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もぎとるべき果実

作者: 明宏訊

彼は落とし穴にはまったことを、不覚だったと後悔している。

しかし落ちる瞬間に安心感がふつふつと自分の中で湧いてくるのも同時に感じていた、

本当にこのような場所に落とし穴があることを予知できなかったのか。

そう予測できても無視しただけではなかったのか?

騙されてやる、というのはある意味、偽善だという誹りは予期している。

思わぬところから攻撃の手が伸ばされて、シャツの裾を摑まれたのは事実だ。

それに引っ張られて、いつの間にかドツボにはまっていた。

しかしそれは必ずしも不快ではなかった。

自分を落とそうとする人物の思惟が、たとえそれが敵意であったとしても嬉しかったからだ。

とにかく誰かの思惟が自分にまとわりついているというだけで、自己確認ができた。

このような手口にはまってしまった。

その特定の人物の思惟に彼は完全に絡め取られてしまった。

寝ても、醒めても、彼女のこと以外は考えられなくなった。

そのような感情に名称をつける段階においては、すでに抜けられなくなっていた。

落とし穴の底に完全に絡め取られてしまった。しかも両足は漆喰で固められて、やがては床そのものになってしまった。はたして、足が床と同化したのか、その逆なのか、わからなくなったのは、彼女を目にしてわずか2日目のことだった。

彼女は無意識のうちに誰かを求めているように見えた それが自分であることに彼は疑いを入れなかった いや、わずかに疑っていたのかもしれない。

それでも自分に騙されてやることにしたのだ。

そう思い込むことで、いま、自分がしていることを正当化できるような気がしたからだ。

行為を特定の名称で呼ぶことを彼は好まなかった。

言語を習得する前にいつのまにか退行していた。

言葉はすでに必要ない。

認識以前に身体が動くのだから、何の理屈付けが必要だろう?

寝ても覚めても、頭の中は彼女のことだけなのだから、すべきことはたったひとつ。

彼女は彼を求めて、彼はそれに応じる。ただそれだけのことだ。

他に重要なことはない。

もぎ取る以前に、果実が熟するのを待てばよかったのだろうか?

彼はそれを待てなかった。

ただ彼女が生き、やがて死ぬのを見守るだけでよかったのに、それでは我慢できなかったのだ。

果実は、熟するという、一種の腐敗を迎えるのならば、なお美しいままで、自らの手でもぎ取りたいと考えた。

だが、しかし・・・・。

これは偽善だろう。

彼女が自分に対して何も思うはずがない。

何となれば一度も出会ったことがないのだから。

殺意へと自分を導く手段は簡単だった。

彼女が他者と言葉を交わしている様子を自分に対して、

目の当たりにさせればよい。

言葉を交わすとは、心を交わし合うことだ。

自分以外の誰であっても、そのようなことをするとは許せなかった。

だから、そのときを待った。

彼女が登校するために家を出て、友人と待ち合わせをする瞬間を狙えば良い。

おそらく自分は怒りに打ち震えるだろう。

そして用意した刃物を手にして、彼女の心臓に向かってひた走るにちがいない。

医学的知識は完備している。

何処をどう刺せば苦しみを与えることなく自分のものになるのか?

おもえば、彼女を視覚によって捕捉するはるか前、

医者になろうと決めた小学生のころ、すでに落とし穴への道程は決められていたのかもしれない。

果実をもぎ取るために医学部に入ったのだ。

彼は与えられた知識を物の見事に活用してくれた。 彼は見事に心臓を刺した。

その瞬間に、彼に感謝の気持ちを伝えてなり変わった。

刃物から伝わる衝動は、最後の鼓動だったのか。

しかし彼女の友人と思われる下品な悲鳴と、それに感化された人々の同様と、そして、不快きわまりないサイレンの音が彼を苛んでいた。

だが目的を達成したいま、そのようなものは彼の敵ではない。

サイレンの音がどれほど悲しい過去を想起させようと、

そうだ、医学部を目指すことを決めたのは、

幼い彼の面前で親族が命を落とした。

救急救命医の不手際でその人物は命を落とした。

そんなことを防ぐために自らが医者になろうと考えた。

しかし今となってみれば、親族の死は色褪せる。

それも落とし穴への道程にすぎない。

その証拠に幼い弟の顔はすでに記憶の海から取り出すことはできない。

不逞な暴力集団によって、美しい儀式のエンディングは土足で踏みにじられた。

彼らの黒い警棒は、彼女の美しい容貌をも弟のようにできるだろうか?

そうなったらそうでもいいと、

持前のあきらめのよさが働いて、記憶の海が自分の底に沈めてくれるかと思った。

しかし事実はそうではなかった。

こうやって、被告席に座らされてもなお、検察官が彼女の名前を言うと、

その容貌は具体的に彼の脳裏に蘇ってきた。


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