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篠原兄妹シリーズ

ストロボ

作者: 柏木一木

 四畳半の部屋。

 団地に暮らしていた僕が、子供部屋と称して兄と一緒に使っていた部屋の広さだ。

 だけど、二人だからといって、そのまま綺麗に二等分されるというわけではなかった。

 兄とは七歳も離れていた。

 この七年という時間は大きい。あとから生まれてきた僕が物心をつく頃には、兄の使いやすいように部屋の間取りは作り替えられていた。

 僕の立場といえば、日本に働きに来た海外労働者のようなものだ。勉強机や本棚は使わせて頂くという謙ったものでしかなく、自分のスペースといえるのは二段ベッドの上部だけ。

 僕はそれでも構わなかった。

 だけど、一つだけ許容できないことがある。


 うちの家は経済的に苦しかったわけではなかったけど、あるもので済ませる生活をしていた。そのため、僕の周りにある物は兄からのお下がり。つまり、僕が着ている服は何年も前の流行物ばかりだ。

 兄は服装に関して無頓着であったから、格好悪いものがいつも僕に流れてくる。

 親に文句を言っても世代が違えばセンスや考え方も違う。判ってくれなかった。

 歳を重ねるに連れて不満が大きくなり、兄がいなくなればいいと神様に祈ったけど、どうやら僕の願い事を叶える気はないらしい。それとも、神様は死んでしまったのだろうか。それとも不公平なのか。

 僕が大学受験をする頃には、兄は大学を卒業し、不況といえど就職をしていたはずだった。しかし、内定を一つすら貰えず、流行のフリーターとなって家に居着いている。真っ当にアルバイトをしていればいいものを、ことある毎に店長やバイト仲間と喧嘩して、今は家でダラダラしている。

 いつまで経っても、四畳半の部屋には僕の居場所がない。

 そんな僕が大学を選ぶ規準として自宅通学ができないくらい遠く、それでいて文句のない大学を選んだのは場所を選んだのは当然ななりゆきだった。

 参考書とシャープペンシルを持って、勉強を勤しんだ。そんな努力のかいがあったのか、第一志望は色気を出しすぎて失敗はしたけど、とある大学に進学することが決まった。

 そのことを踏まえて、一人暮らしをしたいという意見と、それに合わせたプランを提出して説得をした。初めは反対をされるかと思ったけど「いいんじゃないの」と簡単に肯定されて、少しだけ肩透かしに感じた。でも、嬉しかった。

 四畳半から一気にグレードアップして、フローリングされた九畳の板間にこの春からは住むことが決まった。

 実際に一人で暮らすとなると、いろいろな物が必要になってくるのは判っていたけど、いまひとつ何が必要で何が不必要なのか判らなかったので、卒業する前、高校のコンピューター室に潜りこみ、インターネットで調べてみることにした。

 その結果、洗濯機はコインランドリーが近くにあれば十分、調味料はしょう油と塩の二つでそれなりの物は作れるなど、エトセトラ。今まで必要だと思っていたものは、あるならばそれに越したことはない程度の、大して必要でないことを知った。

 今まで、物に対して欲しいという願望はあったけれど、無駄な物をあえて手に入れるまでは至らなかった。そうした結果、新しい部屋には閑散としたものとなった。

 テレビとテーブルくらいしか、目を引く物がない部屋の中で、たった一つ自分のワガママを通したものがある。

 それはミシンだ。


 招き入れない限り見られることのない部屋ならば、例え汚かろうが気にすることはないだろう。だけど、僕という個人は外を歩けば、他人の目に晒される。勿論、それなりの恰好をしていれば、ドラマで言うところ通行人Aのように気に留めることはないだろう。

