白梅は薫る
部屋に置かれた瀟洒な造りの文机の上で凛然と咲き誇る白梅を見て、七姫はほぅ、とため息を漏らした。
兄から贈られた白梅の枝はちょうど花盛りといった風情で、部屋にえもしれぬ梅の香りを放っている。香を焚いてこの香りをかき消すのも無粋な気がして、おそらく今日しばらくは香炉の出番はないだろう。
そんなことを考えていると、不意に名を呼ばれた。
振り返ればそこに立っていたのは見慣れた七姫付きの女官。
「七姫様」
「どうしましたか」
「……工部侍郎様がお見えです」
「崔侍郎が?……客間にお通ししておいて下さいな」
「……かしこまりました」
不承不承といった様子の女官に七姫は苦笑した。
養母である王妃から七姫の世話を任されている女官達は、今あがった名前の主をよくは思っていないようだ。
(決して悪い人では、ないのだけれど)
七姫が女官達や異母姉達から聞かされていたような、世の男によくあるという乱暴さも粗雑さもない。
まだ両の指で足るほどにしか顔を合わせていない七姫にも丁寧に接してくれている。
ただ、女官達が客人を──七姫の縁談相手である崔侍郎をよく思っていないのは別の理由のためであるのは七姫にもよく分かっていた。
それでも七姫は崔侍郎の相手をすべく、客間へと向かった。
しかし七姫は目の前の崔侍郎に対し、どう対処していいものかと困惑していた。
目の前で穏やかな笑みを絶やさない、長身の男は目下進められている彼女の縁談の相手、つまりは将来的に夫になる可能性が高い男ということになる。
普通ならばお互いのことを話すだとか、文化的なことを話すだとか、そうやることで親睦を深めたりするのだろう。
しかしよくも悪くも、七姫が今まで親しく話したことのある男といえば異母兄である蓮隼──太子や、他の異母兄弟の他にはほぼいないと言っていい。それに七姫は兄弟姉妹の中では比較的聞き役に徹することが多かった。
──要は、どういった話題を選べばいいのか分からず七姫は困惑していた。
そんな七姫の困惑を悟ったのか崔侍郎は微かに笑ってから口を開いた。
「私などがお相手で、驚いておられますか」
「いえ……そのようなことは……」
「無理はなさらず……急なお話でしたから、私も驚きました。その、私は八姫様とは面識がありますが、他の公主様方とはほとんどお会いしたことがありませんでしたし」
「えぇ……」
七姫の縁談の相手である崔侍郎が、八姫の取り巻き──友人であることが、七姫付きの女官達が彼をよく思わない最たる原因であった。
それさえ抜きにすればよい縁談だと思えたのに、というのは三姫の言だが、それにしても七姫はどうして崔侍郎が自分との縁談を承諾したのかが不思議でならなかった。
美貌で知られた正妃腹の四姫や、芸達者と名高い六姫のようにとりわけ何かに秀でているということもない。母も既に亡く、母の父──七姫の祖父にあたる人も権力の座にあるわけではない。むしろ高齢を理由に政治の舞台からは退いている。
そんな自分を王からの話とはいえ、どうして娶る気になったのだろうか。
それが七姫の疑問だった。
「七姫様は穏やかな方だとお聞きしておりましたが、本当に穏やかなご様子で」
「そのような……小さい妹達とよくおりますので、そのように見えるだけでございましょう」
「妹姫様達に慕われているご様子は拝見させていただいておりますよ」
「まだまだ及ばぬ身です」
穏やかに笑う崔侍郎は切れ者、といった雰囲気ではないが、どこか人を安心させるような空気を持っている。
日向ぼっこをする犬や猫のような、そんな雰囲気だ。
体は大きく、七姫の兄達の誰よりも大きいだろうに、不思議と威圧感を覚えることはない。
面白くもないだろう七姫との話を嫌がるそぶりも見せずにしてくれるのはありがたかったし、崔侍郎の話す市井の話はまた新鮮だった。
「──そうですか、市井ではそのようなものが流行りですのね」
「こういった話はよく?」
「いいえ、幼い頃は二の兄様がよくして下さいましたが、最近はお会いすることも少ないですから……一の兄様もお忙しい身ですし」
「私でよければまたお話いたしましょう」
「ありがとうございます」
妹達にも話してやろう、と思いながら礼を述べた七姫に、崔侍郎は照れくさそうに笑う。
ここまで長く話したのは初めてだが、七姫には上手くやっていけそうな気がしていた。
王妃や姉達、蓮隼は心配してくれていたが、この人ならば大丈夫なのでは──そう思えた。
そろそろ、と暇を申し出た崔侍郎を見送って、七姫は拍子抜けしたような顔の女官から途中のままになっていた刺繍を受け取った。
針を差しながら、女官に崔侍郎をどう思ったか尋ねてみる。
「あの八姫と親しいのですから、もっと乱暴な方かと思っておりましたわ……」
「そうね、でもいい方だったわ」
「姫様にはもっといい話があるはずですわっ、あの方、乱暴であくともちょっと抜けてそうでした。前にいらしゃった時は八姫に先に会っておられたようですし、もっと姫様への配慮をするべきです」
「そう……」
男は時間をかけて見極めるべきなのです、と言い切った女官に笑って、七姫は手元に集中した。
今仕上げているのは手巾に白梅の刺繍を施したもので、兄の蓮隼に先日の白梅の礼として贈るつもりだった。実用的な細々とした品ならば、兄の迷惑になることもないだろう。最も、このような手巾は腐るほど持っているだろうが。
最後の一針を刺して糸を切ると、七姫は刺繍のなかなかの仕上がりに満足して、女官に手巾に火熨斗をあてるよう頼み、目を閉じた。