幸福を得られないことは、それだけ不幸に成るのと同じ等価の事象である
「貴方は、四倍生きられるなら、どれだけの苦痛に耐える事ができますか?」
「それって、寿命が400年になるって事?」
「だいたいそうです、文明は、まあ、滅ばずに順当に平和に、進むって適当な感じで、生き続けられる前提です」
「だったら、精神の限界まで、拷問に耐えてでも、俺は生きたいね」
突然ですが、世の中には、八十対二十の法則がある。
これは、この世の人間世界の黄金比を保ち、最も世界を面白楽しく可笑しくする為に、ある程度意図的に形作られている傾向法則だ。
これによると、上位20%の人間が、この世の価値の80%を持つ、という事になる。
つまり、平均的な人間の四倍幸福になれるのだ。
幸福とは、全ての価値に変換できる、普遍的な尺度と同義だ。
だから、上位20%の人間は、言ってしまえば、平均的な人間の四倍の時間軸を生きていると、絶対の価値基準的に言い換えることが出来るのだ。
世の中には、普通で良いとし、不幸にならない代わりに、幸福にも成れなくていいとかいう、馬鹿な輩がいるが、それは間違っている。
幸福に成れないは、イコールで不幸でもない、ではないのだ。
純粋に、人間の絶対で普遍的な、極限まで理性的な見方をするのならば。
ある一定総量幸福に成れなかったは、イコールで同量不幸になったのと同じ意味なのだ。
分かりやすくお金で言えば、一億円を手に出来なかったのは、差し引き0にはならず、負債を一億抱えたのと同じ意味という訳だ。
逆に考えれば、より分かり良いかもしれない。
一定量不幸に成らなかったのは、つまり一定量の幸福である、この方が分かり易かったかもしれない。
だから、一定量幸福に成れなかったのは、イコール一定量不幸に成ったのと同じだ、ということ。
何が言いたいかというと、上位20%に成れない不幸は、直接的に不幸として感じれないが、確かに存在するという事だ。
彼が言うように、幾ら拷問を受けても、良いと思えるほどの、極端な幸福を逃す。
明け透けに言ってしまえば、上位20%に至れなかった人間は、拷問を受けるほどの不幸だけを味わって、死ぬのと同じだという明確な事実があるだけだというわけだ。
直接は感じれない、極端な幸福を失い、場合によっては、直接的に感じれる極端な不幸にも見舞われるかもしれない。
だから、どう考えても、人間は上を目指し続けないといけない、拷問を受けるほどの不幸を避けて、同量の幸福を掴む為に。