 その事は判っていても、今まで兄の着ていた洋服を着せられていたので、僕が僕ではなく、兄の使い捨てられた皮を被った人間のような錯覚を抱いていた。

 虎の威を借る狐ではなく、就職もせずに家で安穏としている駄目な兄の皮を被った自分。それを払拭したかった。

 中学、高校時代は制服を着用が義務づけられていたのは有り難かった。

 制服ならばみんな恰好だから、自分の格好悪いところを見せずにいられた。たまに、友達を遊ぶことはあったけど、学校帰りである以外、なるべく付き合わないようにした。劣等感を抱くのがいやだったからだ。

 中学校のころから、その事を抱いていて、コンビニでファッション雑誌を立ち読みしては、空想を巡らせるようになっていた。そのせいで、ブランド志向が強くなっていたのが問題なのかもしれない。頭では判っていても、欲しいのはやっぱりブランド品で、関心はそこに集中した。しかし、欲しいと思う洋服は、とても値が張る。もちろん、デザインもさることながら、裏地の部分から、普通見ないところまで目を配り、きちんとした作りであるから、それに対して高い値段がつくの当然である。ただ、それを実際に買うとなると問題だ。

 アルバイトをすることは決めているのだけど、まだ何処にするかは決めていない。

 せっかく大学に進学したのだから、勉強の邪魔にならない程度のアルバイトを選んだとすると、週四日で、一日五時間くらいできれば僥倖だろう。そこから、払われる賃金を考えると、上下を合わせた服を買ってスッカラカン。いくら何でもこれは酷かった。勿論、毎月毎月服を買うわけではないのだろうけど、僕は自分だけの服が欲しかった。

 丁度、母親方の親戚が使わなくなった古い家庭用のミシンがあることを聞いて、譲り渡してくれないかと訊ねた。初めは男が、それも一人暮らしをする人間に不必要だからといって断られた。それでも頼み込むと、要らなくなったら一言いってくれ、と折れてくれて、僕はミシンを手に入れた。


 その時、先を見通してミシンを手に入れた訳ではなかった。いわばマスターベーションのようなもので、自分の望む服が作れるかもしれないという、自己満足でしかなかった。

 それでも、かもしれない、という可能性が僕を突き動かし、講義とアルバイトの合間を縫って、ミシンのペダルを踏んだ。

 それまで、洋服を作るということを家庭科の時間以外にしていなかったのと、決して器用な人間で無かった僕の第一作となる作品は、型紙を無視した、見るに耐えない布きれの継ぎ合わせができあがった。それで作るのを止めようかと思ったけど、かもしれない、がちらちらと頭を過ぎり、ペダルを踏むことを止めることはなかった。

 何が悪かったのかを試行錯誤をくり返していくうちに、型どおりに作れるようになっていた。

 ここまで来ると、作るのが楽しくていって、安物の服を買ってきては模様を付け加えるなどのリメイクをしたり、時にはバラバラに寸断して、一から作り替えたりするようになった。

 気に入ったものは、それを着て大学へ通学した。少し恥ずかしいと思いながらも、今までと違って、自分ということを実感していた。

 この頃になると、ブランド品は自分の作品を作るための手本でしかなくなっていた。初めから、被服系の大学に行けばよかったと思い始めていたけど、その時はここまで洋服を作ることにのめり込むなんてことを考えられるわけがなかった。あくまで趣味と決めて、休日に布問屋を回って楽しむことにした。


 人暮らしを初めて一年経ち、部屋の物の少なさは相変わらずだったけど、様相は一変していた。家庭用ミシンの他に、ロックミシンとカバーステッチミシンの二つほど増え、作った服も押入に入らなくなり、部屋の隅に積み重なっている。昔の作品は手を入れるなどをして増えないようにしているのだけど、さすがに作りすぎていた。

 このままでは捨てるしかないなと思ったが、自分の子どものようにそれは忍びなく感じ、考えた末にフリーマーケットで売ることに決めた。

 出展届けもきちんと出して、あとは売るだけとなったが、自分の作品が評価されるのだろうか、素人に毛が生えた程度でしかないのは判っているけども、そのことを考えるとなかなか床につくことができなかった。


