最新の研究成果も併せてつまびらかに解き明かす
あなたは見るだろう。明治拳法界に巨大な足跡を残した、大村流拳法の真実を。
明治の拳法界に不朽の名を刻んだ、大村流拳法。しかし、その始まりは、平坦ではなかった。
ここに、明治の名審判、加藤康一氏が渾身の力を込めて著した巨冊『大村流拳法の真実』がある。今からこれを紐解き、大村流拳法がいかなる流派だったか、明治拳法界にいかに重大な影響を及ぼしたかを、検証しよう。
拳法は、古来人類に愛された最も基本的でかつ一般的な格闘術であろう。
明治期に入り、拳法界にも欧化の波が押し寄せた。ボクシングやレスリングの技を取り入れるべきだという主張、剣術や柔術を併せた総合格闘技を目指すべきだという主張など、拳法界は、揺れに揺れた。
やがて、拳法界は、レスリングと相撲の技を取り入れることに決した。土俵に見立てた一角を作り、その枠の中で試合をする。一礼した後、レスリングの始まりのようにまず両腕で頭と頭をぶっつけ組み合う。そして頃合いを見て、投げを打ち合う。腰から上が先に地面に着いたら、負けという単純なルールである。要するに、拳の打ち合いの要素が薄れてしまった。
そのことを意識してか、やがて拳法試合は、組み合った後、投げを打ち合うまでに相手の腕をいかに自分の腕で押さえ込むかという、いわゆる相撲でいう差し手争いに、重点がいくようになった。観客が派手な差し手争いを歓迎したために、やがてどちらが先に地面に着くかよりも、差し手争いで優位に立ったことが評価されるという奇妙な事態になった。
この頃、大村流拳法は、拳法界の片隅にひっそりと存在していた。差し手争いを不得手としたために、その名が拳法界の表舞台に出ることはなかった。大村流拳法は、明治期になってから創始された歴史の浅い拳法流派である。
創始者は、大村左門といい、元紀州藩士。東京麻布の小さな長屋を買い取り、拳法流派を旗揚げしたのが、明治9年4月のことだった。宣伝文句は、元紀州藩の剣術指南役というものだったが、もちろんウソである。左門の家は地方役人に過ぎず、しかも陪臣(正規の藩士の家来)だった。下級藩士であった。このとき左門は40才。士族への風当たりが日に日に強まる頃だった。
全財産をなげうって始めた拳法塾も、最初から全く流行らなかった。拳法だと道具が要らないから誰でもすぐ出来るという宣伝文句は、それはそうだが、反面実力差が歴然と出てしまうのだった。塾生は、わずかに4名という体たらくである。
もう塾を閉じようかというある日「入門したい」という希望者が現れた。松平小次郎と名乗ったそのおとこは、年の頃20~25才だが、ひどく老成したかのような雰囲気の不思議な青年だった。聞くと、元旗本で、柳生流剣術のたしなみがあるという。身のこなしに無駄がなく、鍛えられた身体だった。逸材だっ。しかし、残念なことに、左門に拳法を教えるスキルがなかった。宝の持ち腐れ…と思ったとき、小次郎が「ご心配なく。自分なりに研究しますから」と。小次郎に、何やら曰くがあるように思えた。何かをやろうとして、拳法界の片隅にある閉鎖寸前の流派を選んだのだろうか。とにかくも、我が拳法塾の救世主だ。身元も確かだ。何とも有難いことだと、左門は素直に歓迎した。
この松平小次郎が、後に明治拳法界に巨名を轟かす大村小次郎という人物になるとは、左門は知るよしもなかった。ただ、この松平小次郎とて、拳法は、畑違いだった。柳生流剣術に無刀術というものがあるらしい。しかしそれとて、剣術が基本としてあるがゆえの技術だった。小次郎は、四苦八苦した。純粋に拳の打ち合いだけなら、小次郎の身体能力から上達は早かった。しかし、現状の拳法界は、不毛な差し手争いに終始していた。剣術は、勝負の世界である。そこに生きてきた小次郎にとって、勝負をそっちのけにしたやり方は性に合わぬのも、仕方なかった。
小次郎が入門した後も、大村左門の拳法塾は不振を極めた。塾生が辛うじて4名から減らなかったのは、小次郎が彼らに剣術を教えていたからだった。拳法塾で剣術を教えるとはお笑い草だが、あながち無駄でもなかった。剣術にしろ、拳法にしろ、およそ格闘術という点では変わらなかったからだ。剣術者に特有の身のこなしが、彼らにも次第についていった。このことも結果として、大村左門の拳法流派を拳法界の頂点に押し上げる隠れた力となるのだった。
だが今のところは、拳法界で為すことはほとんどなかった。小次郎が入門して3ヵ月を過ぎようとする頃に、小次郎が突然「今の拳法界をただす。あるべき姿に」と言い出す前までは…




