田舎での生活を夢見ていたしがないサラリーマンの日常
息をするのも辛いほどの暑さ
肌にまとわりつくかのような湿度
夜な夜なの喧噪や怒号
東京に住み始めて早5年以上。
そうした生活にももう慣れっこだった。
今日も1日が始まる。
スーツをクローゼットから取り出し、昨日乾燥機にかけたままでしわくちゃのシャツにアイロンをかける。
どうせこのシャツも1日着れば元どおりだ。
朝食は時間がないので食パンを焼かずにかじる。
目が覚めてからの行動はもはテンプレートになってきた。
そしてそれに馴染んでいる自分がいる。
「行ってきます」
だれも送る人のいない空虚な1Kに呟く。
この1Kが今の住処。唯一の自分の為だけの場所。
家を出てからも変わらぬ景色が広がる。
まるで寂しさを紛らわしたいと言わんばかりに立ち並ぶ家々、その下には完全に舗装された道路。
四季を感じるのはせいぜい食べ物か気温くらいのものだ。
駅まで歩いて向かい、その時点でスーツの下には汗がにじむ。
ぞろぞろと同じ境遇の人々が集まる。
鉄でできた道を出勤用車が出迎えてくれる。
車内はすし詰め、身動きを取る暇もない。
出勤前というのは、大学生の時のバイトもそうだったが、どうしてこうも憂鬱な気持ちになるのだろうか。
実際出勤してしまえば、1秒の休憩を求めるほどに慌ただしく時間が過ぎるのに。
会社のある駅に着く。
大勢の人が押し合いへし合いしながらホームへと流れ出ていく。
思い返せば最後に四季を自然で感じたのはいつだっただろうか。
夏にはカブトムシが採れ、川や森で何時間でも遊んでいられた。
冬は雪が降り、友人みんなと集まって雪だるまを作った。
そんな無邪気な遊びは中学生までだっただろうか。
高校生で始めて訪れた東京。当時はこんなにたくさんの人がいて、こんなにたくさん遊ぶ場所があって、まるで夢の中にある街のようだ!
と思ったのはよく覚えている。
それがきっかけで必死で勉強をして東京の大学に進学した。
「本当にここが夢の中の街なのか?」
と自問自答している暇はない。
今日も仕事が始まるのだ。
サラリーマンというのは夢や希望を手に入れる仕事ではない。
特に俺のような大企業の下っ端も下っ端、営業マンならなおさらだ。
実家には毎年正月に年に一度ほど帰っている。
正月に見える景色はせいぜい草木のなくなり、生物の気配さえもしない山々。
まあそれも東京の自然さえも感じない環境よりはマシに思える。
今日も上司への深々とした挨拶から仕事が始まる。
自分よりも長く仕事をこなし、経験を積んだ相手に敬意を示す。
サラリーマンだけでなく社会人なら当然の行動だ。
慌ただしく過ぎる時間、こなせる見込みがないほどのノルマに追われる。
俺の1日はそうして過ぎていく。
家に帰る頃には11時近く、飲み会に付き合わされると終電ギリギリでの帰宅になる。
ふと普段は目もくれないようなものに目が向いた。
俺の部屋の壁にかかっている中学校から今までの友人との写真が飾ってあるコルクボード。
昔の友人たちは皆日に焼け、手に川で撮ったアメリカザリガニを持っている。
一方で大学での俺の写真は肌の色も白くなっており、幼少の頃よりもひとまわり小さく見えてしまうほどに覇気がなくなっている。
田舎から出てきて大学に入り、初めての東京生活。
俺は新しく出会うゲームセンターや、アニメに没頭した。
イベントでわざわざ朝の4時から起きたことも珍しくない。
田舎での遊び相手だった自然環境は、いつのまにか都会的なゲームやアニメに取って代わられていた。
「田舎に帰りてえなあ・・・」
一人しないない1Kの部屋で呟く。
今日来て汗が染み込んだワイシャツ、大学生時代に集めたゲームのコレクションやアニメのDVD、乱雑に積み重なりシンクに置かれた食器。
これが今の俺の全てなのである。
そして今後の俺の全てなのかもしれない。
もちろんゲームやアニメは最高に面白い。オンライン対戦で夜が開けるまで友人と競い合い、アニメのイベントでは一日中いたって飽きることはない。
しかしそれらは東京である意味があるのだろうか。
田舎だってオンライン対戦はできる。イベントは毎日あるわけではないのでイベントの日だけ東京に来ればいい。
幸い俺の実家は山梨にあり、車で東京に来ようと思えば2時間かからずに来ることができる。
「あの温泉まだやってるのかなあ。」
山梨で高校生時代に通った温泉のことを思い出す。
ふと思い出すと体が疼き、無性に入りたくなって来る。
「家の近くの銭湯で済ますか。」
都会ではもちろん温泉なんてものはそうそうない。
ワンコインで景色も楽しめて天然の温泉に入れていた田舎とは違う。
風呂の道具を用意して、短パンを履いて銭湯へと向かう。
最寄りの銭湯までは歩いて10分ほど、歩き慣れている俺には苦痛にならないが、家に来る友人を誘うと10分は遠いと言われる。
銭湯は夜中だというのに人でごった返している。
受付でおばちゃんにお金を支払って中に入ると、ロッカーが空いているのかも怪しいほどの混雑具合だった。
「ロッカーじゃないと行けないなんてのも物騒だよなぁ。」
とどうしようもない愚痴をこぼしながらかろうじて空いていた人に挟まれたロッカーに荷物を入れる。
早く湯に入りたかったので、体と頭を洗い足早に湯船に向かう。
すると、俺の考えをまるで読み取ったかのような会話を隣の先客がしていた。
「一昨日の山梨のツーリング最高だったな!」
「富士山きれいだったし、飯もうまかったな〜」
「あとさっきも話したけど、夜入った温泉!あれは天国だった!」
「そうなんだよな!そのせいで銭湯来ちゃったし!あ〜近くに温泉湧かないかな〜」
この人たちもどうやら私と同じ、温泉が恋しくなってしまった人のようだ。
ただ、その旅人は続ける
「ただ虫が多くて辛いよな。一晩で5箇所くらい刺されちゃったよ。」
「あ〜そうだよな、俺も刺されたとこしみるわ。あとコンビニとか24時間やってくれって思う。」
そう、田舎は不便が多いのだ。
私が正月に実家に帰っても、近くに手軽にご飯が食べられる飲食店があるわけでもなし、ゲームセンターやカラオケも最寄り駅から30分電車、さらに駅から10分徒歩だった。
しかし、この旅人の何気ない言葉がなぜか今の俺には心に刺さる。
「本当に田舎、帰っちゃおうかなぁ。」