 そして、フリーマーケットの当日がやってきた。

 僕の出展する場所は、通路と通路が交差する人が集まりやすい場所で、ここで手にとってもらえなかったら終わりだと感じた。とはいえ、売るためよりも相手に着てもらうことの方が重要なので、値段は原価かそれに少し色を付けた程度に設定して置いた。

 しかし、フリーマーケットというのは、どうしてこんなにも物が安いのだろうか。

 明らかに原価割れしているようなものでも、当然のように値札が貼られている。それはお古であったり、要らなくなったりしたものだからなのだろうけど、勿体ないとは思わないのだろか。こう考えるのは僕が貧乏性だろう。僕の作品の武器は品質しかない、と心の中で呟いた。

 場所が場所だからだろうか、意外に人は立ち止まって見てくれた。中には、自分で服を作っている人がいて、こうしたほうがいいよ、とアドバイスをしてくれた。勿論、周りと比べると幾分か値段が高いこともあって、値段を安くしてくれいう人は多かったけど、僕は快く了承した。


 終了時間に近づく頃には、残り数着といった程度しか残ってなく、これは大成功といってもいいだろう。顔をにやつかせながら、片づけの用意を始めようと下を向いたとき、女性の声が頭の上から聞こえてきた。


「あー。もしもし」


 顔を上げるとそこには、パンクとピンクハウスを混ぜ合わせたような見たこともない恰好をした女性が立っていた。


「もしかして同じ学校の人だったりする?」


 彼女が言った大学の名前は、僕と同じ学校だった。


「はっはっは。やっぱりねー。そうだと思ったよ。見たこともないブランドマークをつけた人って記憶していたから、たぶんそうじゃないかなーと」


 僕は冗談で、自分が着ることを前提とした洋服に自分のイニシャルをかたどったマークをつけていた。そうすると、なんとなくだけど、自分が作ったぞって自己主張できたから。しかし、まさかそれを見ている人がいるとは思わなかった。自分が変なところで優越感を抱いていることを見られた気がして、凄く恥ずかしくなった。


「しっかしまー。他人に近いとはいえ、多少でも知っている人のお古の服って買う気にはなれないねー。そのシャツとか、結構いいんだけど」


 彼女は、目を細めながら、僕の作ったシャツを手にしてそう言った。少なくとも、その恰好には似合わないだろと思ったが、口には出さなかった。


「いいや。それは、自分で作ったのだから、誰も着てないから平気だよ」

「へー。凄いじゃん。男のクセに服なんて作れるんだ。私なんて、料理もできないよ」


 彼女は驚きましたというリアクションを、両手でオーバーなくらいにして見せた。


「僕だって、料理はそんなに上手くないよ」

「んんー。そんなものなのかな。なんとなく、お母さんの仕事って感じだから、同じ様なものだと思っていたよ」


 彼女はにっこり笑って、持っていたシャツを僕の前に尽きだした。


「いくら?」


 値段を提示すると、ちょっと高いねーと言いながらも、値切ることなくその通りにお金を出した。


「やっぱり、昔からやっていた口なん?」


 彼女は手提げバックに服を入れながら、そう訊ねてきた。


「いいや。一年くらいから始めたばかり」

「へー。それにしちゃー巧いね。尊敬、尊敬。やっぱり、自分が出来ないことを出来る人って素晴らしいね」

「そんなものかな」

「そんなもんでしょ」


 彼女は、いいもの買ったよ、と手を振りながら帰っていった。名前を聞くのを忘れたけど、もう会うこと無いだろう、そんなことを思いながら、初めてのフリーマーケットは終わりを告げた。


 僕の予想は次の日に裏切られた。日本文学の講義を受講しているとき、彼女に出会った。出会ってしまったというの方が適当だろうか。

 この講義は有名な教授が受け持っている関係か、大学の中でも一、二を争うほど大きい部屋で行われている。とはいえ、有名な人だろうと、勉強する気のなく講義を受けている人がやっぱりいて、やる気のある人間とない人間とは席の間に見えない線が引かれているかのように、真ん中はいつも空いていた。

