らは普通に生きてきた。弾けなくっても弾けないね、と笑い合った。トランプをやって、二人じゃつまんないね、とケチをつけて、ごめんねって言われたらごめんねって言い返して、寒くなったら身を寄せ合って――


 ゴンゴン


 不意に、ドアをノックする音が聞こえる。僕らの暮らすアパートには、僕ら以外誰も住んでいない。もっと言えば、この辺りにはほとんど人は住んでいない。来た当初は住んでいたけど、引っ越していっちゃったと彼女は言っていた。だから、訪問者は珍しい。彼女は僕一人で留守番をしている時、誰かが来てもドアを開けてはいけないと言っていた。彼女は今眠っている。起こしてどうするか訊いてみよう。


 彼女はどれだけゆすっても起きなかった。深い眠りについているみたいだった。ドアのノックは鳴り止まない。どうしようか考えているうちに、なんでか眠くなってきてしまった。彼女の横たわるソファ、隣に僕も寝転がった。少し狭いけど、彼女を抱きしめればどうってことはなかった。彼女の手は冷たくて気持ちがいい。僕はいつも彼女がしてくれるのと同じように、眠りに落ちる前にキスをした。


お読みいただきありがとうございました。

いずれ「彼女」視点のお話を投稿できればと思います。

予告なく削除するかもしれません、その際は申し訳ありません。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