 僕はというと、いつもならばやる気のある人間に属していたのだけど、前の晩、あるインスピレーションが浮かんだデザインの服を、徹夜をして作っていたために遅刻してしまったので、場所が無くなっていた。空いている真ん中に座るというのは結構恥ずかしいものがあって躊躇したが、教室に入ってしまったのを引き返す方が滑稽だったので、邪魔にならないようにこっそりと席に着いた。

 そこに彼女が座っていた。彼女の恰好は、前に見たサイケデリックな恰好から一転してフォーマルなものであった。それだから初めは気がつかなかったのだけど、講義の途中、黒板に書かれている文字をカメラで写し始めるという妙な行動を始めたので、気になって横を向くと彼女であることに気づいたというわけだ。


「あれ、あんたは」


 彼女も気づいたらしく、僕は小さく会釈した。


「いやだなぁ。なんでこんな時にいるのよ」


 なんのことだか判らなかったけど、すぐに合点がいった。フォーマルな恰好をしていると思ったけど、中に着ているシャツは僕の作ったものだった。


「似合っているからいいんじゃないの」

「それは、皮肉? それとも自惚れ?」

「いいや、両方」


 あんたねぇ、と頬を膨らませながらも目は笑っていた。その時、教授が黒板に書いてある内容を消して、新しいことを書き始めたので、一時彼女を無視するようなかたちとなった。彼女はというと、なにをするわけでもなく、目を細めながら黒板が書き終わるのを待っているように見えた。


「書かなくても大丈夫なの?」

「これがあるからね」


 先程使っていたカメラを僕の目の前に出した。よく見ると、ファインダーの下に、液晶モニターがついていて、それがデジタルカメラであることがわかった。


「結局、ノートに書くことになるんだろうから、あんまり意味ないんじゃない?」

「それもあるんだけどね。わたし、目が悪いんだ。一番前にいてもうっすらとしか黒板の文字が見えなくてねー。高校時代は、教科書の内容をひたすらなぞるだけだから問題なかったんだけど、大学に入ったら、いやはや。困ったものよ。だから、暫定案としてカメラを使うことにしたわけ」


 とんでもない思考の飛び方だった。考えてみると、初めてあったときも衝撃的だったし、寧ろ彼女らしいかもしれない。


「眼鏡とかコンタクトとか使う気にはならないの?」

「まさか。あんなの邪道だよ」

「眼鏡会社に恨みでもあるの?」

「質問ばっかりされているなぁ」

「前は、僕の方が質問されていました」


 人の揚げ足をとるなんて人間出来てないぞ、と言いつつも、彼女は話し始めた。講義は、彼女の話を邪魔する雑音でしかなかった。


「単純な話よ。眼鏡をつけたまま事故に遭って、その割れたレンズが眼球を突き刺さって失明をした兄弟がいたから。それだけ。だって、滑稽じゃない? 視力が低下したから眼鏡をつけているのに、そのせいで目が見えなくなったんだもの」

「気持ちは判らなくもないけど、事故に遭い、その上で失明するなんて確率かなり低いと思うけど」

「ま、それもそうなんだけどね。だけども、わたしは駄目。一度、間近で見ちゃったからね。目から血をダラダラ流すところを。気分はスプラッタって感じよ」


 彼女は冗談を交えながら話していたが、その記憶は今でも心に焼き付いているのだろう。もし、兄がそういう状態になったとしたら、どうなのだろう。幾ら考えたところで想像つかなかった。愛情が足りないのだろうか。


「ま、気にしなくていいってことよ。潰れたのが片目だしね。普通に生活するだけなら問題なし。当事者なんて気にしていないのか、今も眼鏡をつけているしね。わたしがトラウマに感じているのをなんだと思っているんだ」

「そういうものかな」

「そういうもんでしょ」


 二人して笑った。


「この後、暇?」


その後、チャイムが鳴るまで話し続けていた。彼女が手荷物を整理し始めて、帰ってしまうと思った僕は、少しだけ勇気を振り絞って訊ねてみた。

 殆ど初対面と同じ様なものだから断られるかなと思ったけど、「それってデートのお誘い?」って試すような目で僕を見た。


「この後、一つ講義があるから、一時間半後、校門で会いましょう。あー、あんたは家近い? だったら、洋服持ってきてくれないかな? この前、あんまり服がなかったからもっと見てみたいのよねー。そんなわけでよろしく」


 彼女はそういって、教室から出ていった。

 本当は僕も講義があって、サボるつもりで声をかけたんだけど、まあいいやと呟いて、僕は一度家に戻った。彼女に合うような服があればいいんだけどな、と頭の中で部屋にある洋服を思い浮かべた。

 三十分あれば往復できるような距離に家はあったけど、服を選んでいる内に、時間を忘れてしまったらしく、時計を見ると約束の時間を過ぎていることに気がついた。遅刻してしまった。彼女はもういないかもしれないと焦りながら、飛び出すように僕は家を出た。

 校門前に息を激しく吐き出しながら辿り着くと、彼女が塀に寄っかかりながら、退屈そうに待っていた。


「ごめん。家で服を――」


 僕の台詞を覆い隠すように、彼女は手を突き出した。


「言い訳は結構。ごめんって謝れば十分。ま、服を持ってきてって頼んだのはわたしだしね。責任を感じて走ってきたんだから、むしろわたしの方がありがとうを言わないといけない立場っしょ」


 彼女は頭を下げながら、ありがとうと言った。僕はどうしたらいいのか判らず、こちらこそと、訳も判らず頭を下げた。


「考えてみれば、わたしがあなたの家に行けば、こんな問題になからなったのよね。ま、過ぎたことはいいか」


 彼女はブツブツと独り言を呟くと、感銘を得たように指をパチンと鳴らした。


「今からうちにご招待するわ」


 僕が答えるのを待たずに彼女は歩き出した。

 まあいいか、そう思って、彼女の後ろを追いかけるように、僕はついていった。

 その途中、スーパーマーケットに寄ると、彼女は日用雑貨を中心として、無作為に買い物カゴに入れているようみ僕は見えた。


「なに買っているの?」

「この後、本場のカレーを食べさせてあげようと思ってね。その材料を選んでいるのよ」


 そう答えながら彼女は牛乳石鹸をカゴに入れた。


「この石鹸も入れるつもり?」


 彼女は少し思案した面もちで僕の顔を見つめ、


「まぁ、来てのお楽しみってところよ」


 と、笑うだけだった。

 買い物が終わり、僕たちは細い道を縫うように歩いていた。その間、この材料で彼女が本当にカレーを作るのかが気になって、彼女が話しかける内容を半分くらい聞き流していた。

 到着と、彼女は立ち止まり、僕はその建物を見上げた。どうひいき目に見ても、建築うん十年前の木造のもので、台風でも来れば吹き飛んでしまいそうな気がした。


「ボロいっしょ」


 沈黙で答えるしかなかった僕の心境を察したのか、彼女は、大丈夫。伊達に戦後から建っていないわよと、さらに心配させるようなことを言った。

 その家の玄関を開けると、靴箱があってお世辞にも綺麗とはいえない靴が押し入れられていた。一人で暮らすにしては大きすぎたので、オートロック抜きのエントランスなんだろうと横文字で解釈してみた。

 彼女は靴と共に靴下を脱いでから上がって、僕に彼女のだと思われる薄いピンクのスリッパを渡した。


「スリッパ、一足しかないからこれでガマンしてね」


 女性が裸足で、男がスリッパを履くというのは問題あるだろうと思って抗議してみたが、彼女は軽くその意見を一蹴した。


「そういう男女差別は嫌いだし、お客様なんだから気にしちゃ駄目」


 巧く言い返す言葉が見つからなかったので、しぶしぶスリッパに足を通した。少し小さかった。

 二人で階段を上る途中、向かって歩いてくる色黒な男性が彼女に英語で話しかけてきた。彼女も慣れたように英語で返しているのは判るのだけど、何を言っているのか半分も聞き取れなかった。


「彼は同じ場所に住んでいる人なの?」

「いいや、一応ここの建物は女性オンリィだから、男性は住んでいないの。彼は、わたしの隣に住んでいる人の彼氏。女性寮みたいに、男子禁制ってわけじゃないから、ちょくちょう遊びに来ては、ダンスをして帰っていくんだけどね」

「ダンス? こんな場所で?」

「少しでもお金払えば、こんな殺風景な場所でロマンに浸らなくても済むのにねぇ」


 意味を理解したけど、その会話をするには恥ずかしかったので聞かなかったことにした。


「やっぱり、彼女も外国人なわけ?」

「両方ともね。たしか、インド人じゃなかったかな?」

「なら、どうして英語なの?」

「共用語が多すぎるから英語の方が相手に伝わりやすいからでしょ。でも、二人の文法はめちゃくちゃだけどね」


 階段から数えて二つ目のドアに立ち止まって、彼女は口を開いた。


「わたしの部屋、少し散らかっているの。って言いたいところだけど、無理なのよねぇ」


 部屋の中を見て納得した。見慣れた四畳半の部屋なのだけど、間取りはないのに広く感じるのは、何も物がないからだろう。テレビすらなく、あるのは小さな本棚と机だけ。僕も引っ越しした当時は、自分の部屋は閑散としていると思ったが彼女はそれ以上だった。


「ちょっと待っていて」


 そう言って彼女では部屋から出ていった。手持ちぶさたに感じた僕は、何もない彼女の部屋を見ていることにした。

 デジカメを使っているくらいだから、パソコンくらいはあるだろうと見える程度で探してみたけれど何処にもない。というか、この建物の中にパソコンがあるということがとうてい信じられず、勘違いしたのかもしれないと両手を畳みにつけて、背伸びするように天井を見上げた。

 彼女が戻ってきたので聞いてみると、学校のパソコンに繋げてプリントアウトすれば用は足りるから問題ないらしい。そういうもんなのだろうか。


「じゃ、持ってきた服を見せてよ」


 僕は鞄から遅刻するほど考えて厳選した服を取り出して彼女の前に並べた。

 本当ならば、女性用のものもあればよいのだけれど、元々自分が着るために作っていたものだし、仮にスカートを作って所で、サイズを測らせてくれる女性はいなかったので作りようがなかった。

 それでも彼女は喜びながら僕の服を一つ一つ手にとっては自分に合わせた。


「これとかいいんじゃないの?」


 それは、昨日から今日にかけて作っていたブレザーだった。配色は冒険したもので、ちょっとばかり派手に作られている。


「それ、一番の新作なんだ」


 本当のことをいうと、彼女をイメージして作った物だったので、彼女が気に入ってくれたことがとても嬉しかった。


「サイズもちょっと大きいけどぴったり。これ、売ってくれないかな?」

「いいよ、あげる」

「えーでも」

「カレーを作ってくれるんでしょ? それでおあいこということでいいじゃない」


 彼女はちょっとばつの悪い表情を浮かべた。何でだろうと思っていると、ドアを叩く音が聞こえた。


「あれ、誰か来たよ」

「ちょ、ちょっと待って」


 彼女は立ちあがって、ドアを小さく開けた。まるで僕にその人を見せないようにしているように感じたけど、それは考えすぎだろうか。そのドアの隙間から美味しそうな匂いが漂ってきて、僕のお腹は小さく鳴った。


「これって、カレー?」

「あーもう。ばれちゃしょうがないなぁ」


 彼女は諦めたような口調で、ドアを完全に押し開けると、カレーの匂いとともに、色黒の女性がそこに立っていた。


「さっきも言ったでしょ。隣に住んでいる人よ」


 彼女は、サンキューと言って先程買ったものを渡すと、手を振ってドアを閉めた。


「本場のカレーを食べさせるには、やっぱり本場に住んでいた人に作らせるのが一番だしねー」


 お鍋と何かが入ったビニール袋を持ちながら彼女は、独り言のように言った。


「ま、そういうことで」


 テーブルの上に、ドンと鍋を置いた。


「これって、どうやって食べるの?」


 彼女の手料理が食べられないことは残念だったけど、目の前のカレーでお腹を満たせればいいと思った。しかし、ご飯が容易されていないので、食べることができない。どうしたらいいのだろうか。


「あーこれに載せて食べるのよ」


 別に持っていたビニール袋から、厚いパン生地のようなものを取り出した。


「なんなの、これ?」

「ナンなの、これ」


 ギャグを言ったつもりなのか、彼女は一人で笑っていた。こういうギャグは合わせて笑うことが出来ないので辛い。寒い空気に察したのか、彼女は言葉を紡いだ。


「あちらの人は、ナンっていう小麦粉で作ったものに載せて食べるのよ。お米も食べないわけじゃないから勘違いしないでね」


 そういって、ナンにカレーを載せて僕に手渡した。彼女も載せ終わるのを見届けると、頂きますといってかぶりついた。

 本場のカレーというのは、少し粉っぽくて、いつも食べているのと味も違うせいか、正直美味しいとは思えなかった。


「どう、美味しい?」


 どう言ったらいいものかと、噛んでいる振りをしながら考えた末、美味しいよと、当たり障りないように言ったつもりだった。しかし、彼女は吃驚した顔をして、


「本当に美味しいの? わたしは食べて慣れているとはいえ、あんまり美味しいとは思えないのよね」


 と僕の顔を見つめた。その瞳から、本当のことを言いなさいと攻められているような気がしたので、正直に言い直した。


「やっぱりねぇ。日本人には本場のカレーが合わないのか、彼女の料理が下手なのか」

「前者だったら、昔の人はこれを手本にして今の日本風のカレーを作ったんだし、基本的に日本人に合っていたというのが正解なのかな」

「ううん。日本のカレーはイギリスから輸入されてきたものだから、昔の人は本場のカレーなんなんて食べたこと無かったと思うよ」


 その後も彼女のちょっとした蘊蓄を交わしながら、僕たちはナンが尽きるまで食べ続けていた。


「もう、お腹一杯。動けないわぁ」


 彼女はそう言ったかと思うと、突然、外に出ていこうと声をあげた。


「折角、洋服をもらったんだしね」


 着替えるから外で待っていてと、僕を部屋から追い出した。

 待つこと数分、彼女は僕の作った服を着て現れた。「やっぱり、恥ずかしかったなぁ」という彼女の表情はとても綺麗に感じた。

 ふと、彼女のことを写真に撮りたくなった。

 カメラを持っていない僕は、人差し指と親指で鉄砲の形にして、両手で指が辺になるように合わせて四角を作る。その中に、彼女が入るように手を伸ばして、心の中でカチッとシャッターを押した。

 するとストロボがたかれたように、光が包み込んだ、そんな気がした。

 いつからそう感じていたのか判らない。この時は、すでに僕は彼女に完全にいかれたことを自分でも判った。

 彼女の事を知りたい。そう思うと、口が勝手に動き出した。


「そういえば、君の名前はなんていうの?」

読んでくれてありがとうございます。

主人公の名前は自由に決めてください。


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― 新着の感想 ―
[一言] 登場人物のバックボーン(?)ていうか、持ち物や思い出話なんかが書き込まれてると、こちらのイメージが膨らむので読んでて楽しいですね…こうゆうの好きです。